005:あなたの心を切り取って
アンカスの空は、透き通るような青を湛えていた。
山道を抜けること数日、ディエガとクヒの目にも、やっと、鉱山街の城壁が見えた。
尾根を連ねた岩肌剥き出しの山々に抱かれた町。それまでの緑の景色は岩砂漠に消し去られ、風が飄々と吹き抜ける赤茶色へと変わっていた。
ノアルから大陸の北側へ抜ける街道の途中にある「アンカス」の町は、炭鉱によって栄えてきた。大陸の中央を走る山脈に良質の鉱脈が眠り、石炭、鉱石等々が掘り出されている。すーっとした石炭の臭いが、街から離れた彼らの場所へも伝ってくる。
宝石職人が作り出す艶やかな装飾品がこの町の特産物。行商人たちがこぞって仕入れに来るため、年中賑わっている。噂を聞きつけ、ノアルの港からアンカスまで険しい山道を越えてやってくる旅人も少なくない。
山道からアンカスを見渡せる高台まで来ると、通行人の数が一気に増える。街が賑わっている証拠だ。
ディエガとクヒも、商人、旅人たちに混じって、アンカスの街へと入っていく。
赤レンガ造りの小さな宝石店が、町中にひしめき合うように建ち並ぶ。旅行中の金持ちや大きな荷物を抱えた商人があっちにこっちにと店を梯子し、よい品を求めて歩く。
「流石、宝石の街と言われるだけあるわ。ノアルもステキな港町だったけれど、ここはまた、別の裕福さに溢れているわね」
銀色に輝く髪をなびかせて、クヒがそう言った。
「宝石……か。興味が湧かないな」
ぶっきらぼうに答えるディエガ。背の低いクヒの頭を見下ろして、溜め息をつく。
「石には一つ一つ、意味があるのよ。魔法使いなら誰でも知っているわ。目的にあった石を身につけたり、呪いに利用したりするの。興味がないなんて言わないで、色々勉強してみるべきだわ。あなただって、少しは魔法を使うんだから。──それに、この街なら原価に近い値段でいいものが手に入りそう。助かるわ」
嬉しそうにあちこちの店を見て歩くクヒの後ろを、ディエガは面倒くさそうに付いて回った。
やがて日が傾き、天空が燃えるようなオレンジ色に染まる。東の空から次第に濃紺に変わってきた。そろそろ、今晩の宿を探す頃だ。明かりが灯り始め、店じまいが始まる。そして、夜の街が姿を現す……はずなのだが。
アンカスはそのまま眠りについてしまったのだろうか、夜になれば開くはずのパブも、通行人の姿さえもない。
薄暗い街にディエガとクヒの二人だけが取り残された。
「……妙な街だな」
思いながら、暗めの明かりを灯した宿屋へと足を向かわせる。
しんと静まり返った街に、冷たい石畳を歩く二人の乾いた足音がよく響いた。
急いで入った宿の扉をゆっくり閉めると、クヒはディエガを見上げ、囁いた。
「──背後で、変な気配がしなかった? まるで、誰かが監視しているような……」
「ああ。だが、魔物じゃない。人間みたいだ」
神妙に答えたディエガの声に反応して、思わぬ人物が声を上げた。
「お泊りになるのであれば、朝まで宿から出ぬことですよ、お客様。この街では、『夜出歩かないこと』が、暗黙の了解なのですから」
宿屋の主人だ。白髪交じりの主人は薄気味悪く笑うと、「何泊ですか? お二人、ご一緒のお部屋でも?」と話をはぐらかせた。
「何かある」
ディエガは案内された二階の部屋の窓を開放し、街を見下ろした。
人っ子一人いない夜の街。妙な気配。民家も宿屋も、昼間賑わっていた宝石店も、こぞって雨戸をきっちり閉め、こわごわと震えているではないか。──不自然すぎる。
別の場所からも確認したいと、クヒを置いて、廊下の先のテラスへ向かう。
どうやら他にも数組客が泊まっているらしく、あちらこちらから会話が漏れてくる。
「せっかくあの長い山道を越えてやってきたっていうのに、話が違うじゃないか! こんなにやばいところだなんて聞いてないぞ!」
バン、と、隣の部屋の扉が勢いよく開いた。
太り気味の商人風の中年男が、大声を上げながら現れる。憤慨している。
「『やばいところ……?』って、今、そう言ったのか?」
声に気付いてくるりと振り向いた男は、更に声を荒げた。
「お前さんも知らずにやってきたようだな。──俺も、たった今聞いて驚いてるところだよ!」
酒が入っているのか、フラフラ千鳥足でディエガに近づいてくる。
「おい、飲みすぎなんだよ!」
中から連れらしき男の声がする。
「うっせー! コレが飲まずにいられるか! 大きな街だから久しぶりに美味い酒にありつけると思いきゃ。外出も駄目、夜遊びも駄目。それもこれも、殺人鬼が出るからだとか言うじゃねえか!」
ぷはーっと、鼻に付く酒臭い息を周囲に撒き散らす。
「それが嫌なら、早々に町を出ろだとよ! それじゃあ何のためにここに来たのか、わかりゃしねってんだ! バカヤロウが!」
(なるほど、殺人鬼ねぇ……。あの感じはコレか……)
ははん、と、ほくそえむディエガ。事件と聞くとうずうずしてくる、嫌な性格だ。
「なあ、その話、詳しく知りたいんだが……?」
男の肩をぽんと叩き、引き寄せようとすると、奥にいた連れの男が戸口へやってきて、階段の下を指差した。
「それならな、ここの主人か、でなけりゃ、ギルドで尋ねるといい。俺たちも噂でしか聞いてなくて、実際のところどうなんだかさっぱりなんだ。ギルドは朝にならないと開かないが、主人ならまだ起きてるはずだ。カウンターに行ってみな」
「助かる」
ディエガは軽く頭を下げると、テラスへ行くのをやめ、階段を下り始めた。
「あんた、変わった人だな……。賞金稼ぎかなんかかい? よっぽど腕っ節に自信があると見える」
酔っ払った男をなだめるように部屋に引き入れると、隣部屋の男は立ち去るディエガの背中にそう話しかけた。
「賞金稼ぎ……? まあ、そんなもんだ。もし、まだこの街に滞在するつもりなら、あんたらがいる間に俺がその殺人鬼とやらをなんとかしてやるよ」
階段下には、明かりが灯っていた。実はまだ宵の口。この街があまりにも静かで、身を潜めているから、夜中と勘違いしてしまいそうだが……、まだ夕飯を宿屋の一階で食べてから間もない。
カウンターの奥で、主人が帳簿をつけていた。ランプの下、宿帳を広げ、羽ペンにインクを付けて、羊皮紙に数字を並べている。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだが」
静寂を切り裂くディエガの一言に、主人の背中にびくっと稲妻が走った。
「お……、お客様。何用でしょう?」
震えた手でペンを置くと、のっそりと立ち上がり、カウンターの側まで来る。
「この街の秘密を知りたくてね。……殺人鬼って、どういうことだ?」
「ど……どこでそれを?」
主人はしどろもどろして、冷や汗をかき始めた。
「その怯え方、噂は本当らしいな。で? いつから? 見た奴はいるのか?」
カウンターに身を乗り出し、あれこれ聞いてくる大柄な男に、主人は恐怖を覚え、ぶるぶると首を横に振るばかり。
「心配するな。言われなかったことを責めているわけじゃない。興味があるんだ、その殺人鬼とやらに」
「興味……? なんとかしてくれるということか?」
「ああ、何とか出来るなら、だがな」
ディエガがそこまで言うと、主人は覚悟を決めたように、彼の耳元までぐっと近づき、ボソッと囁いた。
「──三ヶ月前、城門の側で最初の遺体が見付かったんだ。……手足が切断された、男の遺体だ。切り口が綺麗過ぎて、明らかに『剣で切り落とされた』とわかるものだった。それから、五日後、今度は三人の旅人が……、殺された。今度は頭まで切り離されていた。更に一週間後、二人の男がバラバラになっていた。あまりにバラバラで、どちらがどちらの腕か足かさえわからないくらいだった。
それを皮切りに、次々と街の者、旅人が殺されていった。夜、人気がなくなるのを見計らったように、そいつは夜の街に現れ、通行人を殺していったんだよ。……石畳はあちこちが赤く染まり、血の臭いが町中を漂っていた。
夜は恐ろしい。何が起こるかわからない。
街の人間は、『夜は出歩くな』と言うルールを、知らず知らずのうちに作っていた。夜出歩けば殺される。姿の見えない何者かが、人間を切り刻むために、歩き回ってるって……」
恐怖からガタガタと歯を鳴らす主人の肩に、ディエガはポンと手を乗せた。
「その殺人鬼、俺が何とかしてやろう。血に飢えた悪魔の顔を、陽の下に晒してやる……!」
朝日が昇ると、夜の静けさが嘘だったかのように、賑やかな街に戻っていた。山へ向かう鉱夫、店を開ける商人、旅人の群れ。何事もなく、一日が始まる。
「気に食わないな」
ぶっきらぼうに言い放つディエガの横顔に、「何が?」と問いかけるクヒ。
「夜、あんなに怯えていた連中が、朝になった途端、コロッと態度を変えてきた。都合のいい奴らだぜ」
「な〜にが、『都合のいい奴ら』よ。あなただって、昼と夜で名前を変えてるじゃない。ばっかみたい。そういうのを人の振り見て何とやらっていうのよ!」
宿屋からギルドへ向かう二人。商店の軒先を並んで歩く。
「うるせー。好きでやってるわけじゃねぇんだよ」
ディエガが渋い顔をする。
すかさずクヒがくるんと青いローブを翻し、前方に躍り出て、杖の先で彼の金髪の前髪を突付いた。
「名前を使い分けるなんて面倒くさいことをするくらいならね、いっそ、夜の名前を捨ててしまえばいいのよ。どうせ偽りの名、あなたの本当の名前じゃないんでしょ? そうしたら、私だって間違って昼に夜の名前を呼んで、慌てて退魔陣を敷くこともないんだから」
ディエガというのは、この、背の高い金髪の剣士の夜の名だ。日が昇っている間は「ジグ」と名乗っているのだが、連れのクヒにとって、これほど厄介なことはない。夜の名には呪いがかけられていて、昼にその名を呼ぶだけで魔物が寄ってきてしまう。これが街中だと大変だ。忍び寄る魔物の気配に耳を欹て、退魔の魔法陣を敷くため、長い呪文の詠唱をすばやく終え、尚且つ、一般人を巻き込まぬようにしなければならない。
実に面倒だ。クヒは常々不満に思っていた。
「残念だけど……、名前は捨てられない。捨ててしまえば、旅の目的を失ってしまうばかりか、人の群れに紛れている『奴らの手先』をおびき出すエサさえなくなってしまうんだからな」
彼の言う、『奴ら』とは、呪いをかけたという、北の帝国の王。噂によると、人間ではないかも知れない、というのだ。何故、ディエガに呪いをかけたのか……? 聖遺物を継承する勇者の末裔である彼を闇に染め、世界を混沌に貶めようとしていたのか? 二人は、その真意と、失われた名前を探す旅をしている。
宝石店の並ぶ商店街の奥に、武器屋、防具屋、道具屋と続き、冒険者ギルドの看板が見えてきた。「さあ、入るわよ」と勇み足で向かうクヒの後ろに、何故かディエガは付いて来ない。
「あら、どうしたの? 『ジグ』さん?」
わざとらしく昼の名前で呼んでみるも、
「お、俺は遠慮するよ。待つ、待つから」
ディエガが必要以上に嫌がるのは無理もない。呪いによる闇の力のせいで、『お尋ね者』扱いにされ、賞金がかけられていたことがあったのだ。
「馬鹿ね! 張り紙なら、レギスに頼んで、大陸中のギルドから撤去してもらったはずよ。気にしない、気にしない! ほら!」
ぐいと無理矢理手を引かれ、渋々、ギルドへと入っていく。
街の雰囲気に溶け込んだ赤レンガ造りの店内は、見かけとは裏腹に薄暗く、少しじめっとしていた。乾いた岩砂漠の中にあるこの町でそう感じたのは、店の客が汗臭い男たちばかりだったからかもしれない。筋肉質の猛者たちは、すらっと背の高い剣士と、場違いな美しい魔女が入ってくるなり、視線を集中させた。
壁に張り出されたたくさんの紙に、事件の解決依頼、魔物退治願い、お尋ね者、家出人の捜索……など、様々な情報が書かれている。お尋ね者の張り紙に、自分の顔のないことを確認し、ディエガはほっと胸を撫で下ろす。
「マスター、情報が欲しいんだけど……」
クヒは真っ直ぐにカウンターに赴き、色黒でスキンヘッドのギルドマスターに話しかけていた。
今まで賞金稼ぎに首を獲られるのを恐れ、ギルドに近づくことすらなかったディエガは、店内に居座るほかの冒険者たちの視線を避けながら、物珍しそうにあちこち見渡した。
休憩所もかねたギルド店内には、簡単な食事が出来るように備えられたテーブルと椅子。五、六人の男が三つのテーブルに分かれて座っている。情報掲示板を食い入るように見る、二人の中年男。今までクヒを一人でよこしていたことを悔やむような場所だ。
自分も情報を一緒に聞こうと、カウンターに足を向けた時、ディエガは背後に刺さるような視線を感じた。振り向いた先にいたのは、角の席で頬杖を付く、若い男。背は高め、黒い服で身を固め、背に二本のブロードソード。濃紺の瞳を黒髪の下で光らせ、妖しくほくそえんでいる。その気配は夜のように重く、魔物のように冷たい。
「……だって。聞いてた? ジグ?」
マスターとの話を終え、クヒが話しかけても、ディエガは上の空。視線の主のことが気になってしかたない。
「あの、角の、黒い服の男は、誰だ?」
思い切ってギルドマスターに尋ねてみる。
「ああ、彼ね。レイだ、レイモンド・ゴーシェ。帝国軍と戦うため、連合軍隊に参加していたんだが、三ヶ月ほど前、ふらりと戻ってきてね。以来、生活資金を稼ぐためにギルドに出入りしているのさ。腕が立つから、彼を戦力にするのも手だろうな。その分、一人当たりの取り分は減ってしまうが、元々報酬の大きい仕事だ、いい稼ぎであることに違いはない。この町の殺人鬼は、恐ろしく強いからな。油断はせず、できる限りの準備をして臨むことをお勧めするよ」
マスターの声が聞こえていたのだろうか、レイはディエガとクヒを舐めるような視線で追っている。纏わり付くおぞましさにも似た空気を払いのけるように、二人はギルドを後にした。
「あの、レイって男が気になるの?」
装備を整えるため、一旦宿屋へ向かおうと歩きながら、クヒが尋ねた。
ディエガは神妙な面持ちで、腕を組み、思案している。
「お前は、気にならなかったのか、あの気配は、多分……」
女っ気のなくなった、いつものギルド。二人がいなくなるのを見計らって、レイはすっと立ち上がり、カウンターにいたギルドマスターへと近付く。じゃらんと、ポケットからコーヒー代の銀貨を取り出し、差し出す。「毎度あり」と受け答えるマスターの目を見て、レイは切り出した。
「さっきの男、ちょっと前まで、『張り紙』にいなかったか?」
賞金がかけられていなかったか、と言う意味だ。
マスターはほんの少しの沈黙の後に、
「さあ、終わった情報のことは、もう、わからないな」と答えた。
港町ノアルの大富豪レギスからの言伝で、撤去したばかりだった。本当は、顔を見た瞬間にディエガがその男だということはわかっていた。
「もし、そうだったとしても。『今、張り紙がない』ということは、『今はそういう状況にない』ということではないのかな?」
素っ気無い返事に、レイは納得したのか、にたにたと笑いを浮かべ、後を追うように店を出ていった。
冷たい風が岩肌を滑り降り、町中を突き抜けていく。今日もまた、静かな夜がやってきた。カサカサと街路樹の葉の擦れる音、虫の声が身を潜めるように鳴く音が聞こえる。月明かりがほんのりと照らし、民家や商店のシルエットを浮かび上がらせていた。
ディエガとクヒは、町の大広場の噴水の前に居座り、敵を待った。
クヒがせっせと昼間買った小さな石をあちこちに並べている。何か、彼女なりに準備をしているらしい。
「無駄だな。邪魔になるだけだ」
屈んで作業していたクヒは、ディエガの一言にカチンときて、むっくりと立ち上がった。残りの小石を右手でぎゅっと握り締め、ジャリっという嫌な音を奏でると、噴水池の縁のレンガに腰を下ろしたディエガのそばにぐっと迫ってきた。
「あらあら、随分余裕ですこと。何か勝算でも?」
小石の簡素な魔法陣が石畳の上に描かれている。威力は弱いが、足止めや魔法の的に使えるもののようだ。
「それって、魔封じの結界かなんかじゃないのか? わかってないな。今日の相手には無効なんだよ」
「どういう意味?」
腰に両手を当てて、ディエガの顔ばかり追っていたクヒは、背後の気配に気付かなかった。黒い影が二人を覆う。ぞわっと、虫唾が走り、彼女は慌てて後ろを振り返った。
「こういう意味だ!」
一瞬の間に、ディエガは彼女の懐から背後へ回り、背の剣を抜き、影の攻撃を受け止めた。真っ黒な人型が、二本の長剣でにじり寄っている。
「あ、あなたは……!」
言葉を失うクヒ。
目の前にいたのは、昼間、ギルドで見かけた男……、レイモンド・ゴーシェだった。色の濃い皮の防具と、上から下まで真っ黒な服。黒髪が夜風になびき、暗く沈んだ青い瞳が月光に照らされ、彼の殺気だった表情を更に引き立てる。闇に酷似した黒が、彼を支配していた。
「やはり、お前だったんだな。この町の殺人鬼ってのは」
ディエガの問いに困惑する様子はない。
お互い、こうなることはわかっていた、そんな様子だ。
力が均衡し、剣が離れた。一歩、二歩と後退し、タイミングを計る。
「そっちこそ、何者だ。その気配は……、人間じゃないな?」
ブン、と剣を鳴らし、レイはディエガを睨んだ。
「いや、──残念ながら。『まだ』人間だよ?」
ディエガが意味深に答える。
「『まだ』? へぇ。やっぱり、只者じゃない。フフ……」
先に攻撃を仕掛けたのはレイだ。右足で踏み出し、円を描くように右手のブロードソードで斬りかかる。
刹那、側にいたクヒを小脇に抱え、ディエガは噴水を飛び越えた。
大きな音を立てて、噴水縁のレンガが崩れた。レイの剣が砕いたのだ。
「危ない、離れてろ!」
着地、彼女を突き放し、向き直る。
風を切って、レイもこちら側へ噴水を飛び越えてきた。足が地面に付くと同時に、左の剣で攻撃。ザクッと、ディエガの上着の裾が切れる。
「まだまだ!」
右、左、交互に刃先が襲い掛かる。通常の二倍の攻撃量、スピードも速い。
「どうした? 受け流すだけか? 攻撃して来いよ!」
攻撃して来ないディエガに嫌気が差したのか、レイが挑発してくる。攻撃がどんどん重くなっていく。勢いに押され、終には広場に面した商店の壁まで追いやられる。
大きく剣を振り上げるレイ。チャンスとばかりにディエガが懐に斬りかかる。彼のこの動きを読んだか、さっとレイの体の軸がずれ、剣先から免れた。体勢を立て直し、再び両手の剣を構え、攻撃のため、肩を揺らす。ディエガが今まで攻撃してこなかったのは、パターンを読み取るためだったと気付く。
後方で魔力を感じ、レイは慌てて振り向いた。青い魔女が呪文を詠唱している。
「スロウ!!」
すばやさを封じる魔法、レイのスピードが落ち、思うように動かない。
「くそっ……」間合いが縮まれば逆に不利になる、慌てて後退する。
「さあて、今度はこっちから行かせてもらうぜ」
にやりと不敵な笑みを見せると、ディエガはロングソードを振りかざした。「ファイア!」という声とともにクヒの魔法が剣身に降り注ぐ。炎を滾らせた剣、ぎらぎらと輝き、闇を照らす。
「魔法剣……?!」
予想外の展開に驚くレイ。それもそのはず、魔法力に自信がなければ決してできない技だ。力が弱ければ剣は魔法を帯びず、また、強すぎれば剣士共々魔法の犠牲になる。魔法を受ける側にもそれ相応の魔法耐性が必要であり、そういう意味では、二人とも、かなりの使い手だということは目に見えて明らか。
(あの魔女も、只者ではなかったのか……!)
赤く燃え上がった剣先が、レイに襲い掛かる。明らかに、形勢逆転……。
ガッと飛び込んだディエガの剣を受け止める、炎の魔法で熱を持ったディエガの剣から、レイの剣に熱が伝ってくる。熱い、両手が焼けるほど熱い。堪らず、力が抜ける。隙を突いてレイの胸元を炎の刃が走った。ジュッと布が焼ける音、そして、激痛。切り裂いたのは上着だけではなかった。分厚い皮の胸当てを貫通し、肌、内臓の一部まで達していた。血は炎の熱で瞬時に固まり、痛みほど溢れては来なかったが、これほどの痛みは味わったことがない。気が付くと左手から剣が落ち、レイは無意識に傷を掻き毟っていた。
このままではやられる、思ったとき、ふいに距離を置いて次の攻撃に備える魔女の姿が目に入った。レイにとって、この時、幸運が重なる。かけられていたスロウの呪文の効果が切れてきたうえに、彼女が呪文の詠唱のために両手で杖を持ち、無防備になったのだ。
今しかない、レイは魔法剣を振り切り、すばやくクヒの背後へと回った。杖を持つ両手ごとぐっと引き寄せ、右手を捻り、剣の刃先を彼女の喉元に当てる。
「な、何をする気だ!」ディエガの動きが止まる。
「決まってるだろ……、解体ショーだよ。最近、この辺の奴らの警戒心が強くて、なかなか出来なかったからな、久々に……クククッ。よく見れば刻み甲斐のある、綺麗な身体じゃないか……」
眼下に冷たい刃が光る。少しでも動くと切れそうなほどに。クヒは大きく息を吸い、ゆっくり吐いて、気を落ち着かせようとしていた。汗で湿ったレイの左手が、彼女の顎に触れ、撫で回される。屈辱、それでも動けない。
「血が見たいんだよ……。泣き叫ぶ声が聞きたい……。わかるだろ? 同じ臭いのする、お前には……」
レイは上目遣いでディエガを嘲笑する。
少しでも動けば、クヒに危害を与えかねない、ディエガはゆっくりと剣を下ろした。このままでは、攻撃することも、近付いて彼女を解放させることも出来ない。歯がゆく、むかむかしてくる。
「どこからがいい? 腕? 足? いや、この形のいい乳房から……?」
いやらしい手付きでクヒの体のラインを撫でてくる。
「やめろ……」
腸が煮えくり返りそうだ。ディエガの体から、今までぐっと抑えていた闇の力が溢れ出る。
「ほら、思ったとおりだ。お前のその気配、帝国との戦いで感じた、あの気配に似ている……。連合軍隊をゴミのように蹴散らし、生きた人間があっという間に肉隗に変えられた、──あの時感じた、魔物たちの気配に……。ギルドに以前貼ってあった張り紙を見たぞ。なんて書いてあったかな、『殺人鬼』? 『化け物』? どっちにせよ、血に飢えた悪魔に他ならないんだろう? お前だって欲望のまま、血肉を啜りたいと思うことが、あるんだろう?」
レイの言葉は、彼の怒りを増大させていった。はじめは霧のように漏れていた黒い靄が、気付けば嵐のように彼の周囲を渦巻いている。髪の毛が逆立ち、目が獣のように光り、全身の筋肉がびりびりと電気を帯びたように震えている。
「本性を現すか……? 魔物が……!」
レイの嬉しそうな声、子供がおもちゃを与えられた時のような、無邪気な。しかしその中に、恐怖と絶望の色が混じっているのが、クヒには見えた。
「いいの? あのままでは彼、あなたを倒すどころか、この町ごと消滅させてしまうわよ?」
横目でレイの動きを見ながら、クヒは首もとの剣が少し離れたのを確認して、話しかけた。
「苦しいんでしょ? 苦しいから、こんなことをして、気を紛らわせているのね?」
レイの表情が歪んだ。
「何がわかる……、何も知らないくせに、勝手なことを言うな!」
クヒの言葉に揺り動かされているのか、レイの身体は微かに震えている。
彼女の耳元で、レイの鼓動が苦しそうに悲鳴を上げはじめていた。
「ええ、わからないわ。生きていく苦しみを嫌なほど味わっている私たちから見れば、あなたのやっていることなんて、幼稚で、無意味で。その先に、明日があることを知らない、可哀相な子供のやることだわ」
「うるさい!」
「あなたの、その、心の痛みの一部でもいい、切り取って、私に見せてくれない? 罪は決して簡単に消えるものではないけれども、あなたの中の悲しみは、癒すことは出来るはず。こんな茶番な殺人劇は、もう終わりにしましょう?」
クヒの柔らかい声は、レイの硬く閉ざされていた心の扉を、すこしずつ、すこしずつ、開いていった。温かく、染み込んでくる言葉の一つ一つが、魔法を帯びているように。
「殺されるのが、怖いのでしょう? それは誰でも同じ。あなたに刻まれた人間達だって、今のあなたと同じ気持ちになっていたでしょうに。ディエガの力の解放で、少しでも、犠牲者の気持ちがわかり始めているのだとしたら、私にだって考えがあるわ。──こんな卑劣なことをされたけれども、私はあなたを助けたいのよ」
──助けたい、などと、一生自分に向けられるはずはないと思っていた言葉。レイは、たったそれだけの言葉に、光を見ていた。彼女の温もりが、柔らかな魔力が、荒んでいたレイの心を照らしていく。
「どうすればいい……? あいつは何者なんだ? どうしたらいいんだ?」
とうとうレイは、クヒの首に当てていた剣先を外した。
「彼を倒すのは、初めから無理。あの力が暴走すれば、私にだって止めることは出来ないの。でも今ならまだ間に合う。足元を見て。念のため、私が敷いておいた魔法陣がある。彼をそこに誘導して。後は私がなんとかするわ」
杖を構え、前を見据える彼女に、レイは尋ねた。
「一体、どういう関係なんだよ。味方に攻撃魔法を仕掛ける気か?」
クヒはくすっと、軽く笑って、目を閉じた。
「そうね、彼は、仲間だけれど、敵なのよ。──ほら、急いで!」
急き立てられ、レイは噴水の側に作られた、小石で出来た魔法陣まで走った。
剣を構え、威嚇。我を失ったような瞳で、ディエガが攻撃してくる。これまでの倍以上の力で押される。だが、やられるわけにはいかない、堪え、一歩、また一歩と後退しては魔法陣へと誘導する。そして、
「今だ、頼む!」
ディエガの体が魔法陣へとすっぽり入り込み、石が反応した。
クヒは構えた杖の先から、天に向け、魔力を放出……。空高く昇った力は、雷に姿を変え、ディエガのいる魔法陣へと降り注いだ。
ディエガが目を覚ました時には、既に昼を回っていた。
一昨日から泊まっていた宿屋のベッドの上。なぜだろう、頭痛がして、全身がピリピリ痛む。
見渡すと、クヒがベッドにうつっ伏せて寄りかかるようにして眠っている。
昨晩、ギルドで出会った、黒服の男……レイと戦い、クヒを人質にとられたところまでは覚えているが、その後の記憶が一切ない。嫌な予感がする。
「もしかして、また……! しまった……!」
頭を抱え、もしゃもしゃと髪の毛を掻き回した。
「随分と面白い奴なんだな、実は」
聞きなれぬ男の声に、ディエガははっと、身体を起こした。部屋の壁に寄りかかって、人がいる。男だ。上から下まで真っ黒な……。
「レイモンド・ゴーシェ! な、なんでここに!」
ありえない、どうなっているんだと、驚きを隠せないディエガに、レイは落ち着いた声で言った。
「彼女が、お前を止めて、ここまで連れて来るよう指示してくれたんだ。ありがたく思え」
やっぱり、何かやらかしてしまったんだ、と、自分に言い聞かせてみたものの、納得できない。
「この町で、人を殺すのはもう辞めた。これで事件は解決。私は人殺しよりも、興味のあるものを見付けてしまったんだよ……」
「はぁ?」
確かに昨日よりぐっと大人しい目つきになったレイの目線の先には、すやすやと寝息を立てるクヒがいた。
「まさか、興味の対象って……」
にやり、と、意味深に笑うレイ。
「じょ、冗談だろ……」
レイが犯人だったとギルドに告げることも出来ず、報酬もなし。
ディエガはその日一日、ぐったりと力が抜け、ベッドから出られなかった。