窮地 1
共に行こうと差し伸べられた小さな手に、少年は己の背中を冷たい汗が伝うのを感じた。
ここでアンネローゼと名乗った少女の手を取るわけにはいかない。だが、どうすれば良い。どうすればこの状況から逃れられるだろうか。
鈍い頭を必死で回転させるが、良い案など浮かぶ筈もない。
「だーかーらー、怖がらないでって言ってるじゃない。あんまりびくびくされると気分が悪いわ。苛めたくなっちゃう」
怯えきった表情で視線を彷徨わせていた少年は、アンネローゼの言葉に思わず肩を震わせた。どうやら彼女はあまり我慢というものが得意ではないらしく、少年の態度に判りやすく苛立っているようだった。
「お、畏れながらアンネローゼ様、エインストラ様には危害を加えるなと、デイガー様よりご命令が、」
「うるさいわね! 知ってるわよ! でもそれって血が勿体無いからでしょう? だったら骨折るくらいなら問題ないわ!」
叫んだアンネローゼが、少年の腕を引っ掴む。小さな手は、しかしとても少女とは思えないほど強い力で、少年の手首をぎりぎりと締め上げた。
「っ……!」
「ね、エインストラ様、一緒に来てくれるわよね? エインストラ様だって痛いのは嫌でしょ? だったらいちいち抵抗しないでくれる? 私、か弱い乙女に見えるかもしれないけど、ウロ様に貰ったお薬飲んだからとっても強いのよ?」
徐々に強まっていく力に骨が軋み始め、少年の顔が痛みで僅かに歪んだ。それでも、彼が頷くことはない。
デイガーもそうだったが、帝国の人間はおそらく、少年のことを家畜に等しいものとして見ている。彼らからすれば、少年が持つのだろう幻想種の血が得られればそれで良く、そのために少年を殺すわけにはいかないから生かしているだけなのだ。そんな彼らの国へ連れて行かれたなら最後、鎖に繋がれ血を搾り取られる日々が待ってるだけだろう。
明確な抵抗はないが大人しく従うようにも見えない少年に、アンネローゼがあからさまに不愉快そうな顔をした。
「本当に腕折っちゃおうかしら。というか、デイガーの奴だって脚斬り落とそうとしたんだし、いっそ両脚へし折って連れて行けば良いんじゃない? そうしたら逃げられることもないし」
「アンネローゼ様!」
「うるっさいわねー! 向こうの方が上官だから命令に従えって言うんでしょ! 判ってるわよ!」
苛立たしげに吐き捨てたアンネローゼが、力任せに少年の腕を引っ張る。その勢いに対応しきれずバランスを崩した少年は、ろくな受け身もとれないままに地面に転がった。そんな彼を、アンネローゼが嫌そうな顔をして見る。
「エインストラ様って伝説の生き物だっていうのにとっても鈍臭いのね」
嫌悪を隠そうともしない声が降ってきたが、少年は起き上がろうとはしなかった。無様でも何でも良いから、僅かでも長くこの場所に留まろうとしているのだ。
「あーもう。私こういうの見てると、ほんっとにイライラするの! かといって、ぶって怪我させると怒られそうだし……。……あ、良いこと思いついちゃった!」
苛ついた態度を一転させて楽しそうな声を出したアンネローゼが、少年を見下ろして、にっこりと微笑む。
「トラウマ抉っちゃえ」
言葉と同時に、アンネローゼの指先が少年を指し示した。すると、彼女の身体から白い靄のようなものが生まれ、避ける間もなく少年に覆いかぶさった。
突然襲ってきたその靄に少年の脳裏をよぎったのは、喉を掻き毟って絶命したアンネローゼの部下の姿だった。まさか今ここで自分を殺すとは思わなかったが、それでも先程の光景を思い出せば恐怖が勝る。
少年は反射的に逃げを打とうとする本能に抗うことなく、ばっと上半身を起こした。そのまま逃げ出そうとした彼はしかし、顔を上げた先にあった光景に、目を見開いて息を飲む。
「…………お、かあ、さん……?」
薄く開いた少年の唇から、畏怖の滲む言葉が零れた。
少年の視線の先にいつの間にか佇んでいたのは、この世の憎しみの全てを体現したかのように歪んだ顔をした、母親だったのだ。
何故この人がこんなところに、と、そう思うことすらできず、ただただ自分を見下ろす母を見る。
振り乱した長い黒髪、血走った目、幽鬼の如き青白い顔。正気の見えぬ瞳が、少年を捉えている。少年の存在そのものすら含む一切を認めないまま、憎悪と嫌悪と拒絶を混ぜて練り固めたような黒い目で、少年を見下ろしてくる。
何もかもを否定するその瞳は、まさしく呪詛のような拘束力を以て少年の動きを縫い留めた。そうして手足が氷になってしまったかのように冷えて固まる中、かろうじて唇から落ちた言葉は、母としての彼女に対する呼びかけだった。
「お、かあ、」
しかし、彼女がそれに応えることはない。それどころか、少年の声はいつだって彼女をより激高させるだけなのだ。
「私を母親のように呼ぶな! 気持ち悪い!」
心底からの憎しみを吐き出されると同時に、固く握りこまれた拳が少年の頬を弾いた。皮膚の内側がじんじんと熱く痛み、少年は呆然として母親を見る。
そんな彼の表情の、何が気に食わなかったのだろうか。母親は少年の腹に容赦のない蹴りを入れ、彼を地面に転がした。そしてその頭を乱暴に掴んで、何度も何度も地面へと叩き付ける。
「お前さえ生まれなければ! 私があの人に見捨てられることも! なかったのに!」
頭がガンガンと割れるように痛む。うっすら開かれた目に映る世界はぐるぐると回り出し、胃が痙攣して喉の奥から内容物がせり上がってきた。そのまま口元からごぽりと溢れ出た吐しゃ物が、地面に撒き散らされる。その様を見た母は、より一層強い力で少年の顔を地面に押し付けた。
「汚い汚い汚い汚い!!」
背中に、絶叫に近い悲鳴が上がるほどの熱い何かが押し付けられる。衣服が皮膚に張り付く嫌な感じと、ひりつく痛みと、肉が焦げる匂い。熱された鉄を押し当てられたのだと少年が理解するまで、僅かな時間を要した。
ああ、さっきの痛みも、この痛みも、全部知っている。全部、母が自分に与えてきたものだ。母が少年に与えた、唯一のものだ。
「なんでお前みたいなのが生まれて来たのよ!? 産まなければ良かった! 生まれなければ良かった!」
痛みも、呪詛の言葉も、何もかもがまるで本物のようだ。けれど、絶対にそれはあり得ない。何故ならこれらは全て終わったことだ。母は死んだ。少年に僅かな愛情すらも寄越すことなく、最後まで少年を憎しみ恨んで死んだ。だから、少年がここで彼女に謝罪をしたって何の意味もない。母の憎悪も嫌悪も憤怒も狂気も苦痛も拒絶も、そのどれもが本当で、だからこそ、少年はもう一生赦されることなどないのだから。
少年の口が、はくと動いた。喉が引き攣る。呼吸が上手くできない。まるでいつか水に頭を沈められた時のようだ。
判っている。赦しを乞う言葉に意味はない。判っているのだ。だが、それでも、
「ご、め……ん、なさ……」
それでも、零れ落ちるのは謝罪の言葉だった。
母は悪くない。悪いのは、こんな汚い目を持って生まれてしまった自分なのだ。汚い生き物として生まれ落ちてしまった自分が全て悪いのだ。自分のような生き物が生まれてしまったから、母の愛した人は母を捨て、母はひとりぼっちになってしまったのだ。
紛れもない事実として、疑いようのない真実として、母は被害者で、加害者は自分だった。
「……ごめ、な、さ……」
僕が全部悪いから。僕のせいで、僕が汚いから、僕がいるから、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
終わったことだ。母はいないのだ。けれど、それをそうと切り離して考えるには、少年の心は弱すぎた。繰り返されてきた暴力の記憶と共に、存在の全てが罪であるのだという認識が改めて脳内に押し流れて来る。
「ぉ、かあ、さ……」
その一言が、彼女の琴線にどう触れてしまったのだろう。
「そのッ、汚い目で! 私を見るなッ!!」
いつの間に握られていたのか、絶叫と共に振り下ろされたナイフが、少年の顔を掠めて地面に突き刺さる。わざと外したわけではない。単に勢いが強くて狙いが定まらなかっただけだろう。それを証明するように、母の目はより一層の憎悪を湛えて少年を見た。
そして、少年の目を狙った切っ先は間を置かずに再び飛んでくる。
そうだ。あのときも確かにこうだった。そして、殴られるでもなく蹴られるでもなく、刃物でもって顔を狙われるという恐怖は、久しく忘れていた抵抗の二文字を彼に思い出させたのだ。そう、何もかもが、あのときの再現のようだった。
ナイフを握る母の手を思わず振り払えば、彼女はバランスを崩して尻を着いた。その拍子にナイフが母の手から零れ、少し離れた場所に転がる。
互いに呆然と見合ったのは、ほんの僅かな時間だった。
逃げるという選択肢を思い出した少年の身体が逃げを打つ前に、獣のような素早さで彼にのしかかった母が、少年を地面に押さえつける。
少年の身体はあのときよりもずっと大きくなった。だから、母の細い身体を押しのけることくらいならできたはずだ。だが、どうしても身体が動かない。それが恐怖によるものか、他の何かによるものなのかは判らなかった。
金縛りにでもあったかのように指ひとつ動かせない中、こちらを覗き込んできた母が、ごくごく近い距離から少年を睨むように見つめてきた。
ああ、うつくしいかんばせがこの上なく歪んでいる。まるで鬼の顔だ。こうやってうつくしいものが醜く成り果てる姿は、途方もなく怖気がした。そしてそれをさせたのが自分であるという事実に、やはり少年は深く懺悔する。
生まれてこなければ良かった。
自分の汚さが母を歪め、うつくしいものを穢してしまったのだ。到底、許されることではなかった。
「ご、め……んなさ……」
母の白い手が、ゆらりと伸びてくる。その両手が向かう先を、少年は知っていた。
「――――死ね、化け物」
細い指先が少年の首にかかり、そして彼女は、一切の加減を知らない力でもって彼の首を絞め上げた。
白む頭に呪詛が流し込まれていく。重苦しく粘ついた焼けるような殺意が、少年を溺れさせる。そこで少年は唐突に、自分の手が硬い何かを握っていることに気づいた。自分の意思ではなく動く指が、それを強く握り締める。一体何を握っているというのか。こんなものは、少年の記憶にはない。
……ああ、いや、それは違う。本当は、少年は知っている。握り締めた切っ先が、この後どうなるかまで、全て知っている。
だって、これで、『あの子』は、おかあさんを、




