黒の暗殺者 2
唐突に静けさを取り戻した空気に困惑を隠せないでいる少年が動けずにいると、不意にカリオスが小さく呻くのが聞こえて、少年は慌てて彼の方へと視線をやった。
「カリオスさん!?」
「っ、……少し、意識が飛んでいた、ようです。申し訳、ありません」
「い、いえ、そんな、謝るようなことじゃ……、それより、大丈夫なんですか……?」
不安そうな声で訊く少年に大丈夫だと答えてから、カリオスはゆっくりと身体を起こした。
「酷い怪我ですし、急に動いたら危ないんじゃ、」
思わずカリオスの肩を抱き支えるようにして補助した少年に、カリオスが微笑みを返す。
「しかし、グランデル王陛下の恋人であるキョウヤ殿に抱き支えて頂くのは、少々問題があるのではないかと」
少しだけ笑うようにして言われた言葉に、少年が小さな悲鳴を上げて、カリオスから手を離した。カリオスを支えたのはほとんど反射のようなものだったので、相手に触れるという行為を意識していなかったのだ。だが、改めて言われると恥ずかしいやら畏れ多いやらで、申し訳なさすら込み上げてくる。
もしかして不快な思いをさせてしまっただろうかと少し不安になった少年だったが、カリオスの表情からその心配はいらないらしいと察し、安堵したように息を吐いた。カリオスは少しだけふざけたような声だったし、きっと少年の緊張を解すためにああいう言い方をしたのだろう。
上半身を起こして深く息をついたカリオスは、手を開いたり閉じたりして何かを確認した後、少年を見て微笑んだ。
「ご安心ください。もう身体の毒も消えたようだ。恐らくは、幻が消えたからでしょう。幻が生み出したものは、その幻が消えれば消えるのが道理というもの。毒などは、その最たる例です。無論、毒が消えるまでの間に私が消耗した分はなかったことにはなりませんが、これならば動いても問題ないでしょう」
カリオスとしては少年を安堵させようと思っての発言だったのだろうが、しかしその言葉を聞いた少年の顔色はさっと青褪めてしまった。
「ど、毒!?」
その少年の反応に、カリオスが思わずしまったという表情を浮かべる。カリオスは失念していたようだが、そもそも少年はカリオスが毒に侵されたことなど知らなかったのだ。カリオス・ティグ・ヴァーリアは優秀な師団長だが、どうやら疲労と怪我の影響か少々判断力が鈍っているらしい。
「い、いえ、毒と言っても大したものではないのです。少々身体が痺れる程度と言いますか、」
カリオスが慌てて取り繕おうと言葉を並べていると、不意に二人の頭上から呆れたような声が降ってきた。
「少々身体が痺れる程度? あの毒、割と強力な麻痺毒っぽかったけど。実際あんた、もう少し遅かったら呼吸困難になってたんじゃない?」
本当に唐突に聞こえたその声に、少年がびくっと肩を震わせて声の方を仰ぎ見た。その視線の先、少年の正面で腰を下ろしているカリオスのすぐ後ろに、いつの間にか人が立っている。
驚いたことに少年は、声を掛けられるまでその存在を一切認識できなかったようだ。少年の正面という、通常ならば気づかないはずがないような位置に立っているにも関わらず、である。
そのことに驚愕した少年は、その人物の顔を見て更に驚くこととなる。
「ヨ、ヨアン、さん……?」
突然声を掛けてきたのは、さきほど少年を見捨てていなくなったヨアンだったのだ。
少年が驚きを隠せないでいる中、一方のカリオスは、どこか慌てたように身体ごと背後を振り返ると、片膝をついて深く頭を垂れた。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。ご助力、深く感謝申し上げます、ヴェールゴール王陛下」
畏敬の念と共にカリオスが口にしたその言葉に、少年が目を丸くする。
「…………え? あ、あの……?」
今、カリオスは何と言ったのだろうか。ヴェールゴール王と、そう聞こえた気がする。ヴェールゴールと言えば、リアンジュナイルの東端に位置する小国だ。十二国に宛がわれた色に倣い、黒の国と呼称する人も多い。つまり、ヨアンと名乗ったこの青年は、どうやら黒の王であるらしいのだ。
あまりのことに回らない頭でなんとかそこまで把握した少年は、しかしその現実が受け止められないといった風にヨアンを見上げた。そんな彼に、ヨアンが首を傾げる。
「なに?」
「い、いえ、あ、あの、……国王陛下、で、いらっしゃるの、ですか……?」
恐る恐る紡がれた声に、ヨアンはやはり小首を傾げたあと、あっさりと頷いて肯定してみせた。
「うん。そうだけど、それが?」
ひえっ、という声は、あまりのことに発することさえできなかった。
なんでもないことのように肯定してみせたヨアンに、ただでさえ良くなかった少年の顔色が更に悪化する。まさに顔面蒼白になってしまった彼は、何度かヨアンを見て口をぱくぱくとさせた後、ばっと這いつくばって地面に額を擦り付けた。
「も、申し訳ありません! 国王陛下とは知らず、失礼致しました!」
国王に対して頭を下げなかった上にその名を気安く呼んでしまったとなると、不敬罪を言い渡されても不思議ではない。赤の王が気安い性質なので感覚が鈍ることもあるが、一国を統べる相手と接するならばそれ相応の対応というものがあるのだ。
この程度の謝罪で許されるとは到底思えないと少年は酷く怯えたが、そんな彼の様子にヨアンは面倒臭そうな表情を浮かべた。
「別に良いよ。俺、そういうの気にしないから。あんまり頭下げられてもめんどくさいし。だからさっさと顔上げて。エインストラだけじゃなくてあんたもね」
あんたというのは、恐らくカリオスのことを指したのだろう。それを証拠に、カリオスが苦笑と共に顔を上げる気配がした。それを受けて、少年の方も恐る恐る顔を上げる。そうして見上げたヨアンの表情にはこれといった変化はなく、どうやら彼は本当に気にしていないようだった。
二人が叩頭を止めたことに満足したのか、それで良いといった風に頷いたヨアンは、次いでカリオスに視線をやって口を開いた。
「取り敢えずあんたはさっさと傷の手当てした方が良いよ。その背中の傷、けっこう深いみたいだし」
さらっと言ったヨアンに、カリオスが焦ったような表情をするのと、多少良くなりかけていた少年の顔色がまた悪化するのがほぼ同時だっただろうか。
「す、すみません! 僕なんか庇ったから……!」
気が動転していて頭から飛んでしまっていたが、カリオスは大怪我を負っているのである。こんなところで悠長に話している場合ではないだろう。
今度はカリオスに向かって土下座しそうな勢いの少年に、カリオスが慌てて首を横に振る。
「いいえ、キョウヤ殿が気にすることはありません。私の鍛錬不足が招いたことですから」
そう言って少年を落ち着けさせてから、カリオスが恨めしそうな目でヨアンを見る。
「ヴェールゴール王、あまりキョウヤ殿を困らせないで頂きたい」
「困らせてるつもりないんだけど。だって事実じゃん」
首を傾げたヨアンに、カリオスが深くため息を吐く。だがその拍子に傷が痛んだのか、彼は少し身体を丸めて小さく呻いた。
「ああほら、やっぱり大怪我なんじゃん。意地張るのも良いけど、ほどほどにしないと死ぬよ」
「死ぬほどの怪我ではございません」
暗にこれ以上少年の不安を煽るようなことを言うなと伝えるように、ぎっと睨んできたカリオスに、ヨアンは肩を竦めてみせた。
「まあ良いけどね。取りあえずついでだし、俺が応急処置くらいはしてあげる。白の国の薬使うから、ある程度治癒できるはずだよ」
そう言ったヨアンが、上着の内ポケットから薬や包帯を取り出す。そんな彼の行動が予想外だったのか、カリオスは少しだけ慌てたような顔をした。
「い、いえ、そんな、ヴェールゴール王陛下のお手を煩わせる訳には、」
「もう十分煩わせられたから、これくらいオマケみたいなもんだよ。寧ろここであんたを放置して後遺症とか残る方が面倒。判ったら黙って背中見せて」
ぴしゃりと言われ、カリオスが口をつぐむ。ヨアンの言っていることは間違いなく事実だったので、反論のしようがなかったのだ。
慣れた手つきでカリオスの傷口に薬を塗って包帯を巻いていくヨアンを、少年がじっと見つめる。
状況から判断するに、あの窮地を救ってくれたのは黒の王なのだろう。だが、一体どうやってあの魔物を倒したのだろうか。というか、あんなに簡単に倒せるのならば、何故一度少年を見捨てるようなことをしたのだろう。考えれば考えるほど、疑問は深まるばかりである。