水の呪い 8
女が王の一撃を躱した瞬間、彼女の腰につけられている飾り紐が大きく外に揺れる。そしてそのタイミングを狙ったかのように、背後から橙色に輝く矢が駆け抜けた。
「っ!?」
女が僅かに目を見開く中、大地の息吹を存分に纏った一矢が、飾り紐の先にある石を貫く。
「……私の、勝ちだ」
王が笑みを深めると同時に、パキン、と軽い音を立てて、水の色を湛える石にひびが入る。そして直後、それは弾けるようにして砕け散った。同時に、女が纏っていた水の気配が霧散する。呪いと守護の根源たる石が砕けたことにより、彼女の矛と盾を担っていた水の守りが効力を失ったのだ。
そしてその好機を逃すまいと、火霊がぶわりと炎を膨らませ、彼女に襲い掛かる。だが、
「待て!」
突然の制止に、火霊は一瞬戸惑ったように揺らいだが、命に従ってすぐさま炎を収めた。そんな王の行動に、女が目を細める。
「なんだ、止めちまって良かったのか? 最後のチャンスだったかもしれないぞ?」
不敵に笑って見せた彼女に、しかし王はきょとんとしたような表情をして首を傾げて見せた。
「さて。私には貴公に危害を加える必要がなくなってしまったのだから、火霊の暴走を止めるのは当然のことだと思うのだが」
「あぁ? 水の守りがなくなったアタシは取るに足らないってか? こちとらまだまだ戦れるし、寧ろこれでようやっと面倒なしがらみなしに楽しめるんだが?」
「何を言う。貴公の強さであれば、水の加護がなくとも十分脅威であろうよ。だが、|そちらに戦う理由がなくなった《・・・・・・・・・・・・・・》以上、ここは互いに痛み分けということで手を打つべきではないだろうか。貴公とて、万全ではない私と手合せするのは不本意だろう?」
にこりと微笑んだ王に、女は顔を顰めた後、盛大に舌打ちをした。
「ったく、食えない野郎だ。まあ、そういうことにしておいてやるよ。実際、本気を出せないアンタと戦っても面白味に欠けるしな」
構えを解き、異形の腕を元の人と同じそれに戻して、がしがしと後頭を掻いた女に、王も剣を収める。そして王は、やれやれ疲れたと言って、どかりと地べたに腰を下ろした。
彼女が純粋な敵ではないということは、先の会話で彼女自身が教えてくれたことだ。いわば傭兵のような立場で、帝国側から依頼されて王の足止めを請け負ったのだろう。そして、わざわざそれを教えてきたことから、彼女自身、この戦闘に乗り気な訳ではないということが窺える。更に彼女は、備品を貸しだされている以上は依頼をこなす、と言った。裏を返せば、その備品がなくなれば依頼を反故にしても良いということだ。果たしてそれが傭兵として正しい姿かどうかは判らないが、少なくとも彼女はそう考えているのである。
つまり王は、現状に不満しかないから備品を壊してさっさとこの戦闘を白紙にしてしまえと、そう要求されていたのだ。そしてその意図をきちんと汲み取った王は、だからこそ彼女自身ではなく、呪具を破壊することに注力したのである。
「しっかしとんでもない王様だな。一体いつこの作戦を考えついて、どこからが布石だったんだ? あの三倍だとか叫んだのは、間違いなくわざとだよな。あそこでああ言うことで、強化の度合いを変えるためには精霊に対する明確な意思表明が必要だって印象付けたんだろう? 最後の攻撃に繋がる布石ってやつだな。そんでもって、五倍は強化したんだろう最後の攻撃は、アタシの体勢を崩す役目のほかに、矢の存在をこっちに気取らせない役も担ってたってところか。しかし変だな。アンタが矢を放った様子は見られなかったが、まさかアタシの目ですら追えないほどの速度で動いたってか?」
地面に座って息を整えている王の目の前に、女がどかっと座り込む。どこかきらきらした表情で見てくる彼女の目は、判りやすく期待に満ちている。
「いや、残念ながら、私の動きが貴公の動体視力を上回ることは万にひとつもないだろう。なに、簡単な話だ。ちょっとした小技を使って、指定した場所に遠くから矢を放って貰ったのだよ。私はそれが水の守りに当たるよう、タイミングを合わせただけに過ぎん。」
「……なるほどなぁ。アタシはアンタのことを人間だと思ってたが、アンタもまたヒトならざるものだったってぇ訳か」
納得したふうな女の言葉に、王は心外だというような表情をしてみせた。
「何を言う。私はれっきとした人間だ。そもそも今回のこれは、貴公が水の守りを見えるところに身に着けてくれたお陰でやりやすかっただけだ。服の中などに隠されていたならば、もう少し手間取ったとも」
「手間取ったって表現をするあたりが、本当に食えない男だな。アンタみたいなのが人間であって堪るかよ」
少々呆れた顔をして、女は王を見た。手間取る、ということは、つまり可能ではあるということである。
「大体、人間は明確な命令なしに精霊を意のままに操ることなんてできやしない。事前に細かく指令を下していたんなら別だろうが、アンタはそういう器用なことができるタイプじゃないんだろう?」
「さて、どうだろうな」
答える気がない様子の王に、女はやはり呆れたような顔をした。
「やってることが人間の領域を超えてるっつってんだよ」
「そうは言うが、人間なのだから仕方がない」
あっけらかんと言ってのけた王に、女は勝手に言っていろと息を吐いた。
「そんなことより、貴公、名はなんと言うのだ? これほどまでに優れた戦士にはそうそう出会うことなどあるまい。是非名を教えて貰いたい」
「それを教えてアタシに何の得があるってんだ」
面倒くさそうに言った彼女に、しかし王は食い下がる。
「それでは、私の身体が空いたときに再戦することを約束しよう。勿論、然るべき場所を用意する。今回は、私にしても貴公にしても不完全燃焼が目立つからな。今度こそ、互いに本気で手合わせをしようではないか」
「よっしゃ乗った!」
王の提案に、間髪入れずに女が片膝を打つ。そして彼女は、王に向かって嫣然と微笑んだ。
「アタシの名前は蘇芳。あちこちを放浪するのが趣味の傭兵崩れみたいなもんだ。こう見えても、アンタみたいなひよっこよりも三百は多く生きている」
「スオウ殿か。よろしく頼む」
浅くではあるが会釈をした王に、蘇芳は一瞬だけ驚いた顔をした。赤の王は気さくな人柄だと聞いていたが、目下の、それも先ほどまで敵対していた相手に対して、こうも簡単に頭を下げるとは思っていなかったのだ。
「変だ変だとは聞いてたが、本当に変な王様だなぁ」
「私に関する噂は、随分と不名誉なものが多いと見える」
そう言って笑ってみせた王に、蘇芳はやはり呆れた顔をした後、すっと真顔になって王を見つめた。
「しかし、王様よ。アンタこんなところで悠長に休んでて良いのか? 判ってると思うが、アタシが請け負ったのはアンタを消耗させて足止めすることだ。その役目は十全に果たせたと自負してる。ってぇことは、今頃帝国の連中は思惑通りに事を進めている筈だぞ」
「だろうな。だが、貴公にこっぴどくやられた火山がまだ息を吹き返しておらん。場合によっては更に炎をつぎ込む必要がある以上、私がここを離れる訳にはいくまいよ。なにせ相当に魔力を削られてしまったからな、離れた場所に対して魔法を使うのはできれば避けたいところだ」
「つまり、やろうと思えば、遠く離れた地にいても火山を復帰させるほどの大規模な火霊魔法が使えるってことじゃあないか。リアンジュナイルの国王ってのは、皆こうも規格外なのかねぇ」
蘇芳の言葉に、王は黙って微笑みを返すだけだった。
「だが、アンタがここを離れられないとなると、ますます連中の計画通りだろうな。奴らが何を狙っているのかまでは知らないが、まずいんじゃあないのか?」
蘇芳に指摘され、真っ先に浮かぶのはあの少年の顔だ。恐らく、帝国の狙いは今回もまた、エインストラたる少年だと予想される。そして、彼を攫う上で最も厄介な障害となるのが赤の王であると踏んだのだろう。よって、王がこの地で足止めを食らうのは、好ましい事態ではない。
王宮で非常事態の第一報を受けたときから、もう随分と時間が経っている。もしかすると既に手遅れかもしれないが、それでも王はすぐさま金の国へ向かうべきだろう。
だが、王はそうしようとはしなかった。
そして、王の返答を待つように黙って見つめてくる蘇芳に、ゆるりと微笑みを返す。
「そうだな。何も私が常に傍にいて守ってやることだけが全てではないと、そう言っておこうか」




