蜃気楼の攻防 1
まるで逃げ場を塞ぐように二人の周囲に佇む巨大な貝たちに、少年は思わずカリオスへと視線をやった。カリオスは金の国でも有数の戦士だと言うが、果たしてこれだけの魔物を相手に戦えるものなのだろうか。
そんな不安を孕んだ視線に気づいたのか、背に庇った少年をちらりと振り返ったカリオスは、安心させるように微笑んでみせた。
「基本的に魔導というのは契約対象を常に屈服させる必要がありますから、人間の精神力で複数の個体と契約を結ぶことはほとんど不可能と言って良い。それとキョウヤ殿のお話を含めて考えるのならば、これらは全て幻だと考えるのが妥当ではないでしょうか」
「幻……。で、でも、それはそれで危険なんじゃ……」
なにせ少年は、その幻で人が死ぬところを見ている。同じ手口で来られたら、カリオスとて自らを傷つける可能性があると思ったのだ。だが、正面の貝に視線を戻して左手で腰の剣を引き抜いたカリオスに怖じ気づく様子はない。
「魔法が扱える人間というのは、程度はあれど幻術の類に対抗する術を持っているものです。薄紅の女王陛下クラスの幻惑魔法を使われたなら勝ち目がありませんが、グランデル国王陛下が仰った通り、この一件がキョウヤ殿の奪取を目的とした本格的な襲撃ではないとすれば、そこまで強力な駒を投入してくるとは考え難い。ならば、私でもある程度までなら対処できましょう」
十分な自信を見せてカリオスがそう言ったのは、半分は事実で半分は虚勢であった。
実は、簡単な幻術を解除するための手段ならば既に講じているのだ。だが、溢れんばかりに蠢いている貝の数が減る様子はない。所詮は詠唱もなく火霊に命じるだけの簡素な解除魔法だったため、魔法の威力が弱くて幻が消えなかったという考え方はできるだろう。しかしそうなると、きちんとした正式詠唱を経て魔法を発動する必要が出てくる。
(俺一人ならばそれで構わんが、キョウヤ殿がいる以上それが好ましいとは言えないな)
カリオスは、解除魔法を使用していることをあまり少年に悟られたくないのだ。それで幻術を解けるのならば問題はないのだが、上手くいかなかった場合、少年の不安を煽るだけで終わってしまう。だからこそ、先ほど簡素な解除魔法を使用した際も、少年にも聞こえないくらい小さな声で風霊に命じたのだった。
(正式詠唱を以て発動させたなら、解除できる可能性はある。だが……、)
幻を生んだり消したりすることに特化している幻惑魔法は、水霊と火霊の力を借りる魔法である。対して、カリオスが使える魔法は風霊と火霊が関わるもののみだ。よって、カリオスが使用できる幻術解除魔法も、火霊のみに頼った無理矢理なものしかない。いかに正式な詠唱をしようとも、果たしてそれでこの敵の幻を破れるかどうかは判らないのだ。
(さすがに詠唱をするとなると、キョウヤ殿に気づかれずに発動させることは無理な上に、魔力消費も大きい。……やはり、解除魔法はできる限り使わない方が無難か)
自分自身に致命的な幻術がかけられでもしない限り解除魔法を使うのは控えようと決心したカリオスが、剣の柄を強く握る。
「火霊! 風霊! 魔法憑依だ!」
カリオスがそう叫ぶと同時に、ばちばちと音を立てて彼が握る剣の刀身に雷が纏わりついた。
(雷魔法……。そうか、確か雷魔法は、火霊魔法と風霊魔法を融合させる魔法だってグレイさんが……)
初めて見る種類の魔法に少年が驚く中、カリオスは雷の剣を大きく横薙ぎに振るった。するとその刀身から雷が放たれ、近場にいた数体の貝に襲いかかった。だが、咄嗟に貝たちが殻を閉じたことで、カリオスの放った雷撃は全て弾かれてしまう。
その光景に、カリオスは僅かに目を見開いた。
「……火霊、俺自身が幻術にかかっているのか?」
静かに問いかけたカリオスの横で、炎がぱちんと弾ける。少年には火霊が何を言ったのか判らなかったが、カリオスの様子を見る限り、彼の問いは否定されたようだ。
「あ、あの、どうしたんですか……?」
少年がおずおずと尋ねると、カリオスはほんの僅かに迷ったような表情を見せた後、口を開いた。
「恐らく、この貝たちは私たちの脳ではなく、この場所自体に投影された幻です。……そうですね、我が国の魔術灯篭が見せる幻と同じようなものだと思って頂ければ良いかと。しかし、そうなると雷が弾かれた原理が判らない。あれが本当に投影されただけの幻なら、先ほどの攻撃で掻き消えるなり攻撃自体が擦り抜けるなりする筈です。それがないと言うことは、っ、キョウヤ殿!」
話の途中で突然叫んだカリオスが、少年に向かって右腕を伸ばした。そのまま少年を引き寄せて抱きしめた彼が、風霊の名を叫びながら横に大きく跳躍する。その直後、彼らが居た場所にカリオスの数倍は大きな何かが降ってきた。それを目端に捉えた少年の背筋に、ぞわりとした悪寒が走る。
突如降ってきたそれは、禍々しい化け物だった。二本の角が生えた頭に、恐ろしい顔。そしてその身体は巨大な蜘蛛のようで、鋭い鉤爪がついた強靭な脚が四対も生えている。もしカリオスが助けてくれなかったら、少年はあれの下敷きになって潰れていたことだろう。
(これも幻……!? いや、でも、この人の言う通り投影された幻なんだとしたら、僕たちがどうこうなることはなかったんじゃ?)
脳に直接作用するような幻術ではなく、魔術灯篭と同じような原理の幻術だとしたら、触れることはできないコケおどしのようなものの筈だ。だというのに、何故カリオスは風の力を借りてまで回避に徹したのだろうか。
そう思ってカリオスを見上げると、彼は緊迫した表情で化け物を睨み据えていた。そこには先ほどまで見せていた余裕は欠片もなく、およそ幻を相手にしているとは思えないその様子に、少年は思わず身を固くする。
「あ、あの、あれも、幻、なんじゃ……」
震える声でそう問えば、カリオスは少年を抱く腕に少しだけ力に込めた。
「ええ、十中八九、貝たちもあの魔物も、本体を除けば全てが幻でしょう。ですが、」
少年を抱いたまま、カリオスが剣を構える。
「……憶測に過ぎませんが、恐らくあれらは、実体を伴った幻なのです」
そう言ったカリオスに、少年は目を丸くした。実体を伴う幻など、そんなものは最早幻とは呼べない。
「え、あ、あの、幻惑魔法も、そういうことができるんですか?」
「いいえ。いかに幻惑魔法を極めた魔法師でも、幻を実体化させるようなことはできません。だからこそ、私も初めはあり得ないと思いました。しかし、ただの投影幻術が魔法を弾くとなると、その可能性が最も高いのです」
それはつまり、この何十にも及ぶ貝も、先ほど現れた化け物も、全て実体を持った生き物そのものに等しいということだ。そして少年は、かつて幻とは異なるが似たような状況に置かれたことがあることを思い出した。
そう、赤の王に助けられた、あの市街戦である。あのときは空間魔導を操る敵によって無数に呼びだされる魔物の全てを赤の王が相手取ったのだったが、状況としては今回も非常に似ていると言えるのではないだろうか。
そう思い至った少年が顔を青くしたとき、その場にいた貝たちが一斉に殻を開き、ふぅ、とため息のような音を漏らした。幾重にも重なった吐息と共に吐き出された白い靄は、地面を舐めるようにして漂い、そして次々とあの化け物の像を結び始める。まさに、少年の予感が的中してしまったのだ。