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窮地 2

 少年が握ったものを振り上げた瞬間、唐突に彼が纏う雰囲気が変化した。悲嘆と絶望に暮れていた顔が冷たい刃物のようなそれに変わり、そして忌々しげな表情を象る。

(チッ、主導権を奪うのが遅れた)

 『鏡哉』を助ける形で表に出てきたのは、別人格たる『グレイ』だった。本来であればもっと早くに切り替えるつもりだったのだが、赤の王との一件以以来、人格の切り替えが非常にしにくくなっている。具体的に王が何をしたのかは判らないが、あの男が行った何かが人格同士の間に隔たりを作ったような、嫌な感じだ。そんな中、『鏡哉』と言う人格の精神が瓦解する寸前に、あらゆる感覚から切り離して閉ざすことができたのは、まったく僥倖と言うに他ならなかった。

 『鏡哉』の記憶の改竄(ケア)は、先ほどから彼の名を騒がしく呼んでいる『アレクサンドラ』が上手く行うだろう。ならば『グレイ』がすべきことはひとつである。

 大元たるちようにとって最も忌避すべき記憶は、勿論『グレイ』にとっても心地良いものではない。だが、ちようからすべてを引き継がされた『鏡哉』と違い、取り乱して我を失うほどのものでもなかった。だからこそ、『グレイ』はこれが現実ではないことを正しく認識しており、それに惑わされるようなこともない。

 当然だ。これはとうに過ぎ去ってしまったものなのだから、戻ることなどありはしない。ならばどれ程に真に迫っていようとも、こんなものはただの幻なのだ。

 しかし実際『グレイ』の目には母親が映っており、身体も完全に、首を絞められているという事実を受け入れてしまっている。このままこの状態が続くなら、本当に思い込みで死んでしまいかねない。

 だから『グレイ』は、握りしめていたものを捨て、その右手で己の眼帯を毟り取った。

 ――エインストラの目は、ありとあらゆる真実を見通す。それこそ、その魂の色すらも。

 そのことを、『グレイ』は覚えていたのだ。

 晒された異形の瞳が、『グレイ』の思惑通りに全ての偽りを暴き立て、真実のみを映し出す。瞬間、『グレイ』の目の前にあった景色が霧散した。開けたそこには母親の姿などない。ただ地面に転がっている自分を楽しそうに眺めている少女がいるだけだ。

 恐らく今まで見ていたものは、彼女の魔導による幻影だったのだろう。それを認識した『グレイ』の動きは速かった。ポケットに忍ばせていた魔術鉱石を握り締めて術式を描き、炎の魔術を発動させる。勿論、大した威力は期待できない簡素な魔術だ。悠長に魔術式を構築している暇などないこの状況で咄嗟に発動できる魔術など、たかが知れている。だがそれでも、相手の気を逸らせればそれで良い。現状『グレイ』が最も優先すべきなのは、この場からの離脱なのだ。

 敵が油断している隙をついて逃走を図ろうという『グレイ』の目論見は、事実として非常に有効な一手だった。幻惑の中に少年の精神を閉じ込めているという状況に、アンネローゼは勿論のこと、彼女の部下たちも油断しきっていたのだ。

 『グレイ』が生み出した炎は、小規模ながらも的確にアンネローゼに向かい、虚をつかれる形となった彼女に襲いかかった。それを見届けることなく立ち上がって駆け出した『グレイ』の耳に、アンネローゼの悲鳴が届く。だが、あの攻撃が当たっていようといまいと『グレイ』には関係ない。

 敵に損失を与えられたのかどうかは知らないが、とにかく離脱には成功した、と、『グレイ』がそう判断したそのときだった。

「よくも私の顔に傷をつけてくれたわねッ!!」

 すぐ後ろで(・・・・・)、アンネローゼの声がした。

 『グレイ』が咄嗟に振り返ろうとするよりも早く、アンネローゼの手が『グレイ』の髪を掴む。そして彼女はそのまま、力任せに『グレイ』を引き摺り倒した。

「ッ!?」

 突然のことに受け身を取り切れなかった『グレイ』が、背中から地面に倒れ込む。衝撃で息を詰まらせた『グレイ』を、憤怒の表情を浮かべたアンネローゼが見下ろしてきた。彼女の頬には、僅かに焼け爛れたような痕があった。きっと『グレイ』の魔術を避けきれなかったのだろう。

 しかし、確かにある程度の距離は稼いだはずだ。こんな一瞬で埋められるようなものではない。だというのに、何故彼女はここにいるのだろうか。

 そこで思い出されるのは、彼女の言葉だった。

(ウロ様のお薬、だったか)

 身体能力を向上させる薬など聞いたことがないが、彼女の言ったそれが事実なのだとしたら、恐らくそのせいだろう。純粋な身体能力に大きな差があるというのなら、『グレイ』の力で彼女から逃れることは難しい。加えて、グレイが身動きを取れないでいる間にアンネローゼの部下たちまで追いついてきてしまった。こうなってしまうと、逃走が成功する確率は絶望的だ。

(どうする。この身体を一番うまく使える迅なら、もしかすると逃げることくらいはできるかもしれないが。……いや、やはり駄目だ。アイツは破壊の権化みてェな人格だ。逃げるなんて選択肢を取る訳がない)

 とにかく打開策をと思考するグレイだったが、それを待ってくれるアンネローゼではない。

「エインストラ様って、確か刺青師なのよね」

 言いながら、彼女の脚が『グレイ』の右腕にそっと落とされる。彼女がしようとしていることが判ってしまったグレイが咄嗟に抵抗しようとしたが、その前に男たちに取り押さえられてしまった。

「ッ、クソっ!」

 駄目だ。腕を壊されるのはいけない。刺青は、『鏡哉』にとって唯一誇れるものだ。唯一、価値を見出せるものだ。それがなくなってしまえば、『鏡哉』の精神は壊れてしまう。そんなことになれば、ちようが、

「そんなに怯えなくっても大丈夫よ。血が出るようなことなんてしないから。ただ、大事な大事な利き腕が一生使えなくなっちゃったらどうなるのかしらって、ね?」

 怒りの中に残虐性を垣間見せる少女の瞳が、笑みを象る形に歪み、そして、一度少年の腕から離された彼女の脚が、渾身の勢いで少年の腕に振り下ろされる。

「ッ、――やめろ!!」

 悲鳴じみた叫びを喉から絞り出した『グレイ』は、襲いくる絶望に強く拳を握った。覚悟したのは物理的な痛みではない。何よりも守るべき存在であるちようを損なうかもしれないという痛みと恐怖。ただそれだけだった。

「…………ぁ?」

 だが、絶望的な気持ちで覚悟していたそのときは、一向に訪れなかった。確実に『グレイ』の腕に落とされた彼女の脚は、しかし打ち砕こうとしたそれに到達することがなかったのだ。アンネローゼの至近距離にいた『グレイ』には、その理由がよく見えていた。だが、見えていたにも関わらず、理解が全く追いつかない。

「きゃ、きゃあああああああああああああああ!!」

 つんざくような悲鳴を上げて、アンネローゼが倒れる。それを聞いてもなお、『グレイ』は現状が掴めないでいた。無理もないことだ。『グレイ』の腕を踏み砕こうとしたアンネローゼの脚が、唐突に膝の下からすっぱりと切れて落ちたのだから。

「やだ、やだやだやだやだ私の脚が! 脚がぁ!」

 泣き叫ぶ彼女の傷口から血が溢れ、地面を赤く染めていく。

「なんとかしなさいよアンタたちぃッ!!」

 アンネローゼが半狂乱になって己の部下へと顔を向けたが、そこに広がった光景に彼女はまた悲鳴を上げた。それにつられるようにして彼女の見ている方へと視線を投げた『グレイ』もまた、小さく息を呑む。

 十数人いた男たちは皆、頭と胴が切り離される形で絶命していたのだ。

(なんなんだよ。一体何があったんだ)

 結果的に助かりはした『グレイ』だったが、ますます身動きは取れなくなった。アンネローゼの脚が落とされる瞬間を見ていた『グレイ』ですら、彼女の脚が突然分離して弾け飛んだようにしか見えなかったのだ。恐らく事前に仕掛けられた罠が作動しただとか、そういう類のものだろう。こんな街外れの森に何故そんな罠が仕掛けられているのかは知らないが、罠となると、僅かに身じろぐことすら危険かもしれない。よって、現状における脅威は最早アンネローゼではなく、未知の何かだ。そう考えた『グレイ』が改めて神経を集中させたそのとき、すぐ傍(・・・)で、わざとらしい溜息が吐き出されるのが聞こえた。

 驚いた『グレイ』が反射的にそちらへと目を向けると、いつの間に現れたのか、『グレイ』のすぐ傍には黒いラフな衣服に身を包んだ男が佇んでいた。

 短くも長くもない半端な黒髪に、同じく黒みがかった瞳をした、平凡な顔立ちの青年。だが、だからこそ異様であった。前触れなく表れた彼は、凄惨とも言えるこの現場に一切驚いた様子がないのだ。いや、そもそも前触れがないにしてもほどがある。神経を研ぎ澄ませていた『グレイ』ですら彼の存在には気づけなかったのだ。まるで、母の幻のように突然姿を現したかのようだ。

 珍しく混乱する『グレイ』の内心を知っているのか知らないのか。やや呆れたような顔をして『グレイ』を見下ろした青年は、目を伏せて再び溜息を吐いた。

「何を警戒してるんだか知んないけど、危険だって判ってるなら這いつくばってないでさっさと逃げてよね」

 そう言った彼が、『グレイ』に向かって手を伸ばす。しかし助け起こそうとするその手は、『グレイ』によって払われた。当然だ。敵か味方かも判らないような相手の手を取る訳にはいかない。

 ぱしんと乾いた音を立てて弾かれた自分の手を青年が見つめ、何度か握ったり開いたりを繰り返した。差し伸べた手を無下にされたことを怒っているのか、はたまた単に痛がっているだけなのか。変化の少ない青年の表情からそれを読み取ることは難しかった。そんな彼を、『グレイ』が睨む。

「……テメェ、誰だ」

 警戒心を前面に押し出して向けられた言葉に、青年は何度か瞬いた後、子供のようにこてんと首を傾げた。

「俺が誰かってそんなに重要なことかな。まあ良いけど」

 勝手に納得したらしい彼が、再び『グレイ』に向かって手を差し出す。

「俺はヨアン。赤の王に頼まれてアンタの護衛をしてる」

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