窮地 3
「…………あ?」
護衛。ヨアンと名乗った男は、確かに護衛と言った。しかも赤の王に頼まれたと。一体いつからだ。まさかついさっきということはあるまい。ということはこの男、ここに至るまで窮地に立たされた少年を黙って見ていたというのだろうか。
疑念やら怒りやらで咄嗟に何も言えないままヨアンを睨んだ『グレイ』は、ふと地面に落ちるヨアンの影が不自然に揺らめいたような気がして、思わずそちらに視線を投げた。そして目に入ったものに、『グレイ』が息を飲む。
青年の影の中に、何かがいるのだ。無論、『グレイ』にはそれが何かまでは判らない。だがそれでも、異形の片目は確かにその存在を認識した。
ヨアンの影の中で蠢いているのは、まるで黒い汚泥の塊のような、どろりとした何かだった。もしかすると二月ほど前に貿易祭で出会った魔物に似ている生き物なのかもしれないが、これはあれよりもずっと凶悪で恐ろしいものであると、本能が警鐘を鳴らす。
「……テメェ、」
強張った表情で洩らした言葉は、『グレイ』が思っていた以上に掠れてしまった。一方のヨアンは、そんな『グレイ』を見て不思議そうに首を傾げてから、ああ、と納得したような声を上げた。
「エインストラだからこいつが見えるんだ。でもそんなにビビんなくて良いよ。こいつは俺の味方みたいなものだし、あんたに害は与えないから。それでも気になって困るんなら眼帯しとけば? そうしたら見えないんじゃない?」
「……ソレは、一体何だ」
提案を無視して睨むように見てきた『グレイ』に、ヨアンは少しだけ眉根を寄せた。
「説明するの面倒だし、説明したところで俺に何の得もないからやだ。取り敢えず、敵じゃないし危険でもないってことは教えてあげたんだから、良いでしょ」
そう言い、ヨアンはうんざりしたような顔で手を差し出して、ひらひらと振った。
「はい、判ったならさっさと立って。そこにいると邪魔。あ、腰抜けて立てないとか言わないでね。そうだったら困ると思って、わざわざ手を貸してあげようとしてるんだから」
その物言いに、ヨアンを観察するようにじっと見ていた『グレイ』は大きく息を吐き出した。
この男が味方である保証はないが、今すぐに自分に危害を加える気がないのは事実のようだ。ならばこの場でわざわざ敵対する必要はないだろう。そう判断した『グレイ』は、眼帯で右目を覆い直してから、差し出された手をひっぱたいて返した。
「お気遣いくださりドーモ。だけどお生憎さま、腰が抜けた訳じゃねェから自分で立てる。そのガキの脚と男どもの首がトんだカラクリが判らねェ上に、テメェが得体の知れねェ何かを飼ってるみてェだから、身動きとれなかっただけだ」
「ふぅん。変なところで用心深いんだね。そんなこと気にするくらいなら、最初からこんな奴らについて行かなきゃ良かったのに。明らかに怪しいのにホイホイついて行くから呆れちゃったよ、俺」
やれやれという顔をしたヨアンに、『グレイ』が引き攣ったような笑みを浮かべる。
「最初から見ていたのならもっと早く助けに入れたと思うんですが、如何ですかねェ? 原理は知らねェが、脚だの首だの斬り落としたのはテメェなんだろ?」
「そんなこと言われても。俺はやばくなったら助けてあげてくれって依頼されただけだから、やばくならない限り助けないのは当然じゃない?」
あっけらかんと言った様子から察するに、ヨアンという青年にとっては、あの瞬間までは危機的な状況ではなかったという判定になるらしい。
そのことについて『グレイ』が更に詰め寄ろうとしたが、それを無視してヨアンは少女の方へ向かった。そして、地べたに転がって泣きじゃくっている彼女の前にしゃがんで、その顔を覗き込む。
「知ってること全部話して。そのためにあんただけ生かした。言ってる意味、判るよね?」
「ひぐっ、わ、わたしの、あし、あし……」
「ああ、そのままじゃ死んじゃうか。火霊、焼いて止血して」
ヨアンの言葉を受け、火霊が宙で小さく炎を弾けさせる。赤の王のそれと比較すると随分と控えめな炎は、しかし十分な熱量を持って少女の傷口に纏わりついた。
「あああああああああ!!」
肉が焼かれる痛みに、アンネローゼが喉も枯れんばかりの絶叫を上げた。だがヨアンが気にした様子はなく、それどころか彼は満足げに頷いた。
「良かったね、取り敢えずこれで失血死することはなくなったよ。じゃあ安心したところで、知ってること話して。全部ね」
そんなことを言われても、アンネローゼは経験したことのない痛みにそれどころではなく、問い掛けに答えることなどできない。
「人の話聞いてる?」
首を傾げたヨアンが、アンネローゼの小さな手を取って、その小指を握る。
「折るよ」
宣言すると同時に、ヨアンの手が、まるで小枝でも折るかのような気軽さで細い小指をぽきりと折り曲げた。
「いぎぃぃぃぃぃぃッ!!」
「さっきからうるさいなぁ。いい加減静かにしないと舌引っこ抜くよ? あ、でもそうしたら喋れなくなっちゃうか。困ったなぁ」
困った困ったと言いながら、ヨアンの手が今度は少女の薬指に伸び、またもやなんでもないことのようにその骨をぽきりと折った。更なる痛みにアンネローゼが再び絶叫するのを見ながら、『グレイ』は心底から『鏡哉』に主導権を返さなくて良かったと思った。『グレイ』はちよう以外に興味がないからこそ、こういう場面に遭遇してもそこまで動揺することはない。だが、『鏡哉』だったならばそうはいかないだろう。あれはこういった凄惨な現場は苦手なのだ。
「どうする? 俺もあんまりこういうのは好きじゃないから、さっさと話してくれると嬉しいんだけど。ああ、心配しないで。好きじゃないからってやめはしないから。依頼を受けた以上これは仕事だからね。あんたが話してくれるまでいくらでも痛いことするよ」
淡々と話しながら今度はアンネローゼの中指を握ったヨアンに、彼女も彼が本気であることと、ここで黙っているのは悪手だということを悟ったのだろう。彼女は泣きながらこくこくと頷き、ヨアンに縋りついた。
「話す! 話すから! 痛いのはもういやぁっ!」
「他の人には散々痛いことしたくせに、都合が良いなぁ。まあ別に良いけど」
そう言ってアンネローゼの中指から手を離したヨアンは、改めて彼女の顔を覗き込んだ。
「じゃあまずひとつ目ね。今ここで本気でエインストラを攫おうっていうには計画があまりに杜撰らしいんだけど、今回の襲撃の本当の目的は何?」
ヨアンの問いに、アンネローゼは困惑したような表情を浮かべる。
「え、し、知らない……」
その答えに、ヨアンは無言のまま再び彼女の中指に手を伸ばした。その行動に、彼がしようとしていることを察したアンネローゼが小さく悲鳴を上げる。
「ほ、本当よ! 本当に知らないの! 私はエインストラを連れて来いって言われただけだもの!」
「連れて来いって、この少人数で? まさか本当に自分たちだけでなんとかなると思ってたの? そうだとしたらあんた、相当頭悪いんだね」
ヨアンの言葉を受け、既に涙でぐしゃぐしゃになっているアンネローゼの顔が更に歪む。
「し、知らないもん……、だって……、わ、私ならできるって……、皇帝陛下が……」
「ふぅん。じゃあ質問を変えるけど、帝国の最終目標って何なの? エインストラを手に入れて何するつもり?」
「……せ、世界を、平等にするの。生まれつきの、才能で、全てが決まる、今の世界なんて、おかしいって。私とか、弟、みたいな、捨て子がいない、優しい世界に、してくださるって、」
「はあ。つまり、世界を変える、みたいな? なんだか随分と漠然とした話だなぁ。まあそういう話ならそれで良いけど、じゃあどうやって世界を変えるの? エインストラがいたらどうにかなるわけ?」
首を傾げたヨアンに、アンネローゼの目から更に涙が零れる。そして彼女は、怯える子供そのものの目でヨアンを見た。
「…………わ、わかん、ない……」
「呆れた。そういうの判んないで、よく戦争に参加しようと思えるね。やっぱ馬鹿なのかあんた」
「っ、う、ぅ……」
「つまるところあんたはただの捨て駒ってことだね。……もう少し何か聞き出せるかと思ったけど、向こうも頭使ってるんだろうな」
はぁ、と大きく溜息を吐いたヨアンの脚に、ひぐひぐと嗚咽を漏らしながらアンネローゼが縋りつく。
「こ、殺さないで……。お、弟が、身体、弱くて、……私が、ちゃんとお役目、果たせたら、お医者さんが、」
嗚咽を洩らしながらズボンの裾を弱々しく握った小さな手を見つめ、ヨアンが目を細める。
「不幸自慢はいらないよ。質問に答えてくれるなら殺さないし、質問に答えないなら殺す。それだけだから」
抑揚の薄い声でそう吐かれ、アンネローゼは絶望したような表情を浮かべたが、そんな彼女を見てヨアンはやはり首を傾げた。
「当然でしょ? あんたは俺にとって敵国の人間だ。だから、あんたが死のうがあんたの弟が死のうが俺には関係ない。俺、何も間違ったこと言ってないよね?」
やはり淡々と言ったヨアンに、アンネローゼが縋りついていた手をぽとりと地面に落とし、唇を震わせる。
「……ちゃんと、答え、ます、から……」
掠れた声でか細くそう呟いた少女に、ヨアンは満足そうに頷いた。
「判ってくれたみたいで良かった良かった。と言っても捨て駒のあんたじゃどうせろくなこと知らないだろうし、……んー、じゃあ答えられそうなのにしようか」
そこで一度言葉を切ったヨアンが、アンネローゼを見つめた。
「あんたの魔導、多分だけど割と高等なものだよね。まだ子供のあんたがそこまでの魔導を使えるのって結構すごいことだと思うんだ。にも関わらずあんたを平気で捨て駒にするってことは、帝国にはもっと優れた魔導師がたくさんいる、ってことなのかな? ……ちょっと前までは全然そんなことなかったと思うんだけど、何かあった?」