001:言葉の代わりに、君に刃を
黄昏の街に鐘の音が響く。
オレンジ瓦の三角屋根が連なる街、いっぱいに。
街の中心部にある教会から放たれるその清々しい音は、人々に夕刻を告げる。今日も無事に終わりましたという、感謝を伝える鐘。
街はこの鐘の音を合図に、夜の仕様へと模様替えをする。市場をたたみ、パブの明かりが灯り、夕御飯の支度、仕事を終え、帰宅する人々、そして夜の守りに就く衛士たち。
宿を求める旅人の群れに混じっていた二人が道を外れ、路肩に腰を下ろしたのは、そんなときであった。
「クヒ、今日の宿、早く決めないとな。まさか、また野宿だったりする?」
大きくため息をつきながら切り出したのは男のほうだった。
「ええ、誰かさんが賞金首まがいでなければ、きっとステキな宿に泊まれるでしょうけど。持ち金も減ってきたし、昼間のうちに何か大きな獲物でも捕まえて、ギルドへ持っていくことが出来たらよかったのにね」
横でクヒと呼ばれた女が棘のある言葉を吐き捨て、長い銀色の髪を掻き分けながら、男に冷たい視線を向ける。
軽そうなやわらかい青色のローブをまとった彼女は、魔法使いなのだろうか、長めの杖を持っている。杖の先の、球体を持ち上げる鷲の飾りが夕日に当たり、光って見える。
「まあ、ベッドで寝なくても死ぬわけじゃないし。そういえば元々俺、夜行性だったんだよね。最近平和だったから忘れかけてたよ」
男はむっつりしてそのまま黙りこくった。
視界に入るのは、様々な人が忙しなく歩く姿。夕日で長く伸びた影が幾度となく彼らの前を通り過ぎる。どこにでもある、平和そうな街。
男は徐に立ち上がり、ぐっと背伸びをする。人垣から頭が出るくらいの大柄で、だがすらっとスタイルの良い、顔立ちのいい男。金髪を前で軽く分け、髪の隙間からちらちらと両耳のピアスが透けて見える。剣士のようではあるが、そのわりに軽装で、担いだ剣だけが仰々しく見える。
「ディエガ、これからどうする?」
クヒも一緒に立ち上がり、スカートの裾についた砂を払った。
「その名前、日の出てるうちはやめてくんないか? ……って、沈みそうだから、まあ、いいか。せめて明るいうちはその名前で魔物を呼びたくないんでね」
ディエガは渋い顔をして、頭一つ半背の低いクヒを見下ろした。
「ごめん、なかなか頭が切り替わらないのよね。昼と夜で名前を変えるなんて、やめちゃえばいいじゃない。どうせ、あなたの本当の名前なんて誰も知らないんだから。なんていったっけ、昼の名前。『ジグ』だったかしら?」
「『ジグ・オーデリック』だよ。いい加減、慣れてくれないか。もう何ヶ月も一緒にいるんだからさ」
「あら、ごめんなさい? 私はその『ジグ』って人と旅をしているっていう自覚がないの! ホントに、面倒だったらありゃしない……。で、ジグ、どうする?」
ディエガ……もとい、ジグは手を拱いて、通りの向こう側を人の流れに逆らって歩く一人の少女を目で追っていた。何かに取り付かれたように、フラフラした足取りで、街の外に向かっている。贅沢な服装からして良家のお嬢様のようだ。
「あれ……。気になるな……。クヒ、悪いけど、ギルドで探ってきてくれないか……? どこかのお姫様の捜索依頼がないか、悪霊退治が必要じゃないか……」
ペロリッと、悪戯っぽく舌を出すと、彼はクヒににんまりと合図を送る。
「久々に、面白いことが起きそうだぜ?」
「好きね、相変わらず。私としてはコレ(手のひらを上に向けて親指と人差し指、中指を擦り付ける)になれば構わないわよ?」
「はいはい金ね。金。確かに、どこかの貧乏冒険者に一番必要なのはそれだからな。じゃ、利害一致ってことで」
皮手袋をきっちりはめ直し、両手で髪に癖をつけるように、ぐっと後ろへ掻き揚げる。そして、これから起こるであろう事件を喜んでいるかのように不適に笑う。
彼の赤みがかった瞳が落ちてゆく夕日に照らされ、怪しく光った。
その街は迷路のように入り組んでいて、ちょっと目を離すと、少女を見失いそうになる。ディエガは彼女に気づかれぬように、距離をとって尾行する。
彼女の周りに怪しげな空気が漂っているのを、彼は感じていた。高価な服を着ているのに、明らかに数日まともに食事、睡眠さえ取っていないのではないかと思われる、やつれた頬。今にも折れてしまいそうで、やもすれば、手を差し伸べたくなりそうだ。
赤みがかった少女の茶髪が、闇夜に映える。たどたどしいシルエットは、どんどんどんどん、人の波からはずれ、街の城壁の方へと向かう。小路を抜け、更に、北へ、北へと。
(街を出るつもりなのか……? こんな夜更けに)
いつの間にか、空はすっかり暗くなり、星がちらちらと瞬いていた。下弦の月が雲の切れ間からこっそり顔を出す。
少女の歩みは遅い。故に、目的の場所に着くまでに長い時間を要した。多分、大人が歩けばあっという間についてしまうだろうその場所に、彼女は一時間も二時間もかけて……。
人気のない薄暗い場所だった。町の中心にあるものとは似ても似つかないほどの崩れそうな教会があった。白い壁には蔦が這い、所々が黒っぽく汚れ、罅が入っている。すぐそこに城壁が迫っている。草がところどころ伸びかけた、薄汚い墓地。朽ちかけた木の十字架が、その中に整然と並んでいる。明らかに、放置されている。街の中央の教会には金持ちにしか行けない。そこに移転する前の、まだ小さかった教会の跡地であろうか。神父やシスターが残っていれば、これほどまでに荒れることはなかったろうに。
蔦まみれの教会の壁の陰に隠れ、彼女の動向を窺う。
(街の外ではなく、墓地……? こんな薄気味悪いところで、彼女は何を……?)
墓地と城壁の間に、申し訳程度の林。手入れを忘れられ、茫々と草が茂る一角に、彼女を待つ、何者かの影が見て取れる。人の形をして入るが、人ではない、何か別のものだ……、と彼は直感した。
「調べてきたわよ」
いつの間にかクヒが後ろに立っている。
「あなたの直感も、捨てたもんじゃないみたいよ」
ディエガの隣の壁に寄りかかり、笑って見せた。
彼は彼女を待っていましたとばかりに、眉を上げ、笑い返す。
「……で、どうだった? 相当の金持ちだったろう?」
「ええ、この街で一番のお金持ち、レギスって商人の、一人娘らしいわ。ここ暫く家に戻らないと、捜索願が出ていたわ。見つけて連れ戻したら、かなり貰えるらしいわよ」
「いいねぇ。楽しい展開だ。モンスターの方は?」
「はっきりしたところはわからないけど、彼女の捜索願とほぼ同時に出された、この墓地での幽霊退治の依頼があったわ。……そちらのほうは、あまり報酬は期待できないみたいだったけど。何せ、依頼人がすこぶる貧乏らしいから」
「じゃあ、そっちの方は、金持ちに上乗せして支払ってもらうことにするか。大事な大事な一人娘が亡霊に取り憑かれていたと知ったら、肝が潰れるだろうからな」
少女は、木陰の何者かに向かって、吸い込まれるように歩いていく。冷たい風がどこからともなく吹き込み、彼女の周りに渦巻く。
「……まずいな」
少女を見守っていたディエガが呟いた。
姿の特定しない、何者かが、見えない触手を伸ばして、彼女から生気を吸い取ろうとしている。少女はなされるがままに身を委ね、抵抗する気配もない。
「ゴーストだ! 走れ!!」
ディエガは言うなり、陰から飛び出し、少女の元へと向かっていく。
クヒも慌てて彼の後を追う。
「そこの女!! 正気か?!」
彼の紺色の上着が、ヒラリッと風を含み、パタパタと鳴る。少女の側へ駆け寄った彼は、急いで彼女から邪気を払おうとする。粘っこい、重いものが、絡みつき、なかなか離れようとしないのに、ディエガは苛々し始める。
薄い月明かりに照らされた少女。美しいが、物悲しく、生気を失った顔。何が少女をここへ誘ったのか。こんなことさえなかったら、きっと輝けるほど美しい少女だったろうに。視点は定まらず、確実に幻覚を見ているとわかる。
「クヒ!! 頼む!!」
「言われなくても……!」
呪文の詠唱が始まる。杖を振りかざし、気を静める。杖先の鷲が、宙に大きく魔法陣を描き出す。鷲の留まった赤い球から、その魔法陣へ魔力が注がれていく。
魔法陣から少女に、魔法が放たれる。
「ディスペル!!」
ふわっと、空気全体が持ち上がった。
少女は魔法の力を受けて、淡く照らしだされる。
次第に正気を取り戻し、自分の両肩を掴んでいる見ず知らずの男に気づく。
「きゃあ! あなた、誰?!」
慌ててディエガを自分から引き離そうとする少女。
うまくいったと、ディエガはクヒに合図を送った。少女から手を離し、両手を肩の高さで開き、無罪を主張する。
「人聞きが悪いな。モンスターに襲われそうになっているか弱い少女を助けてやったのに。……別に、このまま立ち去ってもいいんだぜ?」
「モンスターに? 私が?」
幻覚から解き放たれたばかりの少女には事態が飲み込めていない。
「アレを見てみな」
指差した方向には、闇の中で蠢く、透き通った何かが。人の形をしている。空ろな目でこちらを狙っている。
少女は戦き、ディエガに寄りかかる。
「な、何? アレは……?!」
「ゴーストだ。お前はアレに意識を奪われ、自らここへ赴いて、生気を吸い取られていたんだ」
血の気が引く。そして、がたがたと震えだす。
「う……嘘。私、アランに会っていたつもりだったのに、どうして……?!」
「その、アランて奴は、死んだ可能性が高い。そして未練がましくこの世に留まって、お前から生気を奪っていた……と考えるのが妥当だな。この状況では」
死んだ可能性が……と聞いて、少女ははっと何かを思い出した。そして、辛そうに俯く。
「ディエガ! 彼女をこちらに!」
クヒが結界を貼り、彼女を連れてくるように促す。足元に広がる大きめの魔法陣に入れば、ゴーストの魔の手から少しではあるが逃れることが出来るのだ。
少女は目をうろうろさせ、どうしたらよいのかと、ディエガに救いの目で訴える。
「これを持って、彼女の元へ行け」
戸惑う少女に、ディエガは腰の皮袋から、小さな包みを取り出して渡す。白い布でくるまれたそれを、少女は両腕でしっかりと抱きしめ、墓地から少し離れたところで待つ、クヒの元へと駆け出した。
「よし、後は頼むぜ! クヒ!!」
少女が離れたのを確認すると、ディエガは自分の周りをぐるぐると警戒して回るゴーストへ威嚇を始める。林から、墓地の奥へと誘導。気を引いて、少女から遠ざけなければならなかったからだ。
背負っていた細長い剣を鞘から抜く。どこから見ても、強そうでない、普通のロングソード。物理攻撃の効かない実体のないアンデッドモンスターであるゴーストに、彼は彼なりの秘策で応戦する。
ゴーストへと駆け寄りながら、横目でクヒの体勢を確認する。お互い、目で合図。クヒの口が、呪文の詠唱へと移る。
「サンダー!」
クヒが、ディエガの剣目掛けて、魔法陣の中から魔法を放つ。剣は魔法を受け取り、金色に輝く。……魔法剣。物理攻撃に魔法の力を加えて、アンデッドにダメージを与えようというのだ。
「いくぜ、化け物!」
襲い来る触手を魔法剣が次々と裂く。ザクッザクッと、見えない触手を切る音があたりにこだまする。すばやい剣捌き、すっきりとした身のこなし。順調にゴーストの体力が削られているようだ。
魔法陣に辿り着いた少女は、恐怖からクヒにしがみ付き、激しく鳴る心臓を落ち着けようと胸を擦る。
「あなた、名前は?」
冷たいが、優しさを含むクヒの笑顔に、少女はこくんと頷いて答えた。
「ユナ……です。あなたたちは一体、何者なの?」
「それは、とても難しい質問ね。……敢えてこの場にふさわしい言い方をするとすれば、あなたのお父様の依頼を見てすっとんできた、賞金稼ぎ? かしらね」
「父が……、依頼……? 私、ここ暫く記憶がなくて」
「それは、あなたがゴーストに魅了されていたからだわ。あなたには、あの魔物が、誰かに見えたんでしょう?」
「ええ。帝国軍と戦う兵士として戦場に狩り出された恋人の……アランに」
「そう……」
クヒは残念そうに、彼女を見ていた。ユナは、ディエガに『死んだ可能性が高い』と言われたことと、クヒの表情がダブっていることに、ショックを受けた。
「これを御覧なさい」
そう言って、クヒは自分の両手の人差し指と親指を互いにくっつけて、輪を作って、その中を彼女に覗かせた。
恐る恐る、輪の中を覗く。そのなかには……。
「ア……アラン!!」
ディエガの攻撃にもがき苦しむ、アランの姿があった。ユナが覚えている、少し前のアランの、……しかし、弱り果て、辛そうに身体全体をくねらせる、傷だらけのアランの姿が。
「やめて! これ以上、彼を傷つけないで!!」
ユナは思わず、ディエガに叫んだ。
輪から視線をはずすと、そこには、巨大に膨れ上がったゴーストと、形勢逆転され、苦戦を強いられているディエガがいた。ディエガの周りには、ゴーストのそれとは違う、更に黒い影が帯び、ゴーストの触手がその影を吸い取ろうと、彼の周りを漂っている。
「それは無理だ。こいつ、俺の気を吸い取り始めた……!」
魔法を帯びた剣が幾らゴーストの触手を切り落としても、なかなか弱らなくなっていた。ディエガの意思とは関係なく、彼から出た黒い影は大きく揺らめき、ゴーストの餌になってしまう。
「また……? 仕方ないわね……!」
クヒは応戦の魔法……追加のサンダー魔法を放ちながら、ユナの手に抱えられた、包みに目をやる。
「ユナ、ディエガに託された包みを開けなさい」
ユナははっとして、包みを解く。布を持つ手が緊張感で震える。
「ね、……えーっと……」
不安そうにクヒを上目遣いにちらちらと伺う。
「クヒよ」
「──ねえ、クヒ。彼の周りの、あの黒いものは何? 何故あの人は、あんなに苦しそうに戦っているの?」
「それを教えたら、あなたの大金持ちのお父様は、私たちに援助してくださる?」
クヒは何か言いたそうな、でも、言えないような、微妙な回答をする。ユナは「さあ、私には、なんとも……」とはぐらかすことしか出来なかった。
はらはらと、布が地面に落ちる。そして、包みの中から出てきたのは……。
「筒?」
装飾を施された、銀色の筒。小さな宝石と、細工が見事に調和している。女の手のひらから少しはみ出る長さで、直径がコインひとつより少し大きいくらいの、美しい筒。が、楽器ではない。包みを渡されたときに、少し重いと感じていたが、一体これは何なのだろうと、ユナは手にとっていろいろな方向から筒を眺める。
「それはね、『インフィニティ』と呼ばれる、聖遺物よ」
「聖……って、伝説の? そんな、私が持っちゃいけないものじゃ……!」
ユナは驚いて筒をクヒに突き返そうとする。
「いいのよ。持ち主の彼はコレに触ることすら出来ないんだから」
くすり、と、クヒが笑ってユナの手を押し返す。
聖遺物、──それは、遥か昔、この世界を救ったとされる勇者が残した伝説の遺物。世界のあちこちに散在し、トレジャー・ハンターたちを魅了する、宝物。と、同時に、それ自体に不思議な魔力が宿り、聖なる力で悪を打ち砕くと言われている。
そのひとつが今、ユナの手の中にある。
「いい、ユナ。両手でしっかり『インフィニティ』を握って。そして、あなたの大好きなアランを救うことだけを考えるのよ」
戸惑いながらも、彼女は言われたとおり、胸の前でインフィニティを両手で縦に持ち、ぎゅっと握り締める。目を瞑り、大切なアランとの日々を思い出す。優しかったアラン、旅立ちの日に、「きっと戻ってくるから」と優しく微笑んだアラン。考えれば考えるほど切なく、胸が締め付けられる。
(何故、こんなことに? 戦場でなにがあったというの? ……アラン!!)
突然、筒全体が光り始める。その両端から緩やかな光の帯が出現し、上下に伸びる。外側にアーチを描きながら少し伸びたところで折れ曲がり、上下二つの穴から出た光が出会い、弓状の物体を形成する。
「コ、コレは……?!」
たじろぐユナ。
「さあ、手にとって、構えて!」
クヒは魔法をやめ、杖を足元に置く。彼女の横に添い、無理矢理弓を構えさせると、厳しい声で一喝した。
「弦を引けば、矢が放たれる。あなたはこの弓で、ゴーストを射るのよ」
「で、出来ません……! そんなこと……!!」
ユナは弓を下ろそうと必死にもがくが、クヒはそれを許さない。女性とは思えない力で、ぐっとユナがインフィニティを握る手を押さえつける。
「聖遺物は、悪の力だけを切り裂くもの。決して、あなたの愛しい男の魂までは傷付けないわ。……それを放つ、あなたの意思に迷いがないならね」
「私は嫌! あなたたちが、コレを使って、助けてくれれば済むことじゃないの?!」
しかし、クヒは譲らない。
「いいこと? 私にはあなたの彼を助ける気などないのだから、あなたがやらないのなら、魔法で消滅させてあげてもいいのよ? でなければ、彼……ディエガが本気を出して、あなたの彼を木っ端微塵に砕いてしまうことも出来るのよ?」
「そ、そんな……」
「アレだけ膨れ上がったら、もう、意思などない、ただの化け物だわ。あなたが例え、たくさんの愛を言葉にしても、彼には届かない。言葉の代わりに、刃を向けることも、時には必要なのよ」
クヒの言葉に、ユナは全身を激しく打たれた。なんて、なんて強い……。
「あなたが、私の立場だったら? あの人を射ることが出来る?」
徐々に弦を引くユナ。大粒の涙を浮かべて、必死に勇気を振り絞っている。
「もちろん。何を迷うことがあるの? 私はそもそも、彼を殺すために、一緒に旅をしているのだから」
「殺す……?」
「あの、黒い影は、彼の中に巣食う、悪魔。その悪魔が目を覚まし、彼を完全に支配し、彼が彼でなくなってしまったときに、私はこの『インフィニティ』で、彼を殺すのよ」
クヒの視線の先には、墓地を駆け回り、必死にゴーストと戦う、ディエガの姿があった。尚も放出を続ける彼の黒い影が、明らかにゴーストを引き付けていた。ゆらり、ゆらり、どんどん膨れ上がり、その高さは城壁を越え、教会の屋根を越え……。ディエガはその顔を見上げ、「吸い過ぎだ」とぼやく。しかし、剣が帯びていた魔法も、そろそろ切れそうだ。
と、彼女の視線に気づく。
身を屈め、ゴーサインを送る。
「弦を……!」
ディエガの言葉に促され、ユナは思い切って弦を引いた。光の矢が現れ、まばゆい光を立ち上らせる。クヒが、彼女の震える手をしっかりと押さえ、目標に矢を向ける。
そして。
右手がゆっくりと弦から離れる。
矢は迷うことなく、ゴーストへ突き進む。草丈のある荒れ放題の墓地に風を吹かせ、膨れ上がったゴーストの中心部へと向かってゆく。
ユナは、しっかりとその様子を見つめていた。
『聖遺物は、悪の力だけを切り裂くもの。
決して、あなたの愛しい男の魂までは傷付けないわ』
クヒの、その言葉を信じるしかない。辛い、苦しい、胸が張り裂けそう……!
ゴーストを射る重々しい音が、夜の静寂を裂く。
膨れ上がったゴーストの身体のど真ん中に、大きく穴が開く。
矢は、穴の中心部に留まり、金色の光の粒になって粉々に砕け散る。そしてその粒の一つ一つが輝きだし、ゴーストの身体はひび割れたガラス玉のように粉々に崩れ落ちてゆく。淡い光がその全体を包み、優しく、輝いている……。
崩れていくゴーストの中に、捉えられていた魂が、浄化され、姿を現す。武具を纏った、兵士。
「アラン……!!」
ユナはインフィニティから手を離し、その兵士の亡霊へと駆け寄る。
彼女の手から離れたそれは、光が消え、ただの筒へと戻っていた。クヒはその筒と、自分の杖を拾い上げ、彼女に続く。
「会いたかった……! どうしてこんなことに……」
ユナはアランに両手を差し伸べたが、実体の無い彼には触ることすら出来ない。改めて、彼が既に死んでいることを思い知らされる。
『すまない、ユナ……』
今にも泣きそうな顔でユナを見つめるアラン。彼もまた、手を差し伸べ、透き通った手で、彼女の頭を撫ぜる。
感動的な再会に、邪魔をしないように距離をとって、二人を見守るクヒに、ディエガがゆっくりと近づいてくる。ほっとしたように、二人は顔を見合わせ、頷く。
「ま。無事に終わったみたいだし。よしとするか」
「よしとするかじゃないわよ。自分の力を押さえようとしないと、もっと酷い目に遭うわよ」
「ご忠告、ありがとう。……なんとかなるなら、やってるさ」
クヒの言葉にふて腐れる。クヒはいつも、ディエガにはストレートに喋るのだ。(もう少し、気の利く女なら)と、口に出しそうになって、やめる。
『ユナ、君にどうしても伝えたいことが……。そう、あなたたちも』
アランはそう言って、ディエガとクヒのほうに視線を向けた。
『さっきはありがとう。お陰でこうして、ユナとまた話すことが出来た。感謝しています』
呪縛から放たれたアランは、清らかな顔をしていた。
『実は、僕は帝国軍との戦いで、とんでもないことを知ってしまったのです。それを、どうしてもユナや、ユナのお父さん、そして、それを知らないたくさんの人に伝えたくて、死んでも死に切れなかったのです』
「それは、俺たちが聞いてもいいことなのか?」
ディエガが訊く。
『はい。……むしろ、それはあなた方とも深いかかわりのあることなのかも知れません』
「と、言うと?」もったいぶるアランに、ディエガが催促する。
『帝国が闇の力を手に入れ、この世界を征服しようとしていることは、皆さんも知ってのとおりです。僕たちは、帝国に近い、北の地まで赴き、帝国軍と戦火を交えました。そして、そこで見たのは……』
アランは言葉を詰まらせた。そして、恐怖で肩を震わせる。
ユナは「どうしたの?」と、アランを見上げる。
『死なない兵隊』
アランの言葉に、みな息を呑む。
「つまり、アンデッド・モンスターの群れだったと……?」
ディエガもクヒも、そしてユナも、心底震え上がった。アランは言葉を続けた。
『そうです。大量のアンデッドが、行く手を阻むのです。そして、僕も、──気がつくと、ゴーストとなって、この地に来ていました。ユナと会いたい一心で、しかし結果として、彼女を魅了し、生気を吸い取ってしまっていたのです』
アランはゆっくりと、三人の顔を眺めた。
『帝国を支配しているのは、もしかしたら人間の王ではないかもしれません。やがて、あの不死の軍勢は遠く離れたこの地までにもやってくるに違いありません。僕はその警告を、死んでいった仲間たちの変わりに、みんなに伝えなければと……。
あなた方のような、聖遺物を持つほどの人物は、特に狙われかねません。これから起きるであろう、恐怖に対抗できるだけの力を持っているならば、力ない民を守ってほしいのです。
お願いです。富や権力のある人たちに呼びかけてください。帝国の魔の手から世界を守るためにも』
そして、目を閉じた。
役目を果たした亡霊は、天へ昇る柔らかな光に包まれた。
「アラン……!!」
名残惜しそうに、手を差し伸べるユナ。
アランの身体は、砕けるように、足元から徐々に消えていく。
『ユナ、最後に君に会えてよかった』
彼の声は、いつまでも少女の耳から離れなかった。
ユナは崩れるようにわっと泣き出した。
闇夜にかかる下弦の月は、古ぼけた蔦まみれの教会の屋根の上から、可哀想な恋人たちを、静かに見守っていた。