7・ゾンビと終末医療
ゾンビがいつ、どこで発生したか詳しいことは解っていない。
いつの間にかそこにいた、という感じで世界中にポツポツと現れた。
人間はゾンビに噛まれるとゾンビになる。
今のところゾンビから人間に戻った事例は無い。
治療法を探している研究者もいるが、進展は芳しくないようだ。
ゾンビの方でも研究のために自分の身体を解剖されるのは嫌なので、研究に非協力的ではある。
ゾンビの血液、体液を調べることでワクチンは開発もされた。
しかし、ゾンビウイルスはいくつかの種類があり、しかも変質するためひとつのワクチンで全てのゾンビウイルスの感染を防ぐことはできない。
ホンコンA型、ワシントンO型、ロンドンC型、など変質したゾンビウイルスは年々新型が発見されている。
またワクチンの副反応で脳性マヒを起こして小学生が死亡する事件が起きた。
このためワクチンそのものも危険な薬品というイメージがついた。
死ぬかもしれないワクチン、または脳に障害が出るかもしれないワクチン。
これを射っておけばゾンビに噛まれてもゾンビにならない、かもしれない。
確実性に乏しいもののゾンビへの恐怖心からか毎年、新たなワクチンを注射することになる。
未だに副反応は原因が不明のまま、日本では昨年、ワクチンの副反応が原因で死亡したと見られる中学生以下の児童は6人。
脳に障害が残ったのは11人。
学校でのワクチン接種は行われているが、親の方から子供へのワクチンの接種を拒否する家庭も増えた。
効果そのものが不確かなのに副反応で死亡するリスクがある、というのがその理由。
医療の側からは、タイプが合えばワクチンは必ず効果がある。また、副反応がゼロの薬というものは存在しない。ゾンビ化を防ぐためにワクチンは必要だという。
また6人の死亡者がワクチンの副反応が原因かどうかは現在調査中、とのことである。
どちらの言い分にも1理はある。未だに完全なゾンビワクチンは完成していない。
不完全なワクチンを注射することはギャンブルに近い。
効果があるかもしれない。その代わり副反応で死ぬかもしれない。
ゾンビワクチンを注射するかどうか悩んでいる人は、この点をしっかりと考えて後悔の無い選択をして欲しい。
今日は医師に呼ばれて病院に来ている。
私が患者というわけでは無い。
「来たか、こっちだ」
ムスッとした顔で医者は私を出迎える。髪の短い女医だ。医者としては、本当は病院にゾンビを呼びたくは無いのだろう。
夜中にコソコソと見つからないように裏口から病院に入る。
私はため息を吐いて医者の後ろに着いて行く。
「本当にバレないようにしてくれるんですよね」
「私のことは信用してくれるのだろう?」
「そうで無ければ、私は今、ここに来てませんよ」
暗い夜の病院の中を歩いていく。
ナースセンターの前を通って看護士に見つからないように、非常階段を登っていく。女医が手に持つ懐中電灯の明かりを頼りに病室に向かう。
まるで泥棒の気分だ。
女医に促されてひとつの病室に入る。個室で中に入院患者がひとりいる。
女医が病室の明かりをつける。
ベッドに横たわる患者が目を開けて私を見る。
「……久し振りだな」
「お久しぶりです。中川部長」
「もう、とっくに部長では無いよ」
私がゾンビになる前、勤めていた会社の上司であり、私にとっては恩を感じる人でもある。
「ゾンビになって、仕事を辞めたと聞いたときは驚いた」
「知ってましたか。中川部長が定年退職した後なのによく知ってますね」
パイプイスを出して座る。中川もと部長は私の記憶よりもゲッソリと痩せている。
エネルギッシュでガハハと笑う恰幅のよいあの部長が。
今はまるでゾンビのような顔色だ。
「ガンですか」
「そうだ。手術して腸が短くなったぞ。もう助からんらしい」
振り向いて女医さんの方を見る。
「腰骨に転移が見つかった。今の医学ではどうにもならん」
日本では今、ガン患者が増えている。原因は不明のまま。
中川部長の顔を見る。
「話は昼間、中川部長の奥さんから聞きましたが、念のためここで確認させて下さい」
中川部長の顔はやつれている。しかし、目はまだ力強い。
「ゾンビになる覚悟はありますか? 人間扱いされない生き物として、生きる覚悟はありますか?」
中川部長はベッドに横になったまま、静かに頷く。
「命汚ないなどと言われても、もう少し孫の顔が見たいんだ。それに、病室の壁は見飽きた。抗ガン剤で苦しい思いをするのも、もう嫌だ」
「そうですか、解りました」
「すまんが、頼む。君が来てくれて、良かった」
女医が注射器を取り出して中川部長の腕に刺す。局部麻酔が効いてきたのを確認して、私に頷く。
私はベッドに近づいて、中川部長の肘の内側に顔を寄せて、その腕の肉にかじりつく。皮を噛みきり肉を少し口に入れる。
中川部長から離れて場所を開ける。女医が手早く私が噛みきった部分にガーゼをあてる。
私は口の中の肉を飲み込んで。
「これから熱が出て、3日後にはゾンビになります」
「あぁ、ありがとう」
「退院したら、久し振りに1杯飲みましょう」
「酒など、何年ぶりになるだろうな……」
薄く笑って応える中川部長。闘病生活はどれだけの期間だったのだろうか。
末期のガン患者がゾンビになることを望む。治らないのであればいっそのこと、と考えるのも当然か。
こうしてゾンビが増えていく。
ガン患者からゾンビになった人の中には、さっさとゾンビになれば良かった。副反応ばかりでろくに効かない抗ガン剤治療で、時間も金も無駄にした。苦しい思いをした、と、言う人がいる。
現代の医療では限界がある。
最近ではガンの宣告を受けたら、手術より先にゾンビを探す人もいるという。
女医さんは不機嫌な顔で中川部長の手に包帯を巻いていく。
医者としては治せなかった患者を最後はゾンビに任せるというのは、気に入らないことだろうか。
私はポケットから出したタオルで自分の口の回りを拭く。
「では中川部長、私はこれで」
「来てくれて、本当にありがとう」
私はひとつ会釈して病室から廊下に出る。
日本はゾンビが現れてからは、長期入院患者が少しずつ少なくなっている。
来たとき同様、女医の懐中電灯の明かりを頼りに非常階段を降りる。
「私たちは、ゾンビに助けられているのかもな」
女医が話しかけてきた。どういう意味ですか? と尋ねてみる。
「日本ではガンは見つかれば手術、そして抗ガン剤治療が一般的だ。しかし、副反応の無い抗ガン剤は無い」
「今、問題になってますね。抗ガン剤は薬害って裁判になってて」
「日本の法律に問題があるんだ」
「と、いうと?」
「ガンの手術後、抗ガン剤治療をせずにガンの転移が発見された場合、これは医師の治療が不適切だったと医師の責任になる。しかし、抗ガン剤の副反応で衰弱して、他の病気を併発して死亡した場合は医師の責任とはならない。責任を回避したい医師は、転移の可能性が低くても抗ガン剤治療を勧めることになる」
「転移の可能性が無くても?」
「小さなガン細胞が血流に乗り移動することを考えれば、転移の可能性がゼロになることは有り得ない。そのために抗ガン剤を使うことになる。今では高齢のガン患者は、ガンでは無く抗ガン剤の副反応で衰弱して死亡する方が増えてしまった。手術後、医師の責任を問わない事を誓約書に書き、抗ガン剤治療を拒否した患者の方が元気に暮らしていたりする」
「抗ガン剤治療でガンが治ることもあるでしょう」
「効果の高い抗ガン剤は健康保険の適用範囲外で、高価なままだ。誰もが買える値段じゃ無い」
女医は疲れたようにため息を吐く。
「手術後、ガンの転移が出るか出ないかは博打に近い。結果だけ見れば抗ガン剤を使って助かるケースに、抗ガン剤を使わなかったことで助かるケースがある。私たちは未来が予知できる訳では無いんだ」
医師が責任を回避することだけを考えると、患者を抗ガン剤治療するしか無い。この医療の在り方を変えようとする医師もいる。
しかし、法律の改正はまだ行われていない。
「人に戻れないゾンビ化での延命など、最後の手段なのだが……」
ゾンビになりたがる人は、意外といるものだ。
「私も、たまにゾンビになりたいと、思うときがある」
「ゾンビの医師に診てもらいたいって患者はいないでしょうね。やめといた方がいいですよ」
「ゾンビになった時点で医師免許は無くなるから、医師は続けられないが?」
「それなら失業の危機じゃないですか。ますますやめといた方がいい」
女医の苦笑する顔に見送られて、病院を後にする。
ポツポツと雨が降る中、フードを被って夜道を進む。
治療の見込みの無い病人がゾンビになることを望む社会。
ゾンビは、人に必要とされている。