二章 勉三さんとビン底眼鏡 ~その2
ついに南雲さんの本領発揮!
今日も半地下になった学食で昼飯をとる。ただ、いつもと違うのは、一人ではなく隣で可愛らしい女の子が、大量のサンプルの前で「あぁでもないこぉでもない」と、ぴょんぴょん飛び跳ねながらメニューを選んでいることである。実にかわいらしい。
「先輩は何にしますか? もう決めました?」
「いや、何でもいいんだが、南雲さんはいつも迷ってなかなか決められないの?」
「いえ、私いつもお弁当なので、実は食堂のご飯は今日初めて食べるんです」
そういえば、初めて南雲さんを見た日も、食堂の前のベンチでお弁当を広げていたのを思い出した。
「今日は、先輩とお昼をご一緒させていただこうと思って、お弁当は持ってこなかったんですよ」
そう言うと彼女はにこりと笑った。なぜだか解らないのであるが、緊張の余り血の気がさっと引いたのである。年下の女の子から気のあるような事を言われただけで過剰に緊張する、私は気の小さい人間であると実感した。
「なんちゃって、実は家に忘れて来てしまったのです。からかって申し訳ありません」
今の緊張を返せ!
いつもであれば、そう突っ込みを入れているのであろうがこの時は、驚くほどホッとした。ホッとしてから淋しい気持ちがわいてきた。
彼女はまた、クスクスと笑った。まぁ、彼女が楽しそうなので良しとした。南雲さんは思わせぶりなからかい方をしてくる子だ。しかし、考えてみると、今日はわざわざお弁当を用意せずに実験室でじっと待っていた。そして、食堂でわざわざ一緒にご飯を食べるなんて、お弁当を家に忘れたというのは恥ずかしいのを隠して言っているだけなのではないだろうか。
いや、再三ながら申し上げておくと、読者諸賢の考えている通り、例えお弁当を忘れず持ってきたところで、一緒に食堂でお弁当を食べることは可能なのである。うすうす気付いてはいる。しかしだ、一縷の希望を大きく見積もり恋の突破口とせずには、もはや戦場に立つ機会すらままならないのである。この程度の過大評価にはもう一度、目をつむって頂きたい。
そうこうしている間に、彼女はメニューを決めたようである。私はカツ丼の食券を買った。彼女はというと、悩んだ結果サンキューセットという、小鉢や焼き魚のセットメニューを注文していた。このサンキューセットは価格が390円であり、名前と値段が語呂合わせになっているという実にセンスにあふれた定食である。
カツ丼を受け取った私は、席を決めようと広い食堂の中を見渡した。というのも、不用意に席を選んで、せっかくの南雲さんとのお昼デートを知人に邪魔されたくないと思ったのである。
したがって、席選びは非常に重要な意味を持っている。お昼どきを過ぎていたこともあって、食堂はわりと空いていた。
すると、ふいに、後ろから南雲さんがトレーで背中をつついてきた。
「どうしたの?」
「あの、外で食べませんか?」
私は、南雲さんに促され、食堂の前のベンチで食べることにした。南雲さんは座るなり鞄から蚊取り線香を取り出し、火をつけた。
「南雲さん、ご飯食べるときに蚊取り線香たくんだね」
「はい、私は世界一のカトラーですから、当然です」
カトラーって……なんだ?
「カトラーって、何?」
「先輩、もはや絶句です。蚊取り線香を愛する者のことをカトラーと呼ぶのです。世界大会まで開かれているのですよ」
世界大会だと! なんという大風呂敷を広げたんだ。今までの可愛らしい嘘や冗談は許せたが、今回の世界大会はやりすぎだ。私は少しいじめてやることにした。
「へぇ。で、それはどこで開催されているのだ?」
「第一回大会から今年の第三回大会まで、すべて住吉区で開かれました。ちなみに、私が三連覇しています」
「ほぉ。それは何人ぐらい参加しているのだ?」
「毎年、二人です」
いきなり決勝戦かい!
「私と、お母さんです」
もはや世界大会じゃねぇ! 家族大会だ!
「南雲さんよ、それのどこが世界大会なのだ? 南雲家の大会ではないか。百歩譲っても全日本選手権ではないか?」
「いえ、私の母は台湾人なので世界大会です」
ハーフ!?
ここにきて、まさかのハーフ宣言だと! この娘、私の想像のはるか斜め上をいく存在である。
「そうかぁ」
私の口からはそれ以外の言葉が出なかった。もはや彼女をいじめてやろうなどという気持ちはすっかりと消え失せていたのである。その後、彼女は一回生の頃、蚊取り線香の香りの香水を作成することに没頭したこと。そのためだけに化学サークルに在籍していたこと。そして、授業そっちのけで香水の開発にいそしみ、一回生の成績が恐るべき低空飛行だったことなどを楽しそうに話してくれた。
串カツ屋で初めて南雲さんと話した時に嗅いだ、あの懐かしい香りは彼女の自作香水だったようである。
この日、初めて蚊取り線香の話題で盛り上がりながら食事をした。
プルルルルル……プルルルルル……
そんな楽しい食事もそろそろ終わろうかという時、私の携帯電話が鳴った。見ると、画面には中山隆司の名が表示されていた。
「もしもし」
「もしもし、相沢か? 盗賊団だ! 渦巻き盗賊団に、琉球大学との友好関係のしるしとして建てられたモニュメントが盗まれた!」
そんな馬鹿な。そのモニュメントは大きさが小学生の子供ぐらいはある。確かに、沖縄県のマークを模しており、見方によれば渦巻き状ともいえるのであるが、あの重い鉄のモニュメントを持ち運ぼうとすればいやでも目立つに決まっている。
「中山、さすがにあのサイズの物を盗めば目立であろう。なにかの間違いではないのか?」
「いや、確かに盗まれたようだ。工事の予定は無い!」
中山も、さすがに物が物だけに焦っているようである。その時であった。
「あ……いたわ……」
信じられない事に、一人の男がモニュメントを背負って堂々と食堂の前を歩いていった。
一人かい! しかも、えらく堂々としてるなぁ、おい!
「見つけたのか? 頼む、追跡してくれ! 任せたぞ」
そう言うと、電話が切れた。中山にしては珍しく焦っていた。何かあったに違いない。とにもかくにも、残りのカツ丼を流し込むと南雲さんと盗賊団の団員を追いかけることになった。
取り押さえる機会をうかがいながら二人で後ろをつけていくと、駐車場へと着いた。
「南雲さん、犯人がモニュメントを車に積んでいる隙に取り押さえよう」
すると彼女は何やら考えて、私の顔を覗き込んできた。
「先輩、よく考えてみたのですが。警察すらいまだに盗品を保管している場所を見つけだせていないわけですよね。だったら、このまま車を追跡すれば拠点が解るのでは無いでしょうか?」
なるほど、南雲さんは面白いことを考えるものだ。
「しかし、私は電車通学だよ。追いかける車がない」
すると、彼女はポケットからトヨタのロゴが入ったキーを取り出した。
「今日、偶然にも実家の車で来たんです」
なんという偶然。いやな予感と一抹の不安がよぎったが、彼女はすでに自分の車の方へ走り出していた。仕方なく私も続くことにした。
「先輩、私はハンドルを握ると人が変わってしまうので、先輩が運転して下さいませんか?」
そう言いながら、一台の車の前で彼女にキーを渡された。しかし、車が悪い。「AE86」スプリンタートレノである。
スプリンタートレノは型式がAE86であったことから、86という愛称で呼ばれている。トヨタが1983年から1987年にかけて製造したスポーツカーであり、今でも根強いファンが多い。
「こ、この車は運転できない」
「どうしてですか?」
言えない! オートマ限定だなんて恥ずかしくて言えない!
「まさか、先輩。オートマ限定ですか?」
ぐはぁ~! 私の心が、いとも簡単に吐血した。
「そ、そうなんだよ」
「しかたありませんね、この車はお察しの通りマニュアル車です。私が運転します」
そう言うと、彼女は車に乗り込んだ。私は、しばらく呆然としてしまった。
「早く乗って下さい、犯人の車が出ます」
南雲さんに、せかされて私はしぶしぶ助手席に座った。と同時に、ものすごい勢いで車が走り出した。車内に流れるユーロビートの軽快な音楽と、後輪が滑るスキール音。
ドリフト!?
「ちょ、南雲さん! どこでそんな運転、身につけたのだ?」
彼女はぼそぼそと、力無い口調で答えた。
「家が豆腐屋で、たまに親父の配達手伝ってるんだけど、その時に……」
やはりか。私は、一応確認しておこうと窓を開けて扉を覗きこんだ。思った通り、そこには「南雲とうふ店(自家用)」の文字が。つまり南雲さんは某走り屋と同じように、実家の手伝いで豆腐の配達をしているらしい。スポーツカーで。
って、ちょっと! 南雲さん顔が変わってる! 目が半開きになって眉毛がキリッとしてる! もはや性格が変わるというより、別の人になっているではないか!
「先輩、窓から顔出さないでもらえます? 危ないんで……」
「すまん」
素直に、従った。直観的に身の危険を感じたからである。
「うお~、あの86スゲー。下りのブレーキングドリフト完璧だ! FDが突っ込みで負けてる!」
観客の声? 何処から?ガードレールに観戦者などいないのだが。
次の瞬間、ルームミラーを見ると後部座席に座っている松方が見えた。
「お前かぁ! なんでお前がいるんだ!」
「なんでって、観客とライバルカーのドライバーの声を担当するためだ」
もう、つっこむのはよそう……疲れる。
コーナーを四、五個も抜けると南雲さんは犯人の車との距離をどんどん詰めていった。そして、いよいよ一メートルという距離にまで追い詰めたのである。
「くそ! 追いつかれただと? 気が変になりそうだぜ! 今日に限ってFDがやけにのろく感じる。セカンダリータービン、止まってんじゃねぇのか?」
相変わらず松方は犯人の声を担当していた。
「くそぉ。あのクソ親父。あの車抜かないと勝ったって認めてくれねぇだろうなぁ……」
はぁ? な、南雲さん?
「しかたねぇ。……あれやるか」
何を?
「仕掛けるポイントは、この先の五連続ヘアピンカーブだ」
彼女はそう呟くと、先行する犯人の車の内側にハンドルを切った。そして、ヘアピンカーブが近づいてくる。犯人は当然ブレーキを踏む。南雲さんは……減速しない!
「ちょ! 南雲さん。俺の話を聞いてくれ!」
「先輩、話は後で聞きますよ。今は信じていて下さい」
「86がすごいスピードで突っ込んで行くぞ! ブレーキいかれたか!?」
松方は相変わらず鬱陶しい。
もうダメだ。私は覚悟した。今までのことが走馬灯のように駆け巡った。次の瞬間だった。
ガコン!
南雲さんは、右の車輪を路肩の溝に落とし信じられない横Gと共に、ジェットコースターのようにインベタラインを猛スピードで駆け抜けた。これが世に言う溝落としである。
あっという間の出来事であった。南雲さんは先行する犯人の車を鮮やかに抜き去ったのである。
「で、先輩。これでもまだ言いたいことがありますか?」
南雲さんが、得意げに鼻を鳴らした。
「南雲さん、なんで追い抜いたの? 追跡にならないんだけど」
「へ?」
彼女の顔が元に戻った瞬間であった。大方の予想通り、自分たちの当初の目的であるアジトを見つけるための追跡ということを、すっかり忘れていたようである。
「せ、先輩。犯人の車は?」
私は、正気に戻った彼女に、つらい現実を突きつけることになった。
「さっき、Y路地を左折していったよ」
見失った……いや、自分から見失いに行ったのである。これにて作戦は失敗に終わった。アジトどころかモニュメントも失ってしまったのである。中山に合わせる顔が無かった。
「失敗してしまったな。三人でドライブしただけになってしまったということか」
松方……願わくは、少し黙って頂きたい。
初めて小説を書いております。どんな些細なことでも結構です、読んで下さった方はご指摘や感想を頂ければ励みになります。なにとぞよろしくお願いいたします。