004:汚れた包帯
港町ノアルから、北へ続く広い街道を進む。山岳地帯を抜けるその道は、北の町アンカスへ向かう行商人の主要路。所々に小さな宿場があり、旅人の疲れを癒す。
道の両脇に迫る森の匂いを感じながら、ディエガとクヒは、街道を辿っていた。
日が落ち、月が昇る。風が木の葉を擦る音が、騒がしく感じられるくらい、静かな夜。フクロウやミミズクの泣き声が遠くにこだまする、凍えるような、夜。
木々の間から覗く、星空。きらきらと瞬く天の川。星の音さえ聞こえてきそう。
ザク、ザク、と、街道の小石を踏みしめる音が、耳に焼きつく。
「このまま、歩き続けるには嫌な夜ね」
クヒが沈黙を裂いた。月明かりに照らされ、長い銀髪が淡く浮き上がる。青いローブが、森の闇に溶け込むように、暗く沈んでいる。
いつも気丈な彼女の顔が強張っているのを見て、ディエガがクスクスと笑い出した。
「怖いのか? 手でも繋いであげようか?」
自分の三歩前を歩くディエガが、少し振り向いて、にやりと見せた横顔が、酷く憎たらしい。
「遠慮するわ。あなた、本当に、乙女心というものがわからないのね」
本当は怖いのを我慢して、強がった台詞を吐く。本当は、彼の大きな背中にしがみ付きたいとさえ思っていたのに。
頬を膨らました彼女の顔は、幼く見えて、かわいらしく、愛らしい。
暗がりの中、必死に自分の背を追う彼女を気遣い、少し、歩みを遅らせる。
「それはそうと、そろそろ休むことを考えたほうがいいな。俺はいいが、おまえは、限界じゃないのか?」
背の高いディエガの影が、自分の真横まで下がってきた。クヒははっとして、重い足を前へ前へと運ぶ。
「もう少し、歩けるわ。ゴメンね、気を使わせて」
山道をスローペースとはいえ、一日かけて登ってきた。女性には堪える距離なはずだ。その上、この夜は夜風が冷たい。早く暖かな宿でも見つけて一段楽するか、思い切って野宿するべきか(できれば、それは避けたいと二人とも思っていた)、決断しなければならない。
無言のまま、道を進む。
と、道端に転がる、何かに気付く二人。
「……人?」
駆け寄るクヒ。思わず、両手で口を塞ぐ。
「子供だわ……!」
街道の隅に、捨てられたように蹲っていたのは、小さな子供だった。
ディエガも近づき、そっと、子供を揺り動かす。
「おい……、何してる? こんなところで」
うつ伏せていた子供が、ごろんと力なく仰向けになった。体中を包帯でぐるぐる巻きにした、小さな身体が痛々しい。
「光をくれ……」
ディエガの呼びかけに答え、「ライト」の呪文を唱えるクヒ。持っていた杖の先、鷲の付いた大きな赤い石が、ほんのりとあたりを照らす。静かな光が、子供の姿をより鮮明にする。
痩せ細り、はっきりした年齢がわからない。十歳くらいに見えるが、もしかしたら、もっと、大きいのかも知れない。やつれた、赤茶髪の、男の子だ。擦り切れた、汚れた洋服。巻かれた包帯も、よく見れば、長い間変えられた形跡がない。かなり汚れている。
光の下で、眩しそうに眉間を顰めた子供に、必死に問いかける。
「気が付いたか、喋れるか?」
細い手で目を擦り、辺りを見回す少年。夜空の下、見知らぬ男女が、自分を覗いている。突然のことに驚いたのか、彼は身体を丸め、また蹲った。
「怖がらないで。大丈夫よ」
クヒがその背中を、優しく撫ぜる。怯えた背中は、次第にその震えから解放されていく。
「こんな山道に、子供が一人でいたら、誰だって心配するわ。どうしたの? 帰れなくなったの?」
柔らかい言葉、優しい声。心が、次第に解けていく。
少年は、徐に顔を上げた。
「帰れ……ないんだ……。どうやって帰ったらいいのか、わからなくて……」
「迷ったの?」
彼は首を横に振った。
「本当は、帰りたいけど、僕、もう、歩けないんだ」
曖昧な言い方だ。どうやら、わけありらしい。
「どこから来た? 近くなら、連れてってやってもいい」
見捨てて置けない、と思ったのだろう、ディエガが少年の顔をぐっと覗き込む。
「この……、先にある、村だよ。ニベっていう、小さな、小さな村……。でも、戻っても、僕には……」
「親は? 親はいないのか?」
「いるよ。お父さんと、お母さん。だけど、僕のことは、待ってないかもしれないな……」
力なく、顔を埋める少年は、ディエガの心の中の、小さな自分と重なり合った。我慢できず、少年の細い身体をひょいと持ち上げる。そのまま、肩に担ぐと立ち上がり、歩き出した。
「待っていない親なんて、いるはずないだろ。喧嘩でもしたのか、追い出されたのか? いずれにせよ、戻ったほうがいい」
珍しく、他人の心配をしているディエガを、クヒは物悲しい目で見ている。
例え、強く立ち振る舞っていても、本当は弱い人なのだと、クヒは知っていた。彼が、辛い過去をもっていることも。──だからこそ、他人が辛そうに苦しんでいるのを見ると、放って置けず、つい、足を突っ込んでしまう。そしてまた、その先にある辛いことを乗り越えて行かざるをえなくなることも、彼女はわかっていて……、何も言わずに、彼の後を追った。
ニベの村は、街道から逸れた、小高い山の中腹にあった。山小屋を十数件連ねただけの、本当に、小さな村だ。少年の倒れていた街道から徒歩で三十分。やっと辿り着いた頃には、村中が寝静まっていた。
村の入り口に、小さな宿屋を見つける。そこで一晩、明かそうと、彼らは戸を叩く。
「こんな夜更けに……」
宿屋の女将は中年の、貧しそうな風体をしていた。いかにも田舎の、お母さん。
若い男女と連れの子供に、彼女は「ご夫婦で?」と尋ねる。「いえ、似たようなものですが」とはぐらかし、クヒは案内された寝室のドアを閉じた。
ランプの優しい明かりと、暖炉の火が、疲れ切った旅人の心を癒す。女将が気を利かせ、温かいスープを差し入れてくれた。ヤギの乳をベースにした、ホワイトスープ。身体の芯から温まる。
「お前も、一口、飲んだらどうだ?」
部屋に二つ用意されたベッドの一つに横たわるだけの少年。
もう一つのベッドに腰掛け、ディエガがそっと、スプーンを差し出す。彼は力なく首を横に振り、彼らから目を背けた。
「名前、言ってなかったわね。私はクヒ。あなたを担いできた、彼はディエガ。北へ向かって旅をしている途中よ。……あなたは?」
暖炉の火に暖まりながら、クヒは少年に尋ねた。小さな丸椅子に腰掛けた彼女の影が、ゆらゆらと少年の前で揺れた。
「……トマ」
漸く、自分の名前を口にしてくれた。少し開かれてきた心が、嬉しい。
「トマ、ずっと、気になっていたんだけど……。あなた、その包帯、どうしたの? 怪我してるの?」
ぴくり、と、トマの背中が動いた。酷く、怯えている。
「……違う」小さな声で、ただ一言。
「随分と汚れているわ。取り替えてあげましょうか?」
席を立ち、腰の道具袋から真新しい包帯を取り出すクヒを、トマは振り向いて、キッと睨みつけた。
「駄目だ! コレは……、お母さんが巻いてくれたんだ……! 新しくなんて、しないでよ!」
今までにない、大きな声に、二人は顔を見合わせた。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったのよ」
クヒは、トマに詫びるしかなかった。
汚れた包帯……、それは、トマの中で、なぜかとても大切な……ものらしい。
パチパチと暖炉の火が踊る。
奇妙な少年との静かな夜が更けていく。
朝日は、眩しいまでにディエガとクヒの瞼を焦がした。昨日の疲れも取りきれぬうちに、無理矢理起こされた感じだ。
結局、二人はまともに眠れなかった。二つのベッドのうち、一つをトマに明け渡していたため、残りの一つに二人、背中をくっつけ、窮屈に寝る羽目になったからだ。それでも、野宿よりはマシだ。
眠い目を擦り、上着を羽織ると、ディエガは隣のベッドで横になるトマを揺すった。
「……朝だぞ。おまえの、親のところに行くぞ?」
相変わらず、返事がない。丸くなった背中を無理矢理起こし、仰向けにする。──その感触が、とても異様で、ディエガは思わず、彼の顔を覗き込んだ。
「──死んでる……」
今、息絶えた顔ではなかった。げっそりとして、皮膚からは血の気がすっかり引いていた。目は窪み、所々腐りかけ、全体が土で汚れている。昨日の夜見た、トマの印象とはまるで違う。何が起きたのか、すぐには理解できない。
「死んでるって、どういうこと?」
ディエガの声に、クヒも慌ててベッドへ駆け寄る。そして、息を呑む。
トマの体中に巻かれた、汚れきった包帯の隙間から、皮膚病なのか、茶色く変色した斑点がびっしりと覗いていた。こんなものは、昨日は無かった。暗がりの中で、見えなかったわけじゃない。たしかに、なかったのだ。
「昨日は、話も出来たわ。ただ、とても、力なかったけれど……。どうして……?」
目の前の光景が、信じられない。諤々と、身体が震える。
クヒはトマの身体を、覆うように抱き締めた。冷たい。死体の臭いがする。心臓の音が、呼吸が……、聞こえてこない。
あまりにも突然すぎるトマの死は、苦しく、切なく、儚く。二人の心は、その姿に圧縮された大きな悲しみに支配された。窮屈に絞られた感情がどっと湧き出し、涙が絶え間なく溢れ出る。
「昨日の今日で、こうなると思うか? 俺は、死体を担いできたのか? 俺達は、誰と話をしていた……?!」
あれは……、あの、不気味なほど静かな夜が見せた、幻影だったのか。何かに怯えて震える背中と悲しみは、錯覚だったのか。納得できない。憤りが、ディエガの心全体を、もやもやと濁らせていく。
台所で朝食の準備をする宿屋の女将のところへ真っ直ぐ向かうと、ディエガは興奮冷めやらぬまま、問いただした。
「この村に、トマという子供の親はいるか」
大きな影に迫られ、女将はたじろぎながら、こくこくと頷いた。
女将から聞き出した、トマの家へと向かう。何故、トマがあの場所に倒れていたのか。何故、あんなにも薄汚い包帯を、大切そうに巻いていたのか。知りたいという気持ちを、止めることは出来なかった。
村はずれの、小さく、貧しそうな農家。そこに、トマの両親がいる。
ノックもせず、ドアを開ける。穏やかな朝を阻む、大きな音。台所に立つ女性と、その側の食卓でパンを齧る男は、口をあんぐりと開け、呆然とした。
見知らぬ、背の高い若い金髪の男は、食卓を蹴り上げ、男の襟元をぐいと掴んだ。
「お前が、トマの父親か?」
男は恐れをなして両手を高く上げ、首を数回縦に振った。足元に散らばったパンやコップを気にしながら、彼は後ろへ、後ろへと身体をずらした。
「トマは、死んだ、私の息子だ……」父親は、息子と同じように、力ない声で答えた。
「死んだ? いつ?」
ディエガの赤く鋭い眼差しが、トマの父親を追い詰めていく。
「一週間も前の話だ。悪魔に、取り憑かれていたんだ……。トマの話は、やめてくれ……、お願いだ……!」
じりじりと詰め寄られ、壁に押し付けられた父親は、涙を浮かべて懇願した。首が締め付けられ、苦しそうにもがき始める。話せば話すほど、彼の襟元を掴むディエガの手に、力が入っていく。
「や、やめてください! どこのどなたか存じませんが、何故、トマの話をするんです?!」
母親だ。台所に切りかけの野菜と包丁を残し、ディエガの背中に必死に訴える。涙声で、苦しいくらいに声を振り絞って。
「あの子には、悪魔が憑いていたんです。体中に斑点が出来て、それを隠したくて、必死に包帯を巻いたんです。でも、とうとう、村の祈祷師に見付かって……!」
悪魔……、この親たちは、病気とは知らずに、悪魔の所業だと……。息子が日々弱っていくのは、悪魔が憑いているからだと、そう、信じていたのか──。
大筋で事態を掴んだディエガは、トマの父親からゆっくりと手を離した。
解放された父親は咳き込み、倒れこむ。駆けつけた妻がその背中を必死に擦り、介抱する。
「それでは何故、トマはあんなところにいたの? 何故、街道に倒れていたの?」
ディエガを追って、簡単な身支度を済ましたクヒが現れる。
一部始終、開け放たれた玄関から、村中に声が響き渡っていたため、クヒも、騒ぎを聞きつけ、トマの家の周辺に集まってきた村民たちにも、事情が知れ渡っていた。
たくさんの目が、トマの両親に集まった。父親は、無念さで押し潰されそうになりながら、口を開いた。
「トマは、どんどん痩せ細って……、斑点は全身に出て、どうしようもない状態だった。祈祷師は、悪魔が他の者に移るといけないと言って、トマを隔離した。あの日、トマが死ぬと、彼はトマを村から連れ出した。私たちは、そこまでしか知らなかったんだ。まさかそんな、街道に捨てられていたなんて……」
トマの最期。
墓地に葬られることもなく、彷徨っていた、トマの心。
医学の知識のある者のいない、小さな村。病気となれば、それは悪魔の仕業だと言ってお払いしたり、悪魔が去るまではと隔離するのは、よく聞く話だ。
教養のないこの両親は、病気は悪魔の仕業だと思い、それを村人に知られないように、必死にトマに包帯を巻いたのだ。斑点が広がれば広がるほど、包帯の面積は少しずつ増えていき、とうとう、体中を包帯だらけにした。貧しいゆえ、新しい包帯に替えることも出来ず、あちらこちらどんどん汚れていった。──包帯は、トマにとって、両親が自分を愛する証だったのだ。愛するが故に自分に巻かれた包帯を、彼は大切に思ったのだ。
「そんなに大切な息子なら、何故、祈祷師に預けてしまったんだ? 最期まで、看取って、抱いてあげようとしなかったんだ? トマがどんな気持ちで、街道に横たわっていたのか……!」
ディエガは食いしばり、己の感情を抑えて、肩を震わした。
昨晩の、トマの寂しそうな表情が、彼の胸をずきずきと刺した。
帰りたい、でも、帰れない。──トマは、自分がどういう状況にいるか、理解していたんだ。自分が死んだことも知っていて……、それでも、帰りたくて、自分の村に返して欲しくて……、通りすがりの自分たちを頼ったのだ。
「トマは、私たちに言ったのよ。『お母さんが巻いてくれた包帯を、取り替えないで』って。それが、どういうことだかわかる?」
母親ははっとして、クヒを見上げた。
青色の魔女は眉間に皺を寄せ、目を細め、哀れんでいた。母親に歩み寄り、その手前に屈む。動揺する母親の肩を優しく抱いて、落ち着かせる。
「トマは、あの汚れた包帯を、自分と両親を繋ぐものだと思っていたんだ。大切な、絆だと」
ディエガの頬を、つうっと涙が伝った。
「今、宿屋に行けば、トマが眠っている。俺たちが昨日の晩、運んだんだ。今からでも遅くない。抱き締めてやってくれ。これではあまりにも、トマがかわいそうだ……」
トマの小さくなった身体を、両親は漸く抱いた。
全身に巻かれた汚れた包帯が、強い抱擁にハラハラと床に零れ落ちた。顕わになった皮膚病の斑点を、いとおしいように撫ぜる母親。悔しそうに、嗚咽する父親。
彼らに、薬を与えれば治る病気だったかも知れない、という認識があれば、このようなことはなかったに違いない。近くに大きな港町があったとしても、隔離された山村というコミュニティには、医学という知識は入りづらかったのだろうか。
ニベの村から去った後も、心にくすぶった靄が晴れない。
クヒは杖先の鷲を魔法で大きくし、羽ばたかせると、ノアルの大富豪レギスに、書状を送った。
『願わくば、ニベの村に、医者を派遣して欲しい。
知識不足から皮膚病が蔓延し、村民が息絶える可能性あり』