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窮地 5

 貝を睨んだまま、じりじりと後退し始めた『グレイ』に、固く閉じていた貝の殻が僅かに開かれる。そしてそこから、まるで深い溜息を吐くような音と共に、黒く淀んだ靄が吐き出された。それはアンネローゼが操ったものに似てはいたが、しかしずっと禍々しい気配を色濃く纏っている。

 本能的に黒い靄に触れるのを拒否した『グレイ』の身体が更に逃げを打とうとしたとき、不意に彼の頭に『アレクサンドラ』の声が響いた。そして告げられた言葉に、『グレイ』が僅かに目を見開く。

 『グレイ』が主導権を握っていられる時間に限界が来たというのだ。『アレクサンドラ』曰く、彼女の処理能力ではこれ以上の記憶の空白を埋めることはできないらしい。

 元々、他の人格が主導権を奪い取っている間の記憶は『鏡哉』には残らないため、記憶を改ざんすることでその空白期間を埋める必要があるのだが、『アレクサンドラ』が埋めることのできる期間は限られている。それを考慮しても想定以上に限界が早いのは、恐らくあの赤の王との一件のせいだろう。

「つくづく余計なことしかしねェなあのクソ野郎」

 僅かな躊躇を見せたあとに盛大に悪態を吐いた『グレイ』は、意を決して目を閉じた。そのまま、身体と意識の主導権を徐々に『鏡哉』へと戻していく。

 今の状況で『鏡哉』に代わるのは非常にリスクの高い選択だったが、それでも『鏡哉』の精神が崩壊するよりはマシだ。少なくとも、危機的状況に置かれているということは『アレクサンドラ』がうまく刷り込んでいるだろう。であれば、脆弱な『鏡哉』でも多少の対応はできるはずだ。

 万が一死にそうになったならなったで、そのときに改めて人格を切り替えれば良い。そうなれば十中八九『鏡哉』は壊れるだろうが、ちようごと死ぬよりはずっと良い。

 冷淡とも言える冷静さでそう判断した『グレイ』の意識が奥深くへと落ちていくのに代わって、『鏡哉』の意識が浮上する。

 そして僅かな硬直ののち、はっと目を開けた彼は、一瞬混乱したような表情を浮かべたが、『アレクサンドラ』の尽力のかいあってかすぐに状況を理解し、貝に背を向けて走り出そうとした。

 だが、そんな少年の行く手を阻むように、向かう先に背の高い男が割り込んできた。

「キョウヤ殿! お待ちを!」

「っ!?」

 突然のことに、ひゅっと息を飲んで硬直した少年は、しかし眼前の彼の姿に見覚えがあることに気づき、瞬きをする。

「あ、あ、なた、は……、」

「ギルディスティアフォンガルド王国軍師団長、カリオス・ティグ・ヴァーリアです。以前にもお会いしたことがありますが、覚えておいでか?」

 そう言ってほんの少しだけ笑顔を見せたのは、黒い髪に濃い赤色の瞳をした美丈夫。そう、少年の元に単身駆け付けたのは、師団長のカリオスであった。

 彼のことは少年も覚えている。確か、金の国での事件のときに金の王と共にいた人物だ。

「は、はい」

「遅くなって申し訳ない。本来ならば軍を率いて騎獣にて駆け付ける予定が、邪魔だと言われてしまい、急ぎ単身馳せ参じた次第です」

「え、じゃ、邪魔、ですか……?」

 誰にそんなことを言われたんだ、という疑問を含んだ呟きに、カリオスが小さく首を傾げる。

「おや? 随分と先に向かわれたので、てっきりもうお会いになっているかと思ったのですが」

「……あ、もしかして、えっと、……ヨアン、さん……?」

 少年の言葉にカリオスはやや困ったような微笑みを浮かべたが、特に何かを言うことはなく頷いた。

「はい。それで、あの方はどちらに?」

「え、っと、あの、……先手を打たれたからこのままだとまずい、消えるから後はなんとかして、と言って、何処かへ……」

 我ながら何も伝わらない説明だと思った少年だったが、どう足掻いてもこれ以上の情報は渡せないので仕方がない。しかし、カリオスの方はそれだけで察するものがあったのか、なるほどと言って頷いた。

「それでは私の役目は、貴方を守りつつあの貝の進行を妨げることなのでしょう」

 そう言ったカリオスが、少年を背に庇うようにして敵に対峙する。すっと引き抜き構えられた長剣は、赤の王のものと比べるとやや細く、少年はどうしても不安になる己を抑えられずにいた。

「あ、あの、一人で大丈夫、なんですか……?」

「さて、どうでしょうか。これでもギルガルド王国内では強者として名を馳せておりますが、無論グランデル国王陛下には敵いませんからね。……ですが、持ち堪えるくらいならば私にもできましょう」

 貝が吐き出す黒い靄が、徐々に辺りへと広がっていく。ゆっくりではあるが確実に森を飲み込んでいくそれに、少年は思わず後ずさりをした。しかし、そんな彼をちらりと振り返ったカリオスが、少年を落ち着けるように小さく微笑んでみせる。

「風霊を使い毒の類でないことは確認しております。触れてどうこうなるものではないようですので、その点はどうかご安心を」

「でも、あの、魔導師の女の子が、同じ靄みたいなものを操ってて。多分、幻覚を見せる作用があったんだと思います。だから、もしあれもそうなら、触らない方が」

 そう言った少年に、カリオスはやや怪訝そうな顔をした。

「ということは、十中八九この魔物はその少女の契約相手ですね。しかし、肝心の魔導師は今どこに?」

「……死んで、しまいました……」

 その言葉を聞いた瞬間、カリオスの顔色がさっと変わった。そしてそれとほぼ同じタイミングで、黒い靄が一気にぶわりと広がって周囲を埋め尽くした。

 思わず身を固くした少年の腕を、カリオスが掴んで引き寄せる。

「どうか私の傍を離れぬよう」

「あ、は、はい」

 先ほどまでよりも明らかに緊張を孕んだカリオスの声に、少年は事態が芳しくないのだろうことを悟った。

「風霊! 可能な範囲でこの霧を払え!」

 カリオスがそう叫ぶと同時に、突風が吹きすさんだ。金の国の国民は魔法適性が低い傾向にあるのだが、どうやら師団長たる彼は例外らしく、戦闘時に有効となり得るレベルの魔法が扱えるようだ。

 風霊が起こした風が靄を吹き飛ばしていく中、険しい表情のまま前を睨んだカリオスが口を開く。

「申し訳ない、見誤りました。どうやら私が思っていたよりもずっと厄介な事態のようだ」

「あの、どういう……?」

「魔導とは、魔物を屈服させて無理矢理従わせる外法のようなもの。故に、魔物は使役されている期間もずっと憎しみを募らせていくのです。増してや帝国は、別次元から召喚した魔物を魔導によって縛っている。故郷から引きずり出され、一人知らない世界で己の意思に反して使われるなど、魔物側の怒りと憎悪は想像を絶するものでしょう」

 言われ、少年は頷いた。カリオスの言う通り想像すらできないが、それはきっととても悲しいことなのだろう。

「あの魔物は、まさにそういった怒りと憎しみを募らせた成れの果てのような状態なのです。恐らくは、使役者である少女とやらの死の直前に、魔導契約が壊れたのでしょう。本来であれば使役者の死と使い魔の死は同義の筈ですが、契約が破棄されたとなれば話は別だ。そして、使役者から解放された魔物の多くが望むのは、使役者への復讐です。しかし、使役者たる少女が既に死んだとなると、その矛先は人間という種そのものや、ときに世界自体に向かう可能性さえある。そしてこの世界があの魔物にとって異邦であることを考慮するならば、今回のケースは後者である可能性が非常に高いと言えます。……あの方が身を引く訳だ。私たちが今対峙しているのは、この世界そのものに対してこの上ない怨嗟を募らせた未知の魔物なのですから……!」

 風に押し流された靄が、ゆっくりと薄れていく。しかしそれでもなおうっすらとした靄に覆われたその向こうで、無数の影が揺らいだ。

 いつの間にか、少年とカリオスの周囲は、何十体にも及ぶ巨大な貝の群れによって取り囲まれていたのだ。

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