窮地 4
ヨアンの問いにアンネローゼは迷うように視線を彷徨わせたが、それでも死の恐怖が勝ったらしく、のろのろと口を開いた。
「わ、わ、たしは、元々、魔導が使えなくて、でも、ウロ様が、実験に付き合ってくれたら、魔物との魔導契約を、結ばせてくれるって、」
「ふぅん、またここでもウロ様か。でも丁度良いや。これも絶対に訊かなきゃなって思ってたんだけど、……ウロって名前のあれ、一体何なの?」
言われ、アンネローゼは困惑の表情を浮かべた。
「……え? あ……、えっと、ウ、ウロ様、は、十年くらい前に、帝国に来て、魔導のこと、とってもお詳しくて、力を、貸してくれるって、」
ぽつりぽつりと語られる話に、しかしヨアンは僅かに苛立ったような顔をして首を横に振った。
「そういう話はいらない。そんなことより、あれが一体何なのかを教えて。…………あれ、人間じゃないよね?」
そう言ったヨアンに、アンネローゼは更に困惑したような表情を浮かべた。どうやら彼女は、ウロという人物についても詳しくは知らないようである。
「……はぁ。ほんっとに何にも知らないんだね、あんた。もう良いよ。じゃああんたが付き合った実験ってどんなんだったの?」
「そ、それ、は……、」
やはり狼狽えたように視線を泳がせた彼女に、ヨアンがすっと目を細める。敢えて口に出すことはなかったが、選択肢は与えないという彼の意図はアンネローゼに伝わったらしく、彼女は僅かな躊躇いを見せた後、それでも恐る恐るといった風に口を開いた。そして、震える唇が言葉を紡ごうとした、そのとき――、
「っ!?」
突如として目の前で起こったそれに、ヨアンは思わず息を飲んだ。何の前触れもなく、アンネローゼの口がさっくりと横に割けたのだ。そしてそのまま大きく開いた彼女の口は、ぶちぶちと音を立てて裏返り始めた。
「ああああああああああああああああ!!」
肉が引きちぎられる痛みに、アンネローゼが絶叫する。それはまるで誰かが力ずくで口をこじ開けているようにすら見える光景だったが、しかしこの場で呼吸をしているのは彼女とヨアンと『グレイ』だけで、彼女に触れている者は存在しない。もしやヨアンが何かをしたのかと『グレイ』は彼に視線をやったが、驚きが滲んでいるヨアンの表情を見るに、その可能性は低いようだ。
実際、これはヨアンにとっても予想外の展開で、彼は焦ったような声で精霊の名を叫んだ。
「火霊でも地霊でも良い! どうにかして!」
ヨアンの命に、すぐさま生まれた火がアンネローゼへと奔る。しかし、火霊が何をどうしようとしたのかは判らないが、結果として、赤い炎はアンネローゼに触れる直前に弾かれて掻き消えてしまった。恐らく、結界かそれに相当するような何かによって阻まれたのだろう。
そうしている間にも、少女の小さな口は見る影もなくばっくりと開き、そして反転するように自らの身体を飲み込み始めた。初めに反転した上顎が頭を飲み込み、それでも止まらないそれは、少女の身体をぼきぼきを折り曲げつつ進行する。そして、あっという間に少女の身体がひとつの肉の球と化してしまった次の瞬間、脈打つようにどくんと震えたそれは、一気に収縮してぷちゅりと潰れてしまった。
そのあまりの光景に、さしもの『グレイ』も絶句する。いっそ肉の塊が弾け散った方がまだマシだっただろう。確かな質量を持っていたものがその物質性を奪われたかのように縮んで潰れる様は、酷く不気味なものに見えた。
そんな緊迫した空気の中、『グレイ』が真っ先に行ったのはヨアンの様子を確認することだった。現状『グレイ』が頼れるのは彼しかおらず、その彼がこの状況をどう思っているかが気になったのだ。
果たして『グレイ』の目が捉えたのは、緊迫を顔に張り付けたような表情をしているヨアンの姿だった。
「おい、何が起こっ、」
『グレイ』がそう言い掛けたところで、アンネローゼがいた場所の空間が突然ぐにゃりと歪んだ。そして、一点を中心に渦を描くようにして捻じ曲がっていく空間の向こう側で、不明瞭だが巨大な何かの影が揺れる。
歪む空間を睨むように見たヨアンは、芳しくない状況に表情を険しくしている『グレイ』へと視線を投げた。
「判っていたことだけど相手が悪すぎる。こうやって先手を打たれた以上、今のまま対処するのはあんまり賢くない。俺は存在を知られてるから」
やはりあまり抑揚のない声でそう言ったヨアンに、『グレイ』は片眉を上げる。
「アァ? 判る言語で喋れ」
どうやらヨアンという男は会話があまり得意ではないらしい。もしくは、端から伝える気がないのだろう。どっちにしても、『グレイ』が困ることに変わりはなかった。とにかく、もっと意図を明確に伝えろ、という意味の言葉を吐くことで意思の疎通を図ろうとした『グレイ』だったが、そんな彼を無視してヨアンは火霊と地霊の名を呼んだ。
「いつもの強化お願い。調整とかは任せるから」
「おい、無視してんじゃねェよ」
やや苛立ったようにそう言った『グレイ』をちらりと見たヨアンが、ぐっと膝を曲げて腰を落とす。
「じゃあ、俺は消えるから。後はなんとかして」
そう言うや否や、『グレイ』がその言葉の真意を問い質す前に、ヨアンの姿が一瞬で消えた。煙のように掻き消えただとか、そういう類のものではない。その瞬間、『グレイ』は瞬きひとつせずにヨアンを見ていたのに、その彼にすら何が起こったのか判らないほど瞬時に消えてしまったのだ。
「なッ、何考えてんだあのクソ野郎!」
この状況で『グレイ』を置いて逃げるなど、赤の王直々の依頼を受けた護衛がして良い行動ではないだろう。それだけに、この展開はさすがの『グレイ』も予想外だった。
そんな彼のすぐ前で、一際大きく揺らいだ空間から、周囲の木々をなぎ倒しながら、巨大な何かが姿を現した。
「……なんだ、これ……」
『グレイ』が呟いて見上げた先にいたのは、見たこともない大きさの二枚貝だった。殻をピタリと閉じている今の状態であっても、その高さは『グレイ』の身長の三倍はあるだろう。そしてこの貝は、青の国のそれに見られる芸術品のような造形ではなく、もっとずっと単純な流線形をしていた。こんな貝など、『グレイ』は見たことも聞いたこともない。
(馬鹿みたいにデケェ貝だ。……だけどこいつ、動けるのか?)
見た目だけで判断するのならば、地上を機敏に動けるようには思えない。だが、この貝も恐らくは敵である。ならば、仮に『グレイ』が逃げようとしたところで、やすやすと見逃してくれるとは思えなかった。




