天ヶ谷鏡哉 1
冷えきった目でこちらを見る少年が、片眉を上げて首を傾げた。
「聞こえなかったのか? なんでテメェがちようを知っているんだと訊いているんだ」
少年の問いに、グレイはいまだ困惑する頭を叱咤して働かせる。どうやら彼は“ちよう”の名に強く反応しているようだが、現状ではそれ以上のことは判らない。天ヶ谷鏡哉、いや、『彼』にとって、ちようとは何なのだろうか。
とにかく、『彼』の意図が判らない以上、うかつに問いに答える訳にはいかない。
(そもそも何なんだこいつは。……帝国の手の者が、何らかの魔導でキョウヤに憑依した? いや、それならオレにかまけていないでさっさと逃げる方が良いだろう。そもそも、わざわざオレに正体をバラすような真似はしねェ筈だ)
ならば、これは帝国の一件とは全く関係のないことだとでもいうのだろうか。そんなことを言い出したら、考えられる可能性などそれこそ何百通りもある。実質的に手詰まりと言って良いだろう。
『彼』に対する警戒を強めつつ思考していたグレイだったが、そんなグレイに『彼』が僅かに目を細めた。
「なるほどな。飽くまでも答えねェつもりか」
グレイの沈黙を拒絶として受け取ったらしい『彼』が、足元に転がっていた硝子のコップを拾い上げる。
「それならそれで構わない。力づくで吐かせてやるよ」
そう言って『彼』は、持っていたコップを地面に叩きつけた。その行動の意味を察したグレイが魔術を展開するよりも早く、割れて飛び散った破片を右手で器用に掬い上げた『彼』は、グレイに向かって跳躍した。そのまま一瞬でグレイとの距離を詰めた『彼』が、右から左へと硝子を奔らせる。
(――ッ、速い!)
とっさに後方へ回避行動を取ったグレイの左腕を、硝子の切っ先が掠める。初手をなんとか躱したグレイだったが、今度はその右腹目掛けて蹴りが飛んできた。魔術式を組み上げる暇すらないそれに、グレイはすぐさま右人差し指の指輪を親指で叩いてから『彼』の蹴りを掌で受け止めた。瞬間、小さな風の盾のようなものがグレイの掌に現れ、『彼』の蹴りを弾き返す。
(クソッ、またえらく重い蹴りを出しやがる!)
指輪に転写した術式だけで発動した簡易的なものだったとはいえ、風の盾を発動してもなお腕を痺れさせた蹴りに、グレイが内心で悪態をつく。だが、そんなことをしたところで『彼』の攻撃が止むわけではない。
休む間どころか魔術を発動させる暇すらなかなか与えない『彼』に、グレイは舌打ちを漏らした。なるほど、座学にてグレイが教育したことをよく学んでいたらしい。魔術の弱点のひとつは、魔法や魔導と比べると発動までにかかる時間が長いことだ。故に、今のような猛攻にはめっぽう弱い。グレイほどの腕前ともなれば、魔術具のみで発動できるような簡易的な魔術であればほとんど予備動作なしで発動できるが、現在身に着けている魔術具で戦闘に使えそうなものはほとんどない。
そもそも相手が天ヶ谷鏡哉の身体である以上、中身がどうあれ極力傷つけないようにすべきなのだ。仮に何者かが憑依しているのだとしたら、天ヶ谷鏡哉自体には何の罪もない。無論、本当にどうしようもなくなったならば多少の怪我をさせてでも止めるつもりだが、今のグレイの力量と相手の力量とを鑑みるに、手心を加えた反撃でどうこうできるような相手であるとは思えなかった。
(これでもそれなりに鍛えてるつもりだったんだが、体術はこいつの方が上か。……このままじゃジリ貧だな)
僅かに避けきれなかった切っ先が、グレイの頬を掠める。それに構わず一気に身を沈めたグレイが、先ほどと同じ人差し指の指輪、風の魔術具を擦り上げると、今度はその右手を小さな風の渦が覆った。それをそのまま『彼』の腹に叩き込もうとしたグレイだったが、寸でのところで横跳びに躱されてしまい、その拳は空を切った。
しかし、それくらいは計算の内である。すぐさま風の魔術具を三度叩いたグレイが右手を『彼』に向かって翳すと、グレイの右掌を起点に生じた小さな風の刃が『彼』目掛けて飛んでいく。恐らくはこれも躱されてしまうだろうが、その間少しだが時間が稼げる。その時間を使って捕縛のための魔術式を組み上げることができれば。
そう考えてすぐさま術式を宙に描き始めたグレイだったが、『彼』がいる方からグレイが放ったものと似た風の刃が向かってきたのを見咎め、ほとんど反射的に術式の展開を止めた。そのまま指輪を叩いて発動させた小さな風の盾を使い、襲ってきた刃を全て受け流す。咄嗟にここまでできたのは、日頃の鍛錬の賜物だろう。
「……お前、」
グレイが思わず呆然と呟いたのも、無理はない。たった今グレイを襲った風の刃は、確かに魔術によって生み出されたものだ。実用的な基礎魔術のひとつであり、魔術具ひとつで瞬時に発動できる程度のものではあるが、しかし、
「……オレの攻撃を避けながら、描いたってのか」
確かに難易度の高い魔術ではないが、だからといって短い術式でもない。あの風の刃を避けつつ式の全てを描き切るなど、それこそグレイにだって不可能だろう。だからこそグレイは魔術具を使用しているのだ。だが、どうやら『彼』はそれをやってのけたらしい。
「何をそんなに驚くことがある。懇切丁寧に教えてくれた上、魔術鉱石とやらまで貸してくれたのはアンタだろう?」
『彼』はそう言ったが、実際は少し違う。グレイが教えたのは本当に基礎の基礎にあたる魔術で、今回『彼』が発動させた魔術に関しては、座学のときに一度見せたことがあるだけだ。にわかには信じがたいが、恐らくはその一度で術式を覚えたのだろう。あのときは魔術具を使わずすべての式を描いて見せたから、理屈の上ではあり得る話である。だが、だからといって覚えたての魔術を実戦で使用できるかと言うと、そう甘いものではないのだ。戦闘の最中で魔術を組み上げられるほどの集中力を保つのは、想像するよりもずっと難しいことだ。事実、天ヶ谷鏡哉は平常時ですらかなり苦戦していた。だが、『彼』にとってはそうではなかったのだろう。
(厄介だな。……だが、オレが見せたことのある魔術は基礎的なものだけ。それならどうとでも対応のしようはあるが)
再び向かってきた『彼』に対し、次の一手をどうすべきかと考えながら構えたところで、突然部屋のドアが開いた。
驚いたグレイがドアの方に視線をやるのと、『彼』が握った硝子を開いたドアの向こうへと投げるのがほぼ同時だった。
ドアの向こうにいる人物と『彼』が投げた硝子片とを認識した瞬間、何かを考える前にグレイは驚異的な速度で魔術式を描き上げていた。それこそ、ほとんど脊髄反射のようなものだったのだろう。
硝子片を越える速度で奔った一筋の風が、硝子片を撃ち抜いて砕く。
「……喧嘩、ですか?」
砕かれて散っていく硝子の粒に少しだけ驚いた顔をして呟いたのは、レクシリア・グラ・ロンター宰相だった。