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天ヶ谷鏡哉 5

「ご明察、と言っておこうか。けれど、少し違う。父親は物心つく頃にはもういなかったから、ちようを虐待していたのは母親だけだ。恐らく、ちようのこの右目がいけなかったんだろう。母親はこの目を忌み嫌い、ちようをどうしようもなく汚いものとして扱った。そんな、物理的な暴力と精神的な暴力を日常的に受け続ける中、一種の防衛手段として生み出されたのが、私たちだった。どうすべきかを教えてくれるグレイと、つらい記憶の一部を預かってくれる私と、他者や己に向く憎悪を引き受けてくれる迅と、そして、無条件に自分を愛してくれる鏡哉」

 『アレクサンドラ』が言った最後の言葉に、王が僅かに目を細めた。だが、それに気づかなかったらしい『アレクサンドラ』は言葉を続ける。

「そういう、別の人格がいなければ成り立たないような危うい均衡の元、ちようはなんとか日々を生きていた。私たちも、可能な限りちようを支えようと努めた。けれど、十年ほど前に、とうとうその均衡が崩れてしまった」

 そこでひとつ息を吐き出した『アレクサンドラ』は、そっと目を伏せた。

「ちようの母親が、ちようを殺そうとしたんだ。彼女もまた、とても精神を病んでいたから、きっと限界だったのだろう。それまでは我が子を殺すほどの勇気も気概もなく、ただ命を奪わないで済む程度の虐待を繰り返すばかりだった彼女が、あの冬の日は違った。本気で、ちようを殺そうとしたんだ。後はもう、あっという間のことだった。ちようは無我夢中で母親の手から逃れようとし、気づいたときには母親を殺していた。迅が殺したんじゃない。私たちはここで母親を殺せばちようの心が壊れてしまうことを知っていたから、母親を殺さずにこの場を切り抜けるために、迅が表に出るのは防いでいたんだ。……けれど、結果的にはその判断が誤りだったのだろう。私たちが止める間もなく、ちようは、ちよう自身の手で母親を殺してしまった」

「……それで、そのちようとやらはどうなった?」

 そう尋ねた王だったが、返ってくる答えの予想はついていた。

「壊れてしまった。ちようにとっては母親だけが世界そのものだったから、自分がその世界を破壊してしまったという大罪に耐えることができなかったんだ。……だから、ちようはあのときからずっと、深いところで眠り続けている。ただ無条件で自分を愛してくれる存在である鏡哉に助けを求め、全てを押し付けて、誰の手も届かないような場所で、眠りについてしまった」

「ふむ。しかし、その割にキョウヤはお前たちのことを知らぬ様子だったな」

「ああ、そうだな。鏡哉は鏡哉で、突然ちようの記憶や行いの何もかもを押し付けられ、抱えきれないそれに壊れてしまいそうになった。ここで鏡哉まで壊れてしまったら本当にどうしようもなくなってしまう。だから、私が鏡哉から、母親を殺してしまった記憶や、ちようや私たちに関する記憶を全て奪い、生まれた時からその身体は天ヶ谷鏡哉という存在のものだと誤認させるような作り物の記憶を植え付けた。鏡哉を壊さないためにはそれしかなかったんだ。……けれど、私にできたのはそこまでだ。それ以上の、例えば母親に愛されていたと思わせるほどの記憶の改ざんは無理だった。それに、改ざんしたとは言え、鏡哉は記憶を完全になくした訳ではない。ちょっとした刺激で思い出してしまう可能性だってある。だから貴方たちも、鏡哉にちようや私たちのことを言うのはやめてくれ。万が一鏡哉が私たちのことを思い出してしまったら、今度こそ鏡哉は壊れて、ちようまで損なわれてしまうかもしれない。私も、今貴方たちと話していることについては、母親から虐待を受けていたと告白したところだけを真実として残し、他はすべて鏡哉の記憶に残らないようにするから」

 淡々と告げられた内容に、グレイはどこか責めるような目をして『アレクサンドラ』を見た。

「お前、まるでキョウヤを身代わり人形みたいに扱うんだな」

 非難の色を含んだそれに、しかし『アレクサンドラ』は不思議そうな表情を浮かべる。

「それのどこに問題がある? 私たちは皆、ちようのために生み出された人格だ。ちようの役に立つのならば、身代わりだろうとなんだろうと引き受けるに決まっている。それ以上の価値など、私たちにはないのだから」

 あまりと言えばあまりな発言にグレイはなおも詰め寄ろうとしたが、それをレクシリアが制した。

「落ち着きなさい、グレイ。陛下のお話がまだ終わっていません」

 静かな声に諭され、グレイが押し黙る。

「すまんな、レクシィ。さて、それでは話を続けようか。ちようとやらが全てを投げ出したせいでその役目がキョウヤに回ってきたということは理解したが、何故キョウヤだったのだ? 話を聞く限り、お前や『グレイ』のような人格の方が適任だろうと感じたのだが」

「そんなもの、簡単な話だ。鏡哉が一番ちようから愛されていた。だからちようは、鏡哉に助けて貰おうと全てを明け渡した。それだけさ」

「ほう?」

「天ヶ谷鏡哉という人格は、天ヶ谷ちようを愛するためだけに生み出されたものだ。母親からすら愛されなかった子供が、母からの愛情に類するものを欲し、それを与えてくれる唯一無二として、鏡哉を生み出した。だからこそ、鏡哉は私たちのような複雑な役目は負っていない。ただ、ちようを愛し、ちようの傍にいてやること。それだけが、鏡哉の全てだ」

 どことなく強い口調で言われたそれは、牽制だ。そしてそれを受けた王は、柔らかく微笑んでみせた。

「言いたいことがあるのならば、はっきり言うべきだな。私は逃げも隠れもせん」

「……それでは、はっきりさせておこう。鏡哉にとっては、ちようこそが全てだ。貴方ではない。鏡哉が愛しているのはちようだけで、貴方ではないんだ。いや、そもそもそれ以前の問題だな。貴方が恋をしていると言い張っている鏡哉という存在は、命も魂もない、ただの作り物なのだから」

 その言葉は、『アレクサンドラ』にとっては必殺のナイフのようなものだった。事実、レクシリアとグレイは『アレクサンドラ』の発言が持つ呪いを理解し、それが王の抱いた愛情を飲み込んでしまうのではないかと危惧さえした。だが、

「さて、それを決めるのはお前ではないし、私でもないな。故にこの件に関してコメントをするのは差し控えておこう」

 まるでなんでもないことのようにそう言ってのけた王に、さすがの『アレクサンドラ』も一瞬だが呆けたような表情を浮かべてしまった。

「……失礼だが、私の話は理解したのか?」

「したとも。筋は通っているし、お前の様子を見る限り疑う必要はないだろう。さすがの私もまさかキョウヤが主人格ではないとまでは思っていなかったが、それ以外に関してはまあ予想の範囲内でもあった。だが、考えてもみろ。別々だった魂が統合されたか、これから分離するのかは知らんが、十中八九お前たちの魂が分かれる瞬間は存在するのだ。ならば、いちいち人格がどうこうなどと気にする必要もないだろう。元より人格に恋をしていけないという道理もない訳だしな」

「……貴方が何を言っているのか理解できない。人格に恋をしてはいけないという決まりはないかもしれないが、それは自己満足と虚しさしか残らない行為だ。そしてそもそも、ちようを愛するためだけに生み出された鏡哉が貴方を愛することは有り得ない。それこそ、人格がどうこう以前の問題だ。貴方の言う恋は、始まる前から成就しないことが決定している」

 今度こそはっきりと言い切った『アレクサンドラ』に、しかし王は不思議そうな表情を浮かべた。

「お前のその自信がどこから来るのか全く判らんのだが、どうしてそう言い切れる? 仮にキョウヤがちようとやらを愛するために作られたとして、寸分狂わずその通りになる保証などないだろうに。元より生き物というのは、思い通りにはいかないものだ。だからこそ、創造主であるちようの意向に反してキョウヤが私を愛してしまうことは、ごく普通に有り得ることだろう」

「貴方こそ、その自信はどこから来るのだろうな。何度も言っている通り、鏡哉は生き物ではなくただの人格だ。作り主の意向に沿う行動をしない筈がない」

「なるほど、言われてみれば確かに、私のこの自信は一体何なのだろうなぁ」

 首を傾げてみせた王に、思わずグレイが、こいつ馬鹿なのかと呟きを漏らしたが、普段は咎めるはずのレクシリアも同じことを思ったらしく、彼は少しだけ虚空を見つめるような疲れた表情を浮かべていた。

 始めこそ王を案じていた二人だったが、ここまで来るとその心配が馬鹿馬鹿しいものだったということが嫌でも判ってしまう。王は至って普段と変わらない様子で、相変わらず己の発言に自信を持っている。つまるところ、たかだかこの程度のことで動じるような恋はしていないということなのだろう。多分。

 愛情深いと言ってしまえばそれまでだが、これはどちらかというとやっぱりただの大馬鹿なだけなのではないか、とグレイは思った。

 そんな二人の心情を知っているのか知らないのか。王は暫し思案するような素振りを見せた後、ああ、と言って『アレクサンドラ』に向かって微笑んだ。

「根拠だとか証拠だとか、そういうものが必要な難しい話ではない。キョウヤと話し、お前と話し、お前たちの役割を知った。そしてお前の話を聞く限り、お前たちはそれぞれがそれぞれに思考し、自身が真とすることを実行しているのだろう。だからきっと、私はただ、そんなお前たちを個々の生命として認識しているだけなのだ。そしてひとつの命である以上、思い通りにはいかないのもまた道理だろう?」

 魂がひとつだろうと、作り物だろうと、その身体に入っている人格の全てを個としての生命と認めようと。王が言ったのはつまり、そういうことだ。そして『アレクサンドラ』が王の言葉の意味をはっきりと理解しきるよりも早く、『アレクサンドラ』とグレイは、どこかで何が割れるような音を聞いた。

 その瞬間、『アレクサンドラ』が纏っていた空気が一変する。王は勿論のこと、レクシリアもグレイも、今度はそれがどんな現象だかはっきりと認識することができた。『グレイ』が現れたのだ。

 突如表出した『彼』は、凄まじい形相で王に飛び掛かった。それを、レクシリアが咄嗟に風の魔法で拘束する。

 身体を縛る風を振りほどこうともがきながら、『グレイ』は王に向かって叫んだ。

「オレたちに一体何をした!?」

 まるで憎悪の全てを込めるような声は、いっそ呪いじみていた。しかし、それを正面から受け止めた王は、僅かに目を細めて首を傾げる。

「なんのことだ?」

「とぼけるな! お前が、お前のせいで! ちようが!!」

「いいや、私は何もしていない。ただお前たちの一人と会話をしていただけだ」

 落ち着いた声でそう諭した王だったが、『グレイ』の興奮が収まることはない。これは時間をかけても無駄だと判断した王が、『グレイ』に歩み寄る。そして王は、もがく彼の右目を覆っている眼帯をそっと外し、至近距離でその異形の瞳を見つめた。

 途端、見る見るうちに少年の表情が蕩けていく。どこかぽーっとした顔で王を見つめていた少年が、小さく唇を開いた。

「…………きれい……」

 そう呟くと同時に、少年が意識を手放す。くってりと力が抜けた少年を見て、王はレクシリアに魔法を解くように指示した。

「最後の癇癪についてはよく判らないが、それ以外のことは概ね判ったな。これでグレイも少しはすっきりしただろう」

 少年を抱き上げてそう言った王に、グレイが頷く。

「ええ、お陰様で。……まあ、ある意味これだけ複数の人格がいるっていうのは良いことなんでしょうね。それぞれに得意分野があるみたいですし、キョウヤひとりよりは危機回避能力も断然上がるでしょう。魔術も、キョウヤは不得意みたいですが『グレイ』の方は得手のようでした」

「そうだな。少なくとも当初想定していたよりは守りやすくなったのだろう。……では、私はキョウヤを連れて自室へ下がる。お前たちもこの騒ぎで疲れたろうから、仕事を済ませたら早めに休むと良い」

 そう言ってさっさと部屋を出て行ってしまった王の背中を見送ってから、レクシリアがはっとした顔をした。

「流れで見送っちまったが、あの野郎まんまと仕事サボる気だな!?」

「まあ、大義名分を得てしまいましたからねぇ。今日ばかりは仕方ないんじゃないですか?」

 グレイに言われ、レクシリアが盛大な溜息を吐く。確かに、今回の件は王なりに思うところがあるだろう。そう考えると、少年と二人きりになれる時間は必要であるように思えた。しかし、だからといって執務が待ってくれるわけでもないので、結局王がこなせなかった仕事を可能な限り肩代わりしなければならない宰相は、がくりと肩を落とすのだった。

 そんなレクシリアを見て少しだけ笑ってから、グレイは内心で首を傾げる。

(あの何かが割れるような音は何だったんだ……?)

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