竜の子供たち
その日、竜があらわれた。
ひしゃげた牙と爪を持ち、全身を緑色の鱗に包んだ大きな蛇が雲を通り抜けゆっくりと地面に向かっている。
はじめに彼を見つけたのが誰かは分からない。
公園で遊んでいた子供なのか、望遠鏡を覗いていたひきこもりなのか、ブランコで黄昏ていたサラリーマンなのか。
分からないぐらい、彼は唐突に地球にあらわれた。
しかし、人の対応は迅速だった。数字とアルファベットの名前がついたミサイルが一発、彼に向けて放たれた。
「やったか!?」
誰かが言った。
けれど、彼はその期待に応えることなく木っ端微塵になり、竜衛町に血の雨を降らせた。
ミサイルがぶつかる前、彼の目が潤んだのを僕は見た。
パンッ!
乾いた銃声が竜衛町に響いた。
「0.34秒か。雛子、太ったんじゃないか?」
「違うよ! スタートが遅れたんだ!」
巻き起こった風で吹き飛んだクラスメートたちを背景に、放たれたのは弾丸ではなく岡崎雛子だった。
血の雨が降った日から一年、子供たちの中に異常な身体能力を持つ者があらわれ出した。
共通点は竜衛町に住む子供であることのみ。
お隣に住む雛子も強くなった子供たちの一人だった。金魚の糞のように僕の後ろについてきて可愛かった少女の面影はもうない。
元々一位だった僕の校内マラソンランキングは、彼らの登場でずるずると落ちていく。
「呪いだよ」
「ご加護だね」
雛子に憎まれ口を叩くと決まってこう返ってくる。まだ自動販売機の方がバリエーション豊かだ。
殺された種族に対して加護なんて残すわけないだろうに、この現象に対する竜衛町の人々の反応はみんな似たようなものだった。
カラスの鳴き声の合間を縫って呼び鈴が鳴った。ドアスコープで確認することなく扉を開ける。
「今日の晩御飯」
玄関に立っているのは雛子で、腕には鍋が抱えられている。スパイスの香りが鼻に入ってくる。今日はカレーのようだ。
僕には両親がおらず、岡崎家から食料が届けられるのが習慣になっている。
「食ってく?」
礼を告げるついでに恒例の質問。解答の確立はフィフティフィフティ。
「寂しがりめ」
今日は上がっていく日だったらしい。
雛子と協力して食事の支度をする。忘れちゃいけない、福神漬け。
「竜になる夢をみるんだ」
雛子が話し出したのはルーを先に食べきってしまい、残りの白米をどう片づけるか悩んでいるときだった。
「やっぱり呪いじゃん」
「違うって。変化しちゃって嫌だってより、進化する感じ? 分かる?」
「いや?」
「そか」
一生懸命かき集めたルーで残った米を無理矢理飲み込んだ。
バンッ!
鈍い衝撃が体中に走った。
考え事をしながら歩いていたところをトラックに轢かれたらしい。
宙に舞いつつ状況を認識すると、地面にぶつかるより早く柔らかさを感じた。
醜態を説明するのであれば、雛子にお姫様だっこされていた。
「一歩遅くない?」
「口が利けるなら平気なんじゃない? ……加護も受けてないのに」
格好だけをみれば助けられたように見えるが、トラックに轢かれたという事実は揺るがない。
「とりあえずおろしてくれない?」
素足をみせていたはずの雛子の足は緑色の鱗に覆われていた。
僕は学校とは逆方向、竜の死にざまを見届けた丘の上に歩き出した。何か合図を送ったわけではなかったが雛子も黙ってついてきた。
小学生の頃、僕の五十メートル走の記録は三秒だった。
マラソンは三周のコースを二位が一周する前にゴールしていたし、計測した記録は全て世界記録だった。
父親は産まれたときからおらず、母は小学校に上がる前に他界した。
『今はね、遠くから見守ってくれてるの。お仕事に疲れたら戻ってくるかもしれないわね』
パパはどこにいるのかと聞く度、母から帰ってきた言葉だった。
だから、僕は空から降りてきた竜をみたとき思ったのだ。
――父さん?
「どういうマジック?」
「マジックって?」
「足の鱗」
竜衛町を見下ろせる丘の上。先程まで雛子の足をびっしり覆っていた緑色は跡形もなく消えていた。
「知らないけど、本気を出すぞってなるとなるんだ。さっきのは無意識だけど。もしかしたらあれかな。進化が進んでるのかも」
進化ではない、と思う。どちらかといえば吸血鬼やゾンビに近い気がするのだ。産まれ落ちた後、人間は変態しない。
「竜になるの?」
「かもね」
子供の頃読んでいたおとぎ話にダンピールという主人公がいた。吸血鬼より産まれ、吸血鬼の天敵である彼は最後に自分の父親を殺す。
年老いた竜は人の兵器で殺せたけれど、若い竜たちはどうなっていくのだろう。それは多分誰にも分からない。
普通の人より運動能力に優れ、加護を受けた彼らより劣る僕はどうなっていくのだろう。それこそ僕には分からない。
彼らと僕は似ているけれど、同じではない。だとしたら……。
「雛子、僕と君は仲良くなれるかな?」
「うーん……無理じゃん?」
丘の上、彼が降りてきた方向を見つめていた雛子が振り返りながら答えた。
悪戯っぽく笑いながら。