前編
安倍辰麿です。
諸君、幼女は好きか? ホラーは好きか?
よろしい、ならば読み進めたまえ。
【付喪神・零】
突然、『ワタシ』たちは強い衝撃に見舞われた。視界の悪い激しい夕立の中、トラックが急にこちらへ突っ込んできたのだ。
母娘はそのまま後方へ吹っ飛び、『ワタシ』もろともアスファルトに衝突する。幸い『ワタシ』は娘が衝突の際に手を放してくれたおかげで、吹っ飛ばされて地面に投げ出されはしたものの、身体は何処も折れたり曲がったりしなかったのは幸いだった。だが、よく見ると身体の一部が酷く汚れてしまっていた。
――血だ。『ワタシ』の黄色い身体に、飛び散った鮮血が浴びせられたのだ。
トラックの運転手の男は酒をあおったまま運転していたらしい。すぐにおぼつかない足取りで運転席から飛び出て車体の前方へやってきた。酒に酔った真っ赤な顔は見る見るうちに蒼白となり、身体をがくがくと震わせながら泣き崩れた。自分の引き起こしてしまった事故を悔やんでいるのだろう。
『ワタシ』は吹き飛ばされた母娘を見る。人間ではない『ワタシ』でさえ、言葉に詰まる惨状が目の前に広がっていた。
母娘は頭から血を流して倒れていた。母親は衝突時に娘を庇ったのか、両腕を前に突き出して娘を抱きかかえようとしたらしい。しかし、それは間に合わず、彼女の右腕が曲がってはいけない方向へ曲がっている。地面に側頭部を強打しているため、身動き一つしない。失禁しているらしく、母親の下腹部から血液とは異なる液体が染み出ていた。母親の姿は誰が見ても『酷い有様』という言葉が真っ先に思い浮かぶ姿だった。だが、母親の腕をすり抜けてしまった娘のほうはもっと酷かった。正面から衝突してしまったのか、顔が真正面から潰れている。更には電柱に勢いよく頭をぶつけてしまい、後頭部が電柱にめり込んでいる。平らになった目、鼻、口、そして耳から血を流している。可哀想に。愛らしかった笑顔はもう見られない。後頭部の強打による衝撃の勢いで飛び出した頭の中身が余計に悲惨さを強調している。娘の身体の元に滴る血溜まりは大きな円を描きながら徐々にアスファルトに広がっていく。
運転手の男は、泣きながら携帯電話で通報していた。
男は携帯電話から顔を離すと、母娘に向かって叫ぶ。
「ああ、ああああっ! 死ぬな! 死ぬな! 待ってろ、救急車呼んだからな!」
だが、男の声に全く反応しない二人。すると男の顔色はみるみるうちに蒼白になって、身体は大きく震えだし、曇天の空を仰ぐ。
「どうすりゃいいんだよ! 誰か助けてくれ! 助けてくれ!」
人は、どうしようもない絶望に見舞われたとき、ああやって救いを求めるのだろうか?
そうだというのなら、『ワタシ』――娘の持っていた黄色い通学用の傘でも救ってくれるのだろうか? なぜなら『ワタシ』には、母娘二代にわたって使ってもらった恩義がある。『ワタシ』はその恩義に報いるべきだ! こうなってしまったことを『ワタシ』は止める事が出来なかった、『ワタシ』に出来る事がまだあるなら、この願いを誰か聞いてほしい!
鈍色の空を眺める。そして擦り切れていく自我のまま、厚い雲を突き抜けるような渾身の想いを天に打ち上げた。
――まみちゃんをたすけてください。
【入間八雲】
大学の学生ホールは喧騒に満ちていた。外はゲリラ豪雨でいつもより騒音は三割増になっている。七月に入り、夕立の激しさが日増しに酷くなっているのは、どうにかならないものかと眉をひそめる。時刻は十六時を回ったところだ。大講堂の授業が終わったのか、一斉に生徒がこのホールへなだれ込んでくる。また、土砂降りの雨から逃れてきた学生も多数学生ホールになだれ込んできているようで、ここの場所の人口密度は急激に高くなってきている。授業が終わった学生の多くはこのまま帰宅するか、バイトに精を出すのだろう。もしかしたら、研究室へ向かう勤勉な学生もいるかもしれない。俺は雨足が弱くなったら、帰宅するついでに神保町の本屋へ出かけてみようか、なんて思っていた。
だが、その予定は友人のこんな問いにより中断せざるを得なくなった。
「なぁ、先生! 都市伝説や怪奇現象に詳しかったりする?」
こいつ、ぶしつけに何を聞きだすかと思えば……。
俺を呼び止めたのは、金色のやや襟足の長い髪形をした痩身の友人だった。いかにもチャラそうなアクセサリーや服の着こなしをしている優男。彼の名は有西陽一。苗字を音読みすると、うざい、になる。その苗字のせいかは知らないが、こいつの行動の節々に俺はイラッとさせられることが多々ある。陽一は写真サークルに所属しており、これまでにも何度も「幽霊を激写する」と言い張っている。その度に俺を一緒にそういった場所(つまり有名な心霊スポット)へ連れまわそうとするのだ。陽一はまだ用件は言っていないが、恐らくまたそんな心霊写真がらみに違いない。俺は一般人とは違い、心霊スポットなどに向かうと面倒な事が起こる特異体質(所謂、霊感のようなもの)を持っている。毎回この手の誘いは断るように心掛けているので、俺はその場を去ろうとして椅子から立ち上がる。すると、行く手を質問主の陽一が手足を広げて阻むのであった。
「ちょ、ちょーっと落ち着こうぜ! 霊感の強い小泉八雲先生なら絶対食いつく話だからさ!」
「食いつかない。どうせまた面白半分に心霊スポットなんて行こうって話だろ? やめておいたほうがいいぞ。色々と面倒臭いことが起きるからな」
「いいじゃねぇーかー、面白そうだし。一緒に行こうぜ! な、小泉八雲セ・ン・セ♪」
「あのな、俺の名前は入間八雲だって何度言ったら……」
「センセ、ニックネームの一つでカリカリしないでくださいよ」
ニヤニヤしながら、一眼レフカメラを両手に携えている陽一。俺が日本民俗学を専攻しているからって、コイツは出会った当初から八雲つながりで先生呼ばわりする。こういう部分でも彼のウザさは俺の気持ちをむしゃくしゃさせる。あと、小泉八雲は厳密に言うと日本民俗学者とは違うからな? あっちの八雲の本職は教師だ。俺は茶髪でTシャツにジーンズとスニーカーという凡庸な格好で若干目付きが悪い学生でしかない。
「大体、お前がカメラを持っていることが何よりの証拠だ。また新しい心霊スポットを嗅ぎ付けたんだろう?」
「おお、先生! さすが目の付け所が違う!」
ばればれだっつーの。陽一は胸を張り、さも誇らしげに語りだす。
「夏といえば怪談! 怪談といえば心霊写真! 写真研究会に籍を置く身としてはだな、一度はガチの心霊写真をこの手でがっちり撮影したいわけよ!」
ああ、読めてはいたけど、本当にそうだったとは。陽一自身、単独で試みて何度も失敗しているらしい。なんでも本人曰く、『失敗しているのは、霊感がないから』らしい。故に、霊感のある俺の同伴を渇望しているのだ。正直、性懲りもなく挑戦するその熱意を、他の事に有効利用するべきだと俺は思う。陽一は幽霊が恐ろしいと口では言っている割に、心霊写真の撮影に執着している。矛盾しているのだ。
俺は呆れて言葉を漏らす。
「そういう安易な気持ちで心霊スポット行くと、いつか本当に呪われるぞ?」
「はぁ? 別に写真撮るだけだし問題なくね?」
へらへらと笑う陽一に、俺は呆れて溜息しか出てこない。
そもそも、俺が何故こうまで陽一の誘いを断ろうとしているかというと、俺の今までの経験から物を言っているからだ。日本民俗学者の祖父の家に引き取られて俺は高校まで育ったのだが、その間に散々な目に何度も遭った。学術的資料という名目で薄気味悪い人形やら絵画などが祖父の家には大量に収められており、真夜中になるとそれらに篭った思念が形や声となって子供の俺に絡んできた。話しかけられたり脅かされるのは可愛いほうで、中には当時子供だった俺の身体を乗っ取ろうと悪さをしてくる物もあった。ただ、不思議と動物霊や人間の霊などは殆ど目撃していない。物の思念が擬人化されることなら稀に遭遇した事がある。そういう奴らは大抵が付喪神という別格の存在だったりする。どうやら、俺は人間や動物の霊魂を見る力よりも、物体に宿る思念を見る力に特化しているようだ。
他人の落し物を見つけるという特技が俺にはあるのだが、それはただ、落し物の思念が見えたり聞こえたりできるだけのことだったりする。陽一にばれたのも、そのことがきっかけだった。俺が霊感体質だと陽一にばれたその日から態度が一転した。『お前が見れて俺が見えないはずがない』という謎の持論を陽一は持ち出し、一方的に言い寄られている日々が今日まで続いているのだ。今回もカメラ片手に俺を心霊スポットへと連れ回すべく参上してきたのは、そういう経緯からである。こんな風に付きまとわれるのが分かっていたら、奴の携帯電話の思念を辿って見つけてやるんじゃなかった。あの携帯電話、初対面の俺に向かってタメ口きいてきたあたり、嫌な予感はしていたんだ……。
モノの思念は、大抵は〝見える人間〟に助けを求めている事が多い。落し物などの自分の存在をアピールすることが大半だが、時には自身の無念を晴らすように無理難題を吹っかけられる事がある、と祖父が言っていた。ちなみに、祖父も俺と同じ力を持っているらしい。遺伝するのか、コレ……。
俺が色々思案していると、その横でニヤニヤと笑みを浮かべてにやける陽一。
「おやおや? 八雲先生、びびってらっしゃるのですか? 二十歳を迎えた大学生なのに肝っ玉が小さいですなぁ?」
ところが、陽一は俺の気持ちを一切汲み取らず、あろうことか挑発してきたのだ。人が心配してるのに、こいつは俺がびびってると思ってからかってくるとは……。だからお前は“うざい陽一”なんだよ!
「おい、その言葉はいくらなんでも酷くないか?」
俺が語感を強める、唐突にシャッターを切る陽一。その表情に全く悪びれた素振りを感じさせない。
「へへへ、先生の怒った顔ゲット。現像して、今度の合コンで心霊写真とともに女の子に見せびらかそう。『こいつが霊感持っているくせにヘタレな八雲君でーす』ってね!」
「お前、止めろよ!」
俺は大声をあげながら陽一に凄んでみせる。更に険しい表情で陽一に詰め寄ってみせる。が、これはまずかった。
「おっと、先生! 乱暴な真似は止してくださいよ?」
陽一が周りを見るようにと俺に目配せをする。周りを見渡せば、学生ホール中の目線が俺の方へ一斉に向けられていた。ここで陽一とトラブルになれば、とても面倒臭いことになってしまいそうだ。俺は陽一から一歩後ろに下がると、大きな嘆息を吐いた。
「分かった、付き合う。でも、金輪際、お前は友達とも何とも思わねぇ……」
「まぁまぁ、センセ、そうイライラしないでくださいよぉ」
「俺が不機嫌なのは、一体誰のせいだろうな?」
俺は陽一の顔をギロッと睨み付ける。睨まれた陽一は引きつりながら苦笑する。
「ははは……、すぐに済ませますよ、安心してくださいな。先生」
というわけで俺たちは、いがみ合いながらも陽一の指し示す心霊ポイントへ移動し始めたのだ。
【事故現場】
目的地には意外と早く到着できた。何故なら、大学に面している大通りを一本路地に入ったところの小さな交差点だったからだ。この大雨で、アスファルトに流れる水滴が、うねる河川の流れのように俺たちの足元を容赦なく水浸しにしてくる。
「ここか?」
俺は辺りを見回す。左後方の電柱の影に、小さな花束が添えられていた。電柱には、赤黒い染みがこびり付いている。それが雨に濡れて鈍くつやを放っている。
「なぁ、あの花束って、もしかして……」
俺が尋ねようとすると、陽一の目がらんらんと輝きだす。そして、俺の言葉を遮ってまくし立て始めた。
「さすが、八雲先生! ここは四ヶ月前に小さな女の子が、トラックに撥ねられて亡くなった場所なんだってさ。で、あの電柱に女の子はトラックにぶつかった勢いで頭を強打したんだとよ。不思議なことに、そのときに出来たその電柱の染み、いくら洗っても落ちないんだとさ。この時点で『いわく付き』って感じだよな!」
四ヶ月前、というと三月か。
「なるほどな……。その女の子が亡くなった場所で、不謹慎にも写真をお前は撮ろうとしているのか」
俺は顔をしかめて口調を強める。
「……おいおい、怒るなって。この話にはまだ続きがあってだな?」
その後、陽一は終始興奮しながらこの交差点で起こっている不可思議な噂話を俺に教えてくれた。
陽一の話を要約するとこうだ。土砂降りの雨が降っていた当日、女の子は母親の勤務先に立ち寄り傘を届け、一緒に帰るところで事故に遭ったらしい。子供に傘を届けさせるなんて、危なっかしい話だ。しかも一緒に帰る途中で事故に遭ってしまったのだから、何とも痛ましい話だ。
一方、トラックは雨による視界不良と飲酒運転が祟っての事故らしい。この運転手は全くもって弁解のしようがない。自分の不手際で他人の命まで奪ってしまったのだ。今頃は塀の中で頭を冷やしているのかもしれない。
で、問題はそこからなのだ。
陽一が言うには、事故が起きて以来、雨の日、この交差点で傘を差して通り過ぎようとすると、雨合羽の少女が現れて「傘を届けて」と言うらしい。承諾すると取り憑かれ、差している傘が一生自分の手から離れなくなる。反対に逃げたり断ると、黄色い傘が何処までも追いかけてきて、最後は傘に魂を吸い取られるそうだ。
なるほど、確かに都市伝説にありそうな話だ。特に両方とも救いがないところが、更にそれっぽさを出している。しかし、こんな最近起きた事故にそんな話がくっつくとは……。
「なぁ、事故から日が浅いのに、都市伝説になるのは随分と早いんだな」
俺が思ったことを素直に口にすると、陽一はその言葉を待っていたと言わんばかりに口角を緩ませると、嬉しそうに言葉を弾ませる。
「ここ最近のゲリラ豪雨で、雨合羽の女の子の目撃例が相次いでいるんですよ。目撃証言ならかなりの数が挙がってますぜ? 俺は直接目撃者から話を聞けましたから間違いないぜ。目撃者曰く、遭遇してから数日間、誰かに付き纏われているような感覚があったらしい。だから雨の日の今日、その子が現れるか確かめるためにも先生に見てもらいたいんですよ」
なるほど。事情はようやく把握できた。
「つまり、この俺に呪われろと。そして魂を吸われて死ねと言いたいんだな?」
ありったけの憎悪を篭めた視線を陽一に突き刺すと、奴は口を半開きにしながら苦笑いしてきた。
「は、はははは……。んな訳ないじゃないですか」
「よし、呪われるときは一緒に呪われようじゃないか。お前も俺もここにいる目的は同じだからな。俺だけ呪われるのは不公平だ」
「勘弁してくれよ!」
首を小刻みに横へ振る陽一。だが、次の瞬間には態度を一変させた。
「で、センセ、何か感じませんか?」
陽一はしきりに周りをきょろきょろと見回し、わくわくした様子で俺にその雨合羽の少女を探せと促す。
「感じるも何も……」
俺は自分の足元に視線を落す。そして、指を差してこう言ってやった。
「ここに、いる」
「ふへぇっ!?」
陽一は慌てて俺の側から離れる。
「み、見えるのか?」
「ああ、バッチリな……」
残念ながら、見えてしまっているのだ。黄色い雨合羽を着込み、黄色い長靴を履いた、全身真っ黄色の幼い女の子の姿が。更には、さっきからこの子はじっと俺の顔を小さな背で見上げているのだ。何度もこうした経験をしているとはいえ、ついさっき聞かされた都市伝説のお陰で、俺は内心怖気づいていた。
大丈夫だ、俺。何の為に民俗学を専攻しているんだ? 都市伝説など、所詮噂話に尾ひれがついたものが殆どだ。民俗学に出てくる神や精霊の類だって、自然の驚異などが偶像化されて伝承されている事が多い。つまり、何事も実際はそこまで怯えるような存在ではないのだ。そう自分に言い聞かせ、陽一にびびっている事を悟られまいと必死に取り繕った。
「よ、よし! そのままそいつの気を引いてくれ! 俺が今から激写するからな!」
恐怖か興奮か分からないが、両手を激しく震わせながら陽一はカメラを構える。
その時、幼女がカメラに向かって手を伸ばして向けてみせた。すると、ファインダーを覗く陽一の身体が固まった。
「ま、まじかよ……。俺にも見えてるじゃねぇか!」
ファインダー越しに俺を覗くと、黄色い幼女を陽一も視認出来るようだ。陽一は何度もカメラに目をくっ付けたり、離したりして一向に写真を撮ろうとしない。不意に、幼女が俺のシャツの裾を引っ張る。振り向くと、なにやら楽しそうに笑っているではないか。その笑みは、悪戯が上手くいったときの無邪気さでいっぱいだ。恐らく、この幼女がカメラに何か小細工をしたのかもしれない。笑みを浮かべる幼女は黒髪のおかっぱで、肌はまるで透明と見間違うほど血の気のなさで真っ白だ。それが却って全身の黄色との対照が映えて不気味である……。
「セ、センセ。俺、今日、帰るわ」
顔を真っ青にしながら、たどたどしく俺に告げる陽一。
「なんだよ、折角のシャッターチャンスだぞ?」
「冗談じゃねぇ! 俺はお前と違って幽霊初めて見たんだからな! 無理無理! なんで先生は平然としてるんだよ! ファインダー越しにしか見えないんだぜ? うわ、怖ッ、超怖ッ!」
我慢できなくなったのか、悲鳴を上げながらその場を全速力で走り出す陽一。あまりの恐怖で、傘を差さずに雨粒に打たれながら最寄り駅のある大通りまで突進していった。
「俺も結構きついんだけどな、この状況……」
幼女の霊に顔を見詰められたまま、俺は身動きが取れずにいた。正直、霊や思念体に絡まれている瞬間は、何度経験しても生きた心地はしない。不気味な視線に耐えられなくなった俺は、顔を背けようと顎を動かそうとした。だが、どんなに力を入れても顔が動かないばかりか、手足一つ動かなくなっていた。
……金縛りだ。これでは逃げたくても逃げられない! 迂闊だった! カメラに細工出来るくらいなら、金縛りくらい出来てもおかしくない! こいつ、相当未練残してここに居やがるな?
俺の今までの経験則と祖父の体験談をまとめた結論だが、現世への未練は、そのまま霊の力の強さに繋がる。力の強い霊や思念体は、現世にやり残した事をたくさん残して逝ったことになる。
「ねぇ、おにいちゃん」
唐突に、甘えるような声で幼女が俺に話しかけてきた。
俺は無言で幼女の顔を見詰める。
「傘、とどけて?」
その言葉に、俺の背筋は瞬時に凍て付いた。
おいおい、都市伝説ってただのデマじゃないのか? 承諾しても断ってもアウトだったよな?
「ねぇ、傘、とどけて?」
日の光が差し込まない深海のような仄暗い両目を俺に向けたまま、再び尋ねてくる幼女。
どうする? どうすればいい? 承諾か、拒否か? どちらかを選ぶしかないのか?
呼吸が乱れる。自然と掌が汗でじっとりと湿っていく。
「え、えっと……」
恐怖で声が擦れる。喉の奥が乾いて張り付きそうだ。
考えろ、入間八雲! 二つに一つ、と思うからダメなんだ! 別にどちらを選ぶ必要なんてない! こういうときは、『日本人らしい模範的な答え方』があるじゃないか!
平常心を得るために深呼吸をし、幼女に向き直る。俺は意識して微笑むとこう言った。
「“また今度”な。おにいちゃん、忙しいんだ。ごめんな」
俺は『保留』を選択した。どちらつかず、結論の先送り。うやむやにしたがる日本人の性質を見事に活用できた瞬間だった。こうすれば、手に傘が引っ付く事もないだろうし、魂を吸われる事もないだろう。
分かってもらうために、幼女の頭を撫でようと右手を添える。ちゃんと実体があったことに、俺は驚いた。
「……わかった。ごめんなさい」
幼女は肩を落として顔を俯けると、小さな花束が添えてある電柱の影に座り込んだ。
「じゃあ、俺、もう行くから」
急に身体が軽くなった。どうやら難を逃れる事が出来たようだ。
その場から立ち去ろうと、最寄り駅へ通ずる大通りに足を向けたそのときだった。
「じゃあ、約束だよ。おにいちゃん」
やけに頭の中に響く声が俺に届く。
振り返ると幼女の姿はなく、そこには電柱の影にやたら古めかしい黄色い子供用の傘だけが立てかけられていた……。
【付喪神・一】
「しまった、寝坊した!」
俺は一時限目の授業に滑り込むため、力一杯自転車のペダルを踏み付けている真っ最中だ。昨日はあんな事があったせいか、やたらと疲労感が溢れてきて、夕食もそこそこに済ませてそのまま寝てしまったのだ。
で、今朝。
よく眠れた、と爽快な気分で携帯電話の時計を確認すると、慌ててシャワーを浴びて支度を済ませて今に至る。今日の一時限目は出席を取るので、どうしても外せないのだ。
しかし、はやる気持ちとは裏腹に、目の前の横断歩行の信号は赤になってしまう。やむなくブレーキを掛けて止まる自転車。
「なんだよ、こんなときに限って!」
ペダルを踏む足が自然と貧乏ゆすりしてしまうほどイライラしていると、ふと、視界の端に黄色いものが目に入った。なんだろう、と何気なくそちらに目をやると、俺はぎょっとした。
黄色い傘だ。古めかしい子供用の傘が、ガードレールにちょんと掛かっているのだ。黄色い傘の生地の一部が赤黒くくすんでいる。そこが妙に気味が悪い。俺の頭の中で昨日の都市伝説の内容が呼び起こされた。
傘が何処までも追いかけてくる……。
「……いや、まさかな」
あの手の傘はいくらでもあるだろう。ここは小学校の通学路にもなっている。誰かがうっかりして置き忘れたに違いない。
横断歩道の信号が青に切り替わると、俺はまもなくやってくる電車に遅れないように自転車をこぎ始めたのだった。
電車の車内。今日はやけに混雑している。どうやら、小学校か何かの遠足なのだろうか、子供と引率の教師と思しき集団が一車両の座席をほぼ占領している。子供に向かって席を譲れなんて言う人はおらず、普段から通勤している俺や会社員たちは有無を言わずに立たざるを得ない。故にこの混雑のおかげで、冷房が既に意味を成さないほどの不快指数をこの車内は叩き出していた。
『この先ぃ、緩やかなカーブになります、揺れますので、ご注意くださいぃ』
車掌のアナウンスの数秒後、背中に乗客の体重が一気に襲い掛かってきた。俺は窓ガラスに両手を付き、歯を食いしばり必死に耐える。顔の下には子供と引率の先生。俺が耐えなければ、座席の乗客まで潰されてしまう。腕の筋肉がはちきれるかと思うくらいに力を込めて耐え抜く。程なくして路線は直線に戻ったらしく、背中に掛かる体重が軽くなった。
やれやれ、と吊革に手を戻そうとした。
が、そこには、古ぼけた一本の黄色い子供用の傘が吊り下がっていた。
「あ、ああ……!」
思わず声が出てしまう。さっき、交差点で見た傘と瓜二つだ。汚れた加減や、微妙に色あせている感じなど。あの気味の悪い赤黒い染みまでそっくりだ。
「さっきまで何もなかったぞ?」
こんなあからさまに傘がぶら下がっていれば、誰だって気が付くはず。しかし、電車がカーブするまで、吊革には何一つ引っかかっていなかったのだ。
再び、俺の頭の中であの内容のリフレインが起きる。
傘が何処までも追いかけてくる……。
「そんなはずは……」
俺の心拍数が急激に跳ね上がるのを感じつつ、そんな事はないと否定した。
(どうせ、ここにいる子供たちの誰かの傘だ。きっとそうに違いない)
そう思い込むことにした。
しかし、やっぱり気味が悪いので、傘に近付かないように扉の側まで無理矢理移動した後、次の駅で空いている車両へ俺は乗り換えた。
どうにか授業は間に合った。ほっと胸を撫で下ろしつつ教室に入る。だが、俺が座った隣の席の上に、あの黄色い傘が陣取っていた。俺は慌てて席を移動した。
昼食を取ろうと、大学の近くの定食屋へ。日差しが強い中、サラリーマンたちと一緒に並ぶ俺。こんな天気の良い日に何故か傘入れには数本傘が刺さっている。忘れ物なのかもしれない。その中に、あの黄色い傘が混じっていた。食欲が一気に失せた俺は、列から抜け出しその場から一目散に立ち去った。
提出するレポートの資料を探しに図書館へ。ここは涼しくて作業もはかどる。座った席の隣には……、財布が落ちていた。あの傘じゃない事に安堵の声が漏れる。図書館の職員に財布を届けるべく、俺はカウンターまで届けに行く。職員はいそいそと奥から拾得物入れを引っ張り出だしてきた。そこには、あの黄色い傘が箱の中で横たわっていた。俺は手短に手続きを済ませると、レポートの資料探しを放り出して逃げ帰った。
そのあとも、何処へ行っても、何処へ行っても、あの黄色い傘は俺の視界に入ってくる。偶然を装って、何処までもしつこく俺の行く先々に先回りしてくる。ここまで来ると、都市伝説も馬鹿に出来なくなる。
「傘が何処までも、追いかけてくる……」
俺はすっかり怖気付いてしまい、帰りの道中ずっと、自宅の前に辿り着くまで神経質に辺りをきょろきょろと見渡しながらやってきたのだ。いつも通いなれている帰路がやたら遠く感じ、肝心の扉の前に着いた頃には奇妙な疲労感に体中が支配されていた。
「でもなんで……、断っていないのに?」
都市伝説では、断ると追いかけてくるという設定だったのではないだろうか?
『約束だね、おにいちゃん』
突然、幼女のあの声が頭の中で鳴り響く。途端に身を強張らせる。どこかにまたあの傘があるのだろうか?
約束……、つまり、俺にどっちか選ぶまで付いてくるって事なのか?
冗談じゃない!
俺は周囲を用心深く探る。傘がないことを確認すると、深い溜息を吐きながら自宅の鍵を差し込み扉を開ける。
「うわあぁぁあっ!」
思わず悲鳴を上げてしまう。何故なら、俺の家の玄関に、あの黄色い傘が入り込んでいたのだから! 黄色い傘はここでも待ち伏せをしていたかのように、玄関脇の傘立てにすっぽり収まっているのだ。
「何で、何でお前が俺の家にいるんだよ……?」
声が震えている。口の中はおろか、舌先や喉の奥まで乾いて吐きそうだ。肌は粟立ち、猛暑日だというのに空気が凍り付いたように冷たい。流石にもう限界だ。露骨に恐怖という感情が体中の神経を侵食していく。そのせいなのか足腰に力が入らず、立ち上がることすら侭ならなくなってしまう。
「ど、どっから入ってきた! 俺にもう付き纏うなよ!」
黄色い傘に向かって俺は擦れた声で怒鳴りつける。
すると、黄色い傘は見る見るうちに姿を変え、あの黄色いレインコートと黄色い長靴を身に付けた幼女の姿になった。
もう声すら出ない。尻餅を付いたまま後ずさりをする俺。対して、ゆっくりとこちらへ近付く幼女。玄関の暗がりから茜射す空の下まで出てきた事によって、幼女の顔がはっきりと見えた。
幼女は泣いていた。
「こわがらせてごめんなさい……、取り憑いてごめんなさい……」
泣きながら、俺に謝っていた。
「ごめんなさい、おにいちゃん、ひらきのこと、なでてくれた。さわってくれた人、はじめてだったから、おにいちゃんならだいじょうぶかもって」
ひっく、ひっくと途切れ途切れにそう言い出す幼女――ひらきと言ってたな。
「ひらき、付喪神なの。おにいちゃん、傘とどけて? おうちに、ひらきをとどけて?」
おねがいします、と泣きながら俺に頭を下げるひらき。
「……お前、俺を呪い殺したりしないか?」
ひらきに向かって、恐る恐る聞く。喉がすっかりカラカラに乾いているので、すっかり俺の声は擦れてしまった。
「……ひらきは、傘とどけたいの。だからひらきはね、おにいちゃんを呪わないよ」
たどたどしい口調でそう告げた。
俺の経験則でしか判断出来ないが、モノの強い思念の塊というものは嘘やごまかしが利かない。脅かすなら脅かすだけ。まとわりつくならまとわりつくだけ。そして、呪い殺すなら呪い殺すだけしかしない。ある一点まで高まった想いというのは、その想いの発信主がいなくても、独立して暴走する。これが俺が今まで味わった実体験で編み出した独自の解釈だ。だから目の前にいる類のモノの付き合い方は、いたって単純。彼らのメッセージは全て真実と捉える。そして真正面から対峙する。これに尽きる。だから、ひらきの言葉に偽りはないだろう。
「とりあえず、命の危険はなさそうだな……。完全に取り憑かれているけど」
そうなれば、いつもの事。モノの願望を俺が叶えてあげれば、俺は解放される。子供の頃から俺はそうやって、モノから発せられる幾多の無理難題に付き合わされ続けてきたのだった。高校までの異名は、『モノ探しの天才』。余り嬉しくない異名だ。
「ひらき、って言ったな」
泣きべそかきながら頷くひらき。
レインコートから覗く漆黒の前髪が頷いた角度で垂れ下がってしまう。
「おにいちゃんが傘届けるのを手伝ったら、俺から離れてくれるか?」
うん、と再び頷くひらき。更に前髪が顔に掛かってしまう。レインコートのフードも脱げてしまった。俺はひらきの前髪をかき上げてやる。
「分かった。とにかく、詳しい話を聞こう」
そういうと、さっきまで泣き顔だったのが嘘みたいにぱぁっと明るい表情になるひらき。
「うん! おにいちゃん、ありがとう!」
実害がなさそうなのはまず何よりだが、これから先、この幼女に四六時中『憑きまとわられる』のは俺の気が持たない。ここはひとつ、己自身への除霊行為という名目で、久々にモノたちのわがままを聞いてやるとするか……。
【付喪神・二】
「じこしょーかいします。付喪神のひらきです。よろしくおねがいします!」
俺の部屋の中で、黄色いレインコートを着た黒髪のおかっぱ幼女が会釈をする。
「おにいちゃんがなでてくれたおかげで、ひらきはいろんなことができるようになりました!」
えい、とひらきが手をかざすと、机の上に置いてあるコップが数秒宙を浮く。
「おにいちゃんのそばにいると、元気いっぱいでてくる!」
「ええと、俺が頭撫でたことがそんなに重要だったのか?」
「うん! ひらきはね、だれかがさわってくれないと取り憑けないの」
俺の質問に大げさに首を縦に振りながら答える。
ひらきはその後も一生懸命説明してくれたが、今ひとつ要領を得ない内容だった。
「……つまり、ひらきの力は瞬間移動や変化だけど、力の容量が限られていて、いっぱい使うと力尽きて傘に戻ってしまう。だから、いずれは誰かに取り憑いてひらきの願望を助力させるように仕向ける必要があった、と?」
自分なりに内容を噛み砕いてまとめてみる。
「おにいちゃんのことばむずかしくて、ちょっとわかんない……」
しかし、今度はひらきが俺の言葉を理解できなかったようだ。ひらきは仏頂面で静かに抗議してきた。俺は目を閉じ、俯いて謝罪の意を伝える。会話が噛み合わない……!
「おにいちゃんの元気のおかげで、ひらきはね、『ぱわーあっぷ』できたの! あのとき、おにいちゃんがあたまをなでてくれたおかげだよ!」
要するに、自分を届けてもらう協力者に憑依するためには、誰かから触れてもらわないといけないようだ。そして憑依された俺は、ひらきに何らかのエネルギーを供給している事になる。そのお陰で、ひらきは力を行使して学校や俺の家など追っかけてくる事が出来たのだろう。待てよ? もしかして、俺の後ろをずっとストーキングしていたのか? そしてタイミングを見計らって目の前に瞬間移動、と。
……なにそれ、怖いんだけど。
それはそうと、地味に疲労感が体中にじわじわと広がっているのは、さっきの空中浮遊の反動か? てことは、今までの妙な疲れも瞬間移動の影響なのかもしれない。恐らく、都市伝説の一説がここに該当するのか。
「入間八雲だ。お前に取り憑かれている大学生だ」
あぐらをかきながら会釈をする。ひらきの身長は、俺のあぐらの座高より少し高いくらいだ。
「やくも? やく……」
「や・く・も、だ。」
「やくも……? やくもん!」
「は?」
「やくもん! やくもん! やくもん!」
急にこっちを指差してやくもんと連呼しだすひらき。
「いやいや、俺はやくもんじゃなくて八雲だ。や! く! も!」
「やくもんおにいちゃんだー!」
「……やくもんでいいや」
勝てねぇ。そんな眩しい笑顔で言われたら拒否できないじゃないか。子供の無邪気さって反則だよなぁ。
「しかし付喪神とはな……」
ふと疑問に思ったこと口に出してみた。黄色い通学用の傘が付喪神だなんて聞いたことがない。番傘とか年季の入った傘なら分かるけど、どう見たって現代文明の利器だろ、ひらきって。
俺がそんな思案を巡らせていると、おずおずとひらきは口を開けた。
「うんとね、付喪神なんだけど付喪神じゃないの」
「は?」
なんだそりゃ。謎かけか何かか?
「……オーケー、全く分からん。俺に分かるように説明してくれ」
「もー、やくもんはおばかさんだなぁ」
……堪えろ、堪えるんだ。相手は子供の姿。しかもよく分からないが付喪神らしきものだ。まぁ、付喪神は神様より妖怪に近い存在という説もあるらしいけど。どちらにせよ、有無を言わずに手を上げるような真似はしてはいけない。
「ひらきはね、付喪神みらないなの」
ひらきは恥ずかしそうにそう答えてくれた。
「みらない? 見習いだろ?」
「うん、みらない」
「いや、違うって。全然言えてない。『見習い』な、み・な・ら・い。ほら言ってみ? み・な・ら・い!」
「みー、らー、なー、いっ!」
「ダメだこりゃ……」
このままでは話が全く進まない……。陽一とのやり取りに慣れているせいか、おかしい事を言われると、条件反射でツッコミを入れてしまうのだ。しばらくはちょっとツッコミを控えるようにしないと、ひらきとの会話が破綻する。俺は黙ってひらきの話を聞くことにした。
「ひらきは、もともとお母さんがかってくれた傘だったの。もらったこどもははだいじにしてね、お母さんになったの。でね、そのこどもに傘をあげたの。そのこはおんなのこなの」
……つまり、祖母が買い与えた傘が、母親、娘と二世代渡って使われているのが、ひらきなわけだ。凄いもの持ちのいい傘だな。
そのことを踏まえた上で、注意深くひらきをよく見てみる。ひらきのレインコートは、所々つぎはぎがされていたり、手足のくびれに包帯のようなものがかすかに見え隠れしている。おそらく、あの包帯は傘の柄や骨が修繕された部分の具現化なのだろう。そうなると、ひらきは何度も何度も修理をされ続けて、長い間使われてきた年季物と言うことになる。ただ、レインコートに付着している赤黒い染みが気になる。絵の具とは違う色合いの染み。まさか……?
そもそも、付喪神は大事に扱われた道具が神様として魂が宿り、変化して恩を返すといわれている存在だ。その逆で、蔑ろにされ続けてきた道具が憎悪を伴って鬼となり人間に復讐するモノも付喪神と呼ぶが、ひらきの場合は前者で間違いないだろう。
だから、引っかかる点がある。ちょうど、日本民俗学で付喪神のレポートを出そうとしていたので、知識は少しあるのだ。付喪神は、語源が“九十九神”とも言われている。むしろこちらのほうが正しいとも言われているそうだ。この九十九は「長い時間(九十九年)や経験」や「多種多様な万物(九十九種類)」などを示すなど、諸説言われている。つまり、とても長い時間(それこそ百年以上)をかけて経験を積んだ道具が神になることから由来している。
でも、ひらきはどう見たって百年以上経っているとは思えない。百年前に通学用の黄色い傘なんてなかっただろうし。
「ひらき、付喪神は長い年月を経ないとなれないんじゃないのか?」
俺の質問に、うん、と頷くひらき。
「だからね、ひらきは“みらない”なんだよ。ひらきはいま、迷子なの。おうちにかえりたいけど、かえりみちがわからないの。迷子だと付喪神になれない、ってボサツさまがいってた」
「ぼ、菩薩様?」
突然飛び出したその名に、思わず俺は目が点になる。
「ボサツさまはね、ひらきのことをかわいそうとおもって、おうちに帰るまでうごけるようにしてくれたの。そうじゃないと、付喪神になれないよっていうの。このかっこうもつくってくれたの」
「その格好って、持ち主の姿に似せているのか?」
そう尋ねると、何か考え込んだ後に、うん、と頷くひらき。
すげぇ。菩薩様、あんたなんて優しいお方なんだ。てか、仏教自体すげぇ。物へ自在に魂を植え付けたり、形を与えられるって、やりたい放題じゃないか。日頃、仏教を始めとする宗教を軽くみていたが、ひらきの言葉で仏教が身近に感じられた。
「だから、ひらきが付喪神になるために、やくもんおにいちゃん、ひらきをおうちに届けて?」
ひらきはにこやかに笑うと、俺の身体にタックルしてきた。そしてそのまま抱きついて離れなくなってしまった。ひらきをなだめる意味を込めて、俺は頭を撫でた。
えっとだ……。今の話を推測などと交えてまとめるとだな。
ひらきはあの事故現場にあった傘だ。おそらく、事故にあったどさくさにまぎれて、持ち主の手から離れてしまったのだろう。その日からひらきは、自分の姿が見える人間に「傘を自宅に届けてくれ」とせがんでいたに違いない。そして、奇しくもひらきは長年大事に扱われていて、付喪神になる要件を満たしつつあった。が、持ち主と別れた今、持ち主のところへ戻らないと付喪神になれないらしい。そこで菩薩様の慈悲で一時的に付喪神の力をひらきに授け、自身の力で動けるようになった。だが、その力はどうやら有限だったため、たまたまひらきの頭を撫でた俺に取り憑き、協力を(無理矢理)仰いできた、というのが今までの流れだろう。
ふと、姿見に自分の姿が映っているのが目に飛び込んできた。
あ、なるほど。こうなっているのか。部屋のカーテンを閉めておいて良かった。こんな光景を他人に見られたら大騒動になるだろう。
何故なら鏡に映っているのは、黄色い傘が勝手に俺の身体にくっついて、俺がその傘の頭をしきりに撫でているという不可思議極まりない光景だった。
【手掛かり・一】
翌朝、この曜日唯一受けている講義が休校になったと、陽一から連絡が入った。俺は陽一を軽く労うと、ひらきの自宅を特定する手立てとして、まず事故の詳細を調べる事にした。そうすれば、ひらきの持ち主の名前が分かるはずだからだ。
三月で大学近くの住所の交通事故、ネットのニュース記事を片っ端から調べ上げること一時間弱。大手新聞社のウェブニュースの過去ログに記載されていた。
『三月×日、都内で親子連れが軽トラックにはねられる痛ましい事故が起きた。
警視庁の調べによると、×日午後四時頃ごろ、千代田区M町の細い路地で、雨の中、傘を差していた親子を、飲酒運転をしていたトラック運転手、久留間紀夫容疑者(五十二)がトラックではねたとして久留間容疑者本人が通報、飲酒運転の現行犯でそのまま逮捕された。
事故当時、大雨のため視界が悪く、信号機もない上に久留間容疑者が酒に酔って親子の存在に気付くのが遅れたのが原因と見られる。現場にはブレーキ痕があり、久留間容疑者がブレーキをかけてから、車体は一メートル弱スリップしたと見られている。
親子は意識不明の重体で、近くのJ大付属病院に搬送されたという。親子は一緒に母親の仕事場から一緒に帰宅中に事故にあったと見られる』
意識不明の重体……。しかし、あそこに花束があったと言うことは、のちに事故にあった親子は死亡したということなのだろうか? 残念ながら、事故にあった親子の名前は記載されていなった。他のサイトも巡ったが、それほど重く扱っていなかったのか、名前が何処も記載がなかった。妙な話だが、事件性が絡んでいると氏名を公開しないとか何とか聞いたことあるけど、よく分からない。そして、今まで新たな追加情報もない。事故の内容は凄惨だが、あまり大きく取り立たされていないなんて、結局他人の不幸は誰もが知らん振りなのだ。
しかしこうなると、親子の名前を特定できる手立てが一気に失われてしまう。それに、都市伝説の設定とズレがあるのが気になった。都市伝説では、女の子一人がはねられたはず。死んだのも女の子と陽一は言っていた。しかし、実際は親子ともどもはねられている。これは何か意味あることなのだろうか?
そうだ、ひらきは事故にあった子供の傘だ。ならば、ひらき自身に持ち主の事を聞けばいい。何で最初からそうしなかったんだろう、俺は?
「なぁ、ひらき。お前、の持ち主の名前、分かるよな?」
ひらきは、目だけ天井を向けて、うーと唸る。
「うーんとね、せらまみちゃん!」
「それが、ひらきの持ち主なんだな?」
「うん、いちばん大事にしてくれるの」
これは有力情報だ。あとは、『せらまみ』という女の子が搬送されたかどうか、J大付属大学に確認すればいい。ただ恐らく、ひらきの持ち主は死んでいるだろうから、再会できるとは思えないが。
「ひらき、思ったより簡単に家に帰れそうだぞ」
「わーい、やくもんおにいちゃん、ありがとう!」
ぱたぱたと手をばたつかせながら、俺の周りを走り回るひらき。
俺には幼女が走り回っているように見えるけど、他人から見たら傘がひとりでに俺の回りを掛けているように見えるのだろうな……。
「とにかく、病院へ行ってみよう。何か分かるだろうから」
「うん!」
こうして、俺たちは手掛かりを求めて動き出した。俺はひらきの左手を取ると、早速J大付属病院へ向かったのだ。
「確かに三月頃、瀬良真美さんは搬送されましたが、先月退院されましたよ? ご存じなかったのですか?」
ここはJ大付属病院の受付。俺は瀬良真美の友人だと偽り、彼女の病室を問い合わせたところ、そんな返答がきたのだ。思わず自分の耳を疑った。
「え、本当ですか?」
「本当ですとも。あなた、本当に瀬良さんのご友人ですか?」
事務員からじろりと白い目で俺は睨まれてしまう。
「あはは……。本人から何も聞かされてなかったんで」
早くもぼろが出そうだったので早々に退散する事にした。
「どうしたの?」
病院のロビーを抜けて正面入り口を出たところで、ひらきが心配そうに俺の顔を下から覗いてくる。
「真美ちゃん、もうここにはいない。退院したんだって」
「元気になったの?」
「そうだ」
「よかったー!」
まったく、何て無邪気に笑うんだろう。こっちは手がかりが全くなってしまって泣きたいぐらいだ。
てか、何やってるんだろう、俺。ひらきからの憑依状態を解きたいがために、何か余計な事をしている気がしてならないのだが……。
それよりも真美ちゃんが退院したという事実、これは安堵すると同時に別の疑問が浮かび上がる。ひらきの持ち主が生きているということだ。ひらきの姿はてっきり、死んだ子供の姿だと思った。しかし、持ち主の真美ちゃんは生きている。どうなってるんだ?
「ねね、やくもんおにいちゃん」
「ちょっと待って、今色々考えてるんだ」
ああ、思考の回路が火が噴きそうだ。
俺は病院の外にあるバス停のベンチに腰掛け、今まで起きた事を整理してみる。
死んだと思った人間が生きていて、ひらきはその人物が持ち主だと言う。ひらきは持ち主の姿を真似ているらしいから、持ち主は子供だと俺は睨んでいる。もしや、事故で死んだのは母親のほうなのか? なんだか、ややこしいなぁ。
「やくもんおにいちゃん」
シャツの裾をひっぱるひらき。
「おねがいがあるの」
すがるような声をして俺を見詰めるひらき。
「おてがみかきたい」
何故このタイミングで言うんだ、ひらき。
「……大体お前、書けるの?」
傘が手紙書くなんて、聞いたことなんぞ?
「おにいちゃんに取り憑いていれば、だいじょうぶ」
「超能力でペンを浮かせて書くのか?」
「そうだよ?」
……気が乗らない。俺が一方的に疲れるだけじゃないか。
「だめ? まみちゃんにおてがみかきたいの」
このひらきの言葉に思わず感心してしまった。持ち主へ手紙を書きたいだなんて、殊勝な傘もあったもんだ。そんな傘の付喪神が書く手紙とやらに少し興味が湧いてきたので、俺はその提案を飲むことにした。
「……分かった、一旦俺の家に戻ろう。そしたら準備するから」
「うん!」
ひらきが喜びからか、くるっとその場でターンをしてみせる。
ひらきは何が面白いのか、くるくるとその場を両手を広げて回り続けている。時折、レインコートの裾についたタグをひらひらさせながら。……元気だなぁ。これくらいの子供って、本当疲れを知らないようだ。そういえば、ひらきって通学用の傘だったな。子供の格好していると、どうもその辺りを失念してしまう。通学用の傘って、よく名前やクラスや連絡先を書いておくタグがあったよな。
あれ? タグ? ……と、いうことは。
「ひらき、ごめん!」
くるくるまわるひらきを捕まえる。
「えっ? うー! やー!」
暴れるひらきを抱きかかえ、タグを手に取ろうとする。
「ほら、暴れないでくれ、ちょっとこのタグを……」
「やだー、はなしてー! おにいちゃんのえっちー!」
「馬鹿、違うって! 変な事叫ぶな!」
ひらきの発言に、急に罪悪感が鎌をもたげる。どうやら、タグを手にとって目の前に引き寄せようとしたため、スカートをめくられると勘違いしたようだ。顔を赤らめながら必死にレインコートの裾を押さえていた。
確かに、ひらきが着ているレインコートの下は赤と黒のチェック柄のスカートで、暴れるひらきが足をじたばたさせるので、幼児にお馴染みと思われるウサギ柄がプリントされているパンツが否応なしに見えてしまう。俺は悪くない。これは事故だ。用があるのはひらきのパンツではなく、レインコートのタグなのだから。それに、俺にはその手の趣味は持ち合わせていない。断じて。
苦労してひらきを俺の膝の上に座らせると、タグを右手で目の前に引き寄せた。手に取った肝心のタグは雨で何度か濡れたのかふやけていて、名前はおろか住所さえも解読不能であった。骨折り損のくたびれ儲け。そう簡単に事が運ぶわけではないらしい。
「何だよ、読めないじゃないか」
俺はひらきを地面に降ろす。明らかに不機嫌で膨れっ面になるひらきだった。
「もう、およめにいけない……」
「お前は付喪神見習いなんだから関係ないだろう……」
てか、よくそんな言葉知ってるな、子供の姿なのに。
「やくもんおにいちゃん、約束だよ」
「何が?」
「ひらきをこのさきずっと取り憑かせるって」
「はぁ?」
「けっこんして!」
「勘弁してくれ!」
思わず目を剥いて驚いた。どういう経緯を辿ればそうなるんだよ!
「だって、やくもんおにいちゃん、ひらきのぱんつ、みたもん……」
恥ずかしそうに上目遣いでむくれるひらき。うーん、すっかりご機嫌斜めになってしまったようだ。……そんなことより、パンツ見ただけで俺に憑依確定って、迷惑にもほどがある。だからあれは、故意じゃないんだって!
「ひらき、それは誤解している。俺はそのタグを見ようとしただけだ。名前や住所が書かれていると思ったからな。大体、俺がそんなことする人間に見えるか?」
ひらきの顔を真剣に見詰める俺。パンツを見たかどうかは俺の口からは言わずに、相手にこちらを無理矢理信じ込ませるためだ。
ひらきは不承不承といった様子で黙って首を横に振った。どうやら分かってくれたようだ。
「ところでおにいちゃん」
「今度は何だよ」
ひらきは俺の左側に向かって指差す。
「なんでみんなおにいちゃんをみているの?」
はっとして左を向く。
そこには、四、五人のご老人たちが、俺の顔を哀れみに満ちた顔をしながらこそこそと小声で話し合っていた。
「傘と話しておるぞ……?」
「友達がいないのかねぇ……?」
「可哀想にのぅ、なんまいだぶなんまいだぶ……」
俺は咳払いを一つして何事もなかったように装うが、老人たちの憐憫の視線は絶え間なく俺に注がれているのであった。俺にはひらきの姿は見えるが、ご老人たちには、俺が黄色い子供用の傘に向かってお話している頭の弱い男に見えたのだろうから。
【大学】
夕方の四時過ぎ、自宅に帰ってきた。アパートの二階の一番奥の部屋が俺の部屋だ。中に入ると、レポート作成のために集めた資料やら積み重ねた本が俺たちを出迎えてくれる。改めてこう眺めると、祖父の部屋もこんな感じだったなと思い返す。
「おにいちゃん、ひらき、おもったんだけどね」
「ん? 何か手掛かりになるようなことを思い出したか?」
「おにいちゃん、おたかづけしたほうがいいよ?」
ひらきの言葉が、俺の心に鋭く突き刺さる。
「あ、ああ。あとでちゃんとするからな」
年下の女の子に言われると、結構凹むな……。
「ねぇ、おてがみかきたい。いいでしょ?」
ひらきは手紙を書きたいとせがんできた。便箋代わりのレポート用紙と鉛筆、そして消しゴムを用意してやる。すると、ひらきはマジシャンのように机に両手をかざした。
ゆっくりと鉛筆が便箋の上を動き出す様を見て、俺は思わず感嘆の声を上げてしまった。
「凄いな、鉛筆が生きているみたいだ。な、ひらき?」
「……っ!」
ひらきは集中しているのか、俺の問いに相槌すら打たない。まだ力の使い方が掴めていないのか、筆の進むスピードは非常にゆっくりだ。
次第に俺の身体の芯から何かが抜き取られる感覚を覚える。両肩に圧し掛かる倦怠感に耐え切れず、俺は堪らず寝床に横たわる。そのうち、まぶたが重くなって……。
「おにいちゃん、やくもんおにいちゃん!」
ぺちぺち、と頬の辺りを叩く音が聞こえた。
「ぁん……、ふわぁあ……」
目を開けると、ひらきが俺を起こそうと懸命に顔を叩いていた。俺は起き上がると、大きくその場で背を伸ばす。なんだ、寝てしまったのか。カーテンを開けると、外がもう明るかった。携帯電話の時計機能は昼の十一時を示している。一日跨いでしまった……。十八時間ぐらい寝てたかもしれない。これでは午前の講義はもう間に合わない。
「おてがみ、かけた」
「お、どれどれ? って、これだけかよ……」
ひらきはレポート用紙に二枚したためていた。一晩でたった二枚だけとは。こちらは力を供給しすぎてほぼ半日眠りこけていたのに。この超能力は相当燃費が悪いとみえる。どんな内容なのか、少し読んでみようか、と思った。だが、すぐにそれを止める。
俺はあくまでもひらきを家に届ける役目だけを全うすればいい。好奇心、猫を殺す。ひらきに取り憑かれたのも、よくよく考えていればあの事故現場に足を運ばなければいいだけのことだった。あまり他人の事情に首突っ込むべきではないだろう。ただし、もし突っ込むとしたら、そのときは目の前で道理に反することが行われた時だけだ。
「よし、封筒に入れよう」
「うん!」
俺はひらきの書いた手紙を中身を見ないように折込むと、適当な茶封筒の中に入れた。
「だけど、ひらき。今日は届けてやれない。午後の授業はゼミなんだ。どうしても出席しないといけない」
午後は日本民俗学の特別ゼミだ。そろそろ期末試験なので、出席しておかないと単位の取得が危うい。ひらきの手伝い(という名目の除霊)も大事だが、俺の将来に関わることを放っておいてまで付き合うことは出来ない。それにまだ、ひらきの自宅の住所さえ特定できていない。というわけで、優先順位は自ずとはっきりするわけだ。
「ひらき、悪いがここでお留守番してくれないか? 終わったらすぐに戻ってくるから」
「えー、やだー!」
ひらきは俺の胸に飛び込みそのまましがみつく。一向に離れる素振りをみせない。
「ひとりはいや。もうひとりでまつのは、さみしいの」
潤んだ目で俺の顔を覗くひらき。
その目を見て、俺は気が付いた。
(こいつ、そういえば事故現場でずっと独りで協力者を待ち侘びてたんだよな……)
降りしきる雨の中、都市伝説になるくらいに道行く人へ「傘を届けて」と頼み続けてきたひらき。しかし、今まで誰一人としてその声に応じる事はなかった。それは、非常に悔しくて心細い事だったに違いない。
俺も『モノ探しの天才』と賞賛される一方で、周囲から腫れ物のように扱われていた高校までの生活を思い出す。奇異や忌み嫌われる目付きで周囲から孤立する寂しさを、俺は人一倍知っている。そして、手を差し伸べられる事の嬉しさも、俺が誰よりも知っている。
への字の口で今にも泣き出しそうなひらきの頭を撫でる。
見捨てておくわけにはいかなかった。
「分かったよ。んじゃ、一緒に学校行くか?」
すると、ひらきの顔は途端に輝きを取り戻す。
「うん、いくー! がっこういくー!」
嬉しくてその場をぴょんぴょん飛び跳ねるひらき。
「でも、そのままじゃ駄目だ。俺が小学生の通学用の傘を持って歩くのはとても不自然な事なんだ」
「そうなの?」
小首を傾げるひらき。
「そうなんだよ」
それに俺は大きく頷きながら答えた。
「だから、ひらき、学校に居る間は袋の中に包んでおく」
「いやー!」
途端に不満を露わにするひらき。その場でどすどすと飛び跳ねて精一杯抗議をしてきた。
抗議自体は予想はしていたが、ここまで激しいものだとは思っていなかった。
「そう言われてもなぁ……。黄色い傘って目立つんだよ」
「でも、いきぐるしいもん」
息苦しい。その言葉で、俺はひらきが袋に包まって酸欠になっている様子を想像してしまった。
袋詰めにされて呼吸困難に陥る幼女……。
他人は認識できないが、俺はバッチリ認識できてしまうので、俺の隣でひらきが苦悶の表情を浮かべている姿を見ながら授業を受けなくてはならない。そんなこと、とても精神衛生上好ましくない。
「分かった分かった。袋は掛けない」
小学生用の傘を剥き出しで持ち歩くのは恥ずかしいが、ひらきのためだ。我慢しよう。
「ほんとう?」
「本当だ。ただし、俺が勉強しているときは話しかけたり動いちゃ駄目だぞ?」
「えへへー、わかってるー」
にやにやと笑いながら俺を見上げるひらきだった。
やれやれ、この調子だと俺の忠告は聞き入れているか非常に怪しい。今日は隣が賑やかな半日になりそうだな。
「と、いうわけだ。陽一。ここまで話して信じないって言うのはなしだぞ?」
無事に(といっても俺の不安が的中し、こっそりひらきは教室内をうろついたり、俺の脇腹をくすぐるなどの悪戯ばかりしてきたが一切めげずに)、ゼミを受講し終え、陽一と合流した俺は、地下にある学生食堂の隅の席で遅めの昼食を摂っていた。陽一は俺がある用事を頼むためにここまで呼び出した。だが、陽一はひらき(陽一には黄色い通学用の傘しか見えないのだろうが)を見るや否や、悲鳴を上げて顔を青ざめたので、俺は今までの経緯をこうして順を追って話していたのだ。
「あ、いや、先生。ナチュラルに『実は俺、憑依されたんだ』とか言われても……」
陽一は未だに困惑した表情で、俺とひらきを交互に見詰める。
「その傘、血痕らしきものが付いてるし、気味悪いぜ」
陽一に指摘されて、ひらきのレインコートの裾の染みを見る。なるほど、言われてみれば被害者の血痕にも見える。見た目が幼女なだけに、無邪気な可愛さに目が行ってそういう側面を見落としがちで改めて事故現場の遺留品だということを再認識させられた。
「仕方がないだろう、交通事故の現場に落ちていた傘なんだから」
「また冷静に言いますね、さすが八雲先生……」
俺は自販機で購入したアイスコーヒーを飲み干し、そのまま食堂の日替わりランチAセット(本日はハンバーグランチ)に手を付け始めた。
「俺の祖父さんの家なんか、血塗れの西洋人形や聖人の遺骨なんていうまがまがしくも胡散臭い代物がたくさん転がってたからな。これくらいは何とも思わないが」
「いや、先生の育った環境が異質なだけで、一般人にしたら充分ホラーだっつーの」
俺の話にすっかり引き気味の陽一は、恐怖心を克服するためか食堂の味噌ラーメンを普段より豪快にすする。
「あつい!」
ひらきが突然声を上げた。ラーメンをすすったしぶきがひらきに掛かったらしい。ひらきが顔をしかめて俺の背中の影に隠れる。
「おい、気をつけろよ。ひらきが火傷したら可哀想だろ?」
俺はひらきの顔を、街頭で配られているポケットティッシュで拭いてやった。
「大丈夫か、ひらき?」
「うん、やくもんおにいちゃんありがとう」
口ではそういうものの、ラーメンのしぶきを警戒してか、ひらきは俺の背中に隠れてしまった。
「ほら、陽一のせいでひらきがすっかり怯えちまった」
俺がジト目で陽一に無言のプレッシャーを与える。対して、陽一は眉をひそめて俺とひらきを眺めていた。
「いや、傘が勝手に動くわ、先生は傘とお話してるわ、挙句、先生がその傘の保護者みたいな口振りだわで、俺は何処から突っ込んでいいのか……」
ああ、そうだった。陽一はひらきの人間の姿が見えていないんだった。どうもひらきの姿を見ていると、傘が本体だってことを忘れさせるくらい情緒豊かなんだよな。でも、知能や言語の発育はその姿に左右されるようだ。だから余計、俺の中の父性がどんどん増している気がして……。
「先生、独白聞こえてる……」
「ちょっ、ええ?」
陽一の指摘に思わず声が裏返る。
「らしくないですなー、冷え切った態度と急速に沸騰する激情がウリの先生なのに」
「そんな冷静と情熱の間をウリにした覚えすらねぇよ」
「まぁまぁ、例えですって」
陽一はラーメンの麺をレンゲの上に器用に小さくまとめ、しぶきが飛び跳ねないように食べ出した。意外にも、こちらに気を遣っているようだ。
「つまり、そんな先生がやきもきしてしまうほど、その取り憑いている女の子にご執心になっているってことだわな」
「待て、俺はただ、ひらきの願望を叶えようと動いているだけだ」
あと、このまま憑依状態が続くのも今後の生活に支障をきたすだろうし。
しかし、陽一は分かってないとでも言いたげな含み笑いをする。
「そういうのを『ご執心』と言うんだ。別に小さい女の子が好きだからって、こっちは別に先生を軽蔑なんかしないから安心して下さいな」
「まるでそれじゃ、俺がロリコンとでも言いたげだな」
陽一の鼻につく口調に対して、俺は不満を隠すことなくぶつける。陽一は慣れっこで、俺の抗議に聞く耳を持たないで話し続ける。
「気付かないうちに、情が湧いたってこともあるでしょうに。少なくとも、先生の父性をくすぐるような言動をその傘の幼女はしてるはずだ。さぞかし可愛らしいんだろうねぇ。……ま、いくら可愛くても、俺はあの青白い幼女はちょっと勘弁ですけど! さすがに生気を感じられないのはパスだわー」
ずずず、とどんぶりから直にスープを飲む陽一。レンゲ使えよ、レンゲを。
「本人目の前にしてそんな事言うなよ。ひらきがへそ曲げるだろ」
俺はランチのハンバーグをナイフで切り分ける。ひらきの方を横目で見てみる。なにやら陽一に向かって手をかざしていた。
「ほら、やっぱりパパの顔になってますぜ」
どんぶりから顔を上げて苦笑する陽一の額には、何故かなるとが引っ付いていた。両肩の妙な倦怠感から察するに、ひらきが力を使って悪戯したのだろう。なるとは瞬間接着剤で貼り付いているかのように、全く額から剥がれる気配がない。ひらきは俺の顔を見上げて、ご満悦の笑顔を振りまいている。一方、陽一本人は気が付いていないようで、黙々と麺をすすっている。
……まずい。これ、凄い笑えるぞ? 額になるとついた男が一心不乱にラーメンすすってるこの光景、素晴らしく馬鹿っぽい。ひらきはなるとの渦が気になるのか、指先をくるくるなるとの渦に沿うように回していた。
陽一のラーメンを食べる手が急に止まる。おお、額のなるとにようやく気がついたか?
「あれ? なるとが一枚少ないじゃねぇか。食堂のおばちゃん、常連の俺にはなると三枚だっていつも言ってるっつーの」
それ、お前の額にあるから! 何で気が付かないんだ、この馬鹿!
俺が採るべき選択肢は二つ。ひとつは陽一になるとがくっついている事を素直に教える。しかし、それだと、ひらきの悪戯の意味がなくなる。陽一はひらきに対して否定的な態度を取った。きっと、ひらきは癪に障ったのかもしれない。俺もちょっと言いすぎだと心の中で首を傾げていた。と、いうことは、事実を陽一に教えるとひらきの苛立ちが解消されない事になる。これがきっかけで変に屈折し、付喪神になれなかったら可哀想だし、ひらきが泣きじゃくる姿は見たくない。思えば額になるとだなんて、子供の悪戯そのものだし、生死に関わる問題ではない。大体、陽一が自分で招いた事態であるから、反省を促すためにも本人が気付かないことには何の意味がないのかもしれない。
ということはもう一つの選択肢を採ることになる。
『我慢』という名の選択を。
俺は口の中のハンバーグを無理矢理飲み込むと、給水機で冷水一杯を一気に飲み干す。こうでもしないと落ち着いていられない。そしてふと思い知った。
「なんだよ、陽一の言うこともまんざらじゃないな」
自分の心の中にある『ひらきを無碍に出来ない』という保護欲らしいものを、俺はこのとき気が付いたのだった。陽一に気付かれないように苦笑いすると、俺はそのまま席に戻った。
今日、陽一にこの話を持ちかけたのには意味がある。
陽一は心霊スポットの下調べといい、妙に深いところまで取材する節があるらしい。以前、「先生が喜んでもらうような資料を持ってきたのに、無駄になっちまった!」と憤慨していたのを覚えている。資料はレポート用紙ざっと十枚前後の厚さはあったはずだ。
要は、今回もひらきの事故に関して何か調べているだろうと踏んだのだ。手掛かりがなくなってしまった今、まさに藁をも掴む思いって奴だ。
「陽一、四ヶ月前のあの事故、何か下調べしてたのか?」
俺の問いに、陽一の目が鋭く光る。額になるとをつけたまま。
「当たり前っしょ! 将来の夢は新聞記者のこの俺の取材能力をなめないでくださいよ、先生!」
「……そこまで自信があるのか」
「ええ、ガチで」
いそいそと鞄から大量のポストイットがはみ出たノートを取り出す陽一。ページをバラバラとめくっていき、とある部分で指を差した。
「これこれ! これ見てくれ」
自信ありげにノートを手渡された俺は、その内容に目を通す事にした。
「ん? レインコートの少女は雨の日にしか現れない? あとは……、事故で亡くなったのは、瀬良友里ちゃん(七)。母親の真美さん(三〇)は奇跡的に一命を取り留めた、ふむ」
あれ? ひらきが持ち主だと言ってた瀬良真美ってお母さん? そもそも、ひらきは低学年の小学生がよく使う通学用の黄色い傘だ。まさか、三十路で子持ちの母親が、子供用の黄色い傘を愛用しているとは信じがたい。恐らく、ひらきは娘と母親の名前を取り違えているのだろう。ひらきのたどたどしい言動からみて、充分ありえることだ。
他にも色々と調べ上げられたレポートにいくつか目を通してみたが、正直にいうと確信をつくような事実が書かれていなかった。これには内心がっくりと肩を落してしまった。
「何だよ、大した事ないな……」
失望の意をたっぷり込めて、俺は陽一にノートを付き返す。
「え、ちょ、そんな……!」
狼狽しきる陽一。相当自信があったのに、根本からポッキリと折られてしまったのだろう。
「俺が今すぐ知りたいのは、ひらきの持ち主の住んでた住所だ。持ち主、――恐らく亡くなった友里ちゃんだと思うが、その住所へ届けないと意味がないんだぞ?」
ずずず……、と陽一はラーメンの最後の汁の一滴まで飲み干すと、苦虫を噛み潰したような顔で反論してくる。
「無茶振りもほどがありやすって、先生! 流石にプライベート情報は素人じゃ危なくて手を付けられねーの!」
それもそうか……。所詮、素人の真似事ではここまでが限界なのかもしれない。
「そうか、仕方がない。時間取らせて悪かった。」
俺はひらきの手を取ると、席を立ち出口へと向かおうとした。
「あと、ひらきはお前が協力的じゃないから、近々罰を与えるってさ。じゃあな」
「ま、待ってくださいよ、先生!」
よしよし、俺の嘘に見事に釣れた。顔面の血の気が一気に引いて青ざめた陽一がひらきの手を握る。実際は、傘の軸のどこかを掴んだだけかもしれないが。
「な、なぁ、その傘、タグに校章付いてね?」
「校章?」
「そそ! 通学用の傘ならさ、その学校の校章が入っててもおかしくないぜ! それが分かれば、亡くなった女の子の学校が特定が出来るっしょ。そこから住所が割れるんじゃないかと。どうっすか、センセ! いいアイデアだと思うぜ!」
なるほど、それは良いアイデアかもしれない。だけど、一つ問題がある。
「……陽一、小学校の校章見て、どこの学校かなんて区別できるのかよ」
都内だけでも両手両足の指じゃ足りないほどの小学校があるはずだ。その中から区別するなんて言うのは素人じゃ無理だろう。
だが、陽一はいつものウザい笑顔で自信たっぷりにこう言うのだった。
「俺を誰だと思ってるんだっ? プロが出来て俺に出来ないはずがないし!」
出た、根拠のない自信!
しかし、今はその根拠のない自信にすら頼るしかないほど行き詰っている事態なのは、俺自身が誰よりも分かっている。
「……ひらき、ちょっとここに来い」
俺はひらきを抱きかかえると、机の上の食器を脇にどかして開きを俺と相向かいの状態で座らせる。
「レインコートのタグを後ろの奴が調べたいって言うんだ、いいよな?」
ひらきは後ろを振り向き、陽一の顔を数秒見詰める。ぶっ、と噴き出した。無理もない。陽一の額にはしっかりとなるとが固定されたまま付着しているのだから。
「うん、いいよ、ぷぷぷぷ……」
頷きながら笑いを堪えるひらきだった。引っ付けた本人がここまで大ウケするのもどうかと思うけどな……。
「ひらきから許可が出た」
「おお、では早速スケッチさせていただきやす!」
と、ここでふっと湧いた疑問を口に出す。
「携帯のカメラで撮影すればいいだろ?」
「はぁー、違うんですよ、先生。こういうのは、情報を身体で覚える為にも両手を動かすほうがいいんですって」
「それって、なんか効率悪くないか? プリントアウトして持ち歩けば良いだけだろ?」
「何とでも言って下させぇ。これは俺のこだわりだっつーの!」
手馴れた手つきで素早くスケッチしだす陽一。意外と絵心があるようだ。……コイツ、ウザいけどカメラや絵心だったり、何かとフットワーク軽いし、実はとても有能な奴なんじゃないだろうか? 何にでも首突っ込むあたり、芸能記者なんか向いてそうだ。
「おし、終わったぜ! んじゃ、また明日のこの時間に結果をご報告しやす、センセ」
「え、たった一日でいいのか?」
俺の驚く顔に陽一は珍しく渋い顔をしてくる。
「しっかりしてくださいよ、先生。小学校は私立でもない限り学区ってーのがあるんですぜ? この周辺の学区を片っ端からリストアップすれば、今の時代はネットでも確認できるもんだ。それくらいは常識だぜ?」
「……悪かったな。でも私立だったらどうする気だ?」
なじられた気分がしてしまい、俺は思わず語感が強くなってしまう。
「最悪私立だった場合、俺には雑誌の記者やっている先輩のパイプがあるんだ。そこを頼れば二十四時間あれば充分っす」
陽一は余裕たっぷりにそう答えた。やっぱりコイツ、結構有能なのかもしれない。
「お前、見かけによらず顔が広いんだな」
「見かけ、は余分ですってぇ、先生……。んじゃ、早速調査してきます。祟られないようにしっかり調べてくるぜ!」
「ああ、頼む」
そう言って颯爽と食堂を小走りで出て行く陽一。なにやら使命感たっぷりの充実した表情だった。今の陽一の頭の中には、クラシックで有名な『火星(作曲ホルスト)』の勇ましい旋律が流れているに違いない。
ふと、陽一が出て行った後に俺は気が付いた。
「結局、額のなるとは指摘すべきだったか?」
ひらきは俺の側できゃっきゃ声を出して笑い転げていた。
【手掛かり・二】
翌日、俺は陽一から「バッチリ情報掴んできた!」と携帯電話に連絡が入ったので、すぐさま学生食堂へ急行することにした。直後になるとの件のクレームが始まったが、問答無用で俺は通話を切った。ひらきも一緒に行くというので同行させる事にした。授業は自主休講ということにして、駅から直行する俺とひらき。近道をするべく、細い裏路地を抜けていく。
「そこの若人、我の話を少し聞かぬか?」
突然、誰も居ない裏路地でそんな声が聞こえた。やけに響く良い低音だ。辺りを見回す。人の姿は俺を除けば誰も居ない。
「若人、こっちだ。足元だ」
言われた通りに足元を見る。そこには一匹の黒猫が俺の顔をガン見していた。
「いやいやいや、猫が喋るとか、流石にないよな」
「傘が喋って、猫が喋らぬ道理なし!」
いきなり足元の黒猫が渋く威厳のある低音で言葉を発したのだ。
「な、なんだぁ?」
身体こそ飛び跳ねなかったが、ひらきに出会ったときよりも驚いた。まさか猫が俺に話しかけてくるとは。猫が喋る姿って、ちっとも可愛げがない。むしろ気味が悪い。
「ああ、驚かせてすまぬ。我は菩薩。今回、若人が関わっている件で取り急ぎ伝える事柄があってだな。猫に乗り移って相対すことを許せよ」
菩薩と名乗った猫は、金色の瞳を見開きながら重苦しくそう語った。
「は、はぁ、別に問題ないですけど……」
てか、菩薩様って本当に居たんだな……。しかし、よりによって……。
「何で、黒猫の身体なんですか? もっと他の身体が……」
つい、疑問に思ったことを口に出してしまう。菩薩様は大きな目を細めると、おもむろに後ろ足二本で(!)立ち上がってこう叫んだ。
「馬鹿者、ぶち猫だ!」
よく見ると、お腹だけが白い毛で覆われている。何て紛らわしい……。それより、すくっと二本足で直立不動の猫って尚更気味が悪いものがある。
「まぁよい。若人よ、今回の件、もし成功させたら若人の願いを一つ叶えてやってもよいぞ?」
「はい?」
「だから、願いを叶えるといっておるのだ」
菩薩様は前足を腰元に当てふんぞり返る。いかにも偉そうな態度である。しかし唐突だなぁ……。
「願いかぁ。俺、あんまり欲がないんだよな」
それを聞いた菩薩様は驚いたのか、ほう、と声を漏らす。
「若人はいわば巻き込まれた形になるのだ。にも拘らず、きちんとひらきに協力してくれている。我々仏たちは若人を高く評価しておる。もし成功すれば、高い徳をひらきとともに積む事が出来よう。その徳の一部で若人の願いを叶えてやれる事が可能だ。なんなら、若人の持つ『その能力』も消し去る事も出来ようぞ」
「なるほど、成功報酬って奴か」
俺は即答した。
「いや、いらないや」
「そうか、やはり人間は欲に溺れやすい存在だな、って、なんだと?」
菩薩様の顎が真下に落ちたまま戻らない。
「いらないと申すのか?」
「ああ、いらない。この能力を失くすっていうのもナシで。確かに昔は忌み嫌ってた時期もあるけど、今じゃ特に気にならない。むしろ必要だ」
ひらきの顔を見て呟く。
「この能力がなくなったら、俺の隣にいるひらきを助けられなくなるからな。困っている奴を見捨てるような真似は出来ない」
俺と菩薩様のやり取りに入っていけないひらきの頭を撫でる。するとひらきは俺の足元に甘えるようにすがり付いてきた。
ガキの頃はこの能力のお陰で、周りが気味悪がって近寄ってこなかった。だから、俺が困ったときや助けてほしいとき、誰にもすがりつく事が出来なかった。でも今は、この能力のお陰で俺は(人ではないが)困っている奴を安心させる事が出来るとわかった。手を差し伸べてもらえない寂しさを、俺は知っているから。だから現状維持のままで良い。
「大体、悟りを開いた菩薩様自らが人を誘惑したら駄目だろう?」
「すまないな、我は若人を試したのだ。煩悩に塗れた人間にひらきを預けては大変だからな。よくぞ誘惑に打ち勝った。おぬしこそ、ひらきの協力者に相応しい人物である!」
自信たっぷりにふんぞり返る菩薩様だが、猫の身体を借りているので後ろ足がプルプルし始めていた。バランスを取るのがやっとなんだろう。ただ、顔は満面の笑みだ。完璧なアルカイックスマイルだ。仏のドヤ顔だ。
「……猫の面でドヤ顔するな」
「お望みならばポーズも決めようぞ!」
「見たい! あ、いや、勘弁してください! やっぱ痛々しすぎる!」
この菩薩様、楽しすぎるよ! てか止めてあげてよ! それ以上その猫の身体を酷使しないであげて!
「ふむ、そうか。折角の決めポーズを披露出来ぬのは残念だが、そろそろ我は戻るとしよう」
菩薩様はようやく四つ足に戻ると、すたすたとビルの谷間へ進んでいく。
「さらばだ、若人。また、会おう」
「ちょっと待てよ、一つだけ聞きたいんだ」
菩薩猫はぴたっと立ち止まり、顔だけこちらを向ける。
「ちょっと気になっていたんだが、ひらきは俺のような人間に憑依できなかったらどうなっていたんだ?」
「それを聞いたところで意味はあるのか?」
意味はないだろう? と言いたげな表情の菩薩猫。
「その問いに答えたところで何の解決にもならぬ。それに我は、ひらきの救いの声に答えたまで。ちょうど奇跡的に条件も揃っておったからな。諦めよ」
……俺は黙って菩薩猫を睨み返す。
「言っておくがな、若人。表情で取り繕ったって無駄だぞ。我は人間の心など容易く読み取れる。若人はひらきを守りたいと想う反面、手掛かりが少ないこの状況に焦燥しておる。それが後悔の想いにも繋がっている事もまるっきりお見通しだぞ」
……思わず下唇を噛む。本当に丸分かりだな。
「全部分かってて言わなかったのか。菩薩様って結構、意地悪なんだな」
ああ、完敗だ。もとより、神仏の類に口喧嘩で勝てるわけもないか。
「今は出来る事から取り掛かればよい。若人がひらきを大切に想っていれば、おのずと道は開けるであろう」
言うことは言ったとばかりに、そのままするするとビルの隙間に消えていく菩薩猫。路地裏は寂しい風だけが通り抜けていった。
「ひらき、菩薩様って凄いんだな」
「そうだよー!」
俺の問いに、笑顔で答えるひらき。ああ、お前はいつでも陽気に笑えるんだな。
空を見上げる。雲が刃物で断ち切られたかのように一直線に裂け、隙間からきれいな紺碧の夏の空が俺の目に飛び込んでくる。少々愉快な菩薩様だったけど、俺の迷いを吹っ切らせてくれた辺り、間違いなくあれは本物の菩薩様だった。
予定の時間を少々過ぎてしまった。
俺が学生食堂に到着すると、陽一は既に日替わりB定食(本日は鮭のムニエル)を既に完食してしまっていた。
「遅っせーよ! 飯食い終わるまで待たされるってどんだけっ?」
グラスの中の氷をガリガリ噛み砕きながら俺に文句を言う陽一。
「悪い。今度、学食奢るから許せ」
「マジで? 先生、ゴチになりやす!」
天井に向かって右拳を高々と突き上げ、歓喜の雄叫びを上げる陽一。学食一つで機嫌が直る陽一の安っぽさと単純さに感謝しよう。俺は陽一と相向かいに座ると、ひらきを俺の膝の上に座らせた。
「でだ、調査結果とやらは?」
「そんな急かさないでくださいよ、ちゃんと用意してあるっつーの」
苦笑いをすると、陽一は鞄から一枚のレポート用紙を手渡す。
「住所分かりましたぜ、持ち主の女の子と同年代と思しき女の子に片っ端から声掛けてのローラー作戦が大当たり! 生前、持ち主の家によく遊びに行っていた友達の女の子数名にコンタクト取る事が成功したわけ! その紙に書かれている住所に行けば、持ち主に会えまずぜ、先生!」
「あ、ああ、助かる」
俺は表立って態度には出さなかったが、まさか陽一が一日でひらきの持ち主の住所を割り出すなんて思っていなかったので、心底驚いていた。陽一はやれば出来る男だったのだ。
しかし、腑に落ちないことがあった。
「ひとつ、気になることがあるんだが」
「へっへぇ、何でしょ、センセ?」
一仕事を終えて賞賛の言葉を待ち望む陽一に対して、俺は率直な疑問をぶつけてみた。
「……本当に小学生の女子に片っ端から声掛けたのか?」
俺の冷ややかな目線の意味が理解できない陽一は、胸を張ってこう言った。
「もちろん! 良い取材と写真は足で稼げと、サークルの先輩方に教えられて……」
「それ、小学校の周りでやったらまずくないか?」
「あー、大変だったぜ! 途中でパトカー来たと思ったら、俺目掛けて突撃してくるんだからさ。先生、俺がそんな災難にあったってよく分かりやしたね?」
やっぱコイツ駄目だ!
俺は予想通りのオチに肩の力をがくっと落す。
「普通、小学校低学年の女子ばかりに声掛ける得体の知れない青年がいたら、誰でも不審者だと思って通報するだろうが」
「ちょ、俺の何処がロリコンの不審者だとっ?」
陽一は天を仰ぎ、「これだから世間の偏見というのは怖いんだ」と悲壮な顔で言葉を漏らしていた。
「成人男性が幼女に話しかけただけで犯罪者呼ばわりだなんて、レッテルも大概にしろっていうんだ!」
「そう怒るな。でも保護者や先生がその現場見たら、間違いなく警戒するかもしれないから、次回は同じ方法をとらないほうが懸命だと思うな」
俺の忠告に、腕を組んでうーんと唸りながら眉間にしわを寄せる陽一。
「ったく、何がいけないんだよ。警察も警察だぜ。カメラを寄越せって言うんだからよ! 取材で話聞くついでに、己の技量を磨くべく美少女のスナップ写真を撮ってただけじゃねーか」
「お前、アウトー!」
思わず陽一の頭にチョップを振り下ろしてしまった。
「ぎゃん!」
珍妙な悲鳴を上げ、そのまま机に突っ伏す陽一。
「それは言い逃れ出来ないだろ……。三六〇度何処から見てもただの変質者じゃねーか」
「別にいかがわしいことしてないっつーの! ただな、先生。美少女の笑顔っていうのは、必然的にカメラに収める価値があるんだよ」
急に凛々しい表情でそう訴える陽一であった。
「もう、お前は立派なロリコンだよ……」
労いと軽い軽蔑を込めて俺は陽一の肩を叩くと、ひらきの手を引きつつ食堂の席から立ち上がる。陽一の「俺は決してロリコンじゃなくて、美少女の笑顔を撮影するのが好きな求道者だ」というクレームを聞き流しながら、地下の学生食堂を後にした。
【邂逅】
翌朝。
俺は自宅パソコンから住所の詳細をネットで調べてみた。陽一が成人男性の品格を落してまで調べたこの住所は、幸いにも事故現場からさほど遠くに離れていなかった。俺の大学の最寄り駅から三つほどしか離れていない駅から、徒歩で十分も満たないマンションの一室が目的地だ。
「ひらき、今日こそ家に帰してやるからな」
「うん、やくもんおにいちゃん、ありがとう!」
ひらきは喜びながら部屋中をバタバタと走り回っている。ようやくゴールが見えてきた、と思う。全く手掛かりがない状況から、よくぞここまで辿り着けたもんだ。
軽く食事を済ませ、身支度を済ませた俺は、ふと、窓から空を見上げてみた。
外は快晴、雲ひとつない真っ青な空。今日は暑くなりそうだ。
その建物を前にして、俺は下唇を噛みながら苦悶の声を上げていた。
ひらきの持ち主が住んでいるであろうマンションは、いかにも都市型の最新セキュリティが施されているのであった。外観もまだ新築といえるほどキレイである。マンションではなく、高級ホテルと間違えてもおかしくないだろう。東京都心部にあるだけあって、マンションの高さは天に向かって何処までも伸びている。見上げるとその高さに、俺のような学生は溜息しか出ない。きっと、家賃も馬鹿高いに違いない。入り口で部屋番号と部屋の暗証番号を入力する形式になっている。確か、訪問する際には、部屋番号をこちらが入力して相手を呼び出した後、エントランスの奥に進めるという手筈だったと思う。更にはモニターで相手の顔を確認できるため、不審者であればその場で足止めが出来る。つまり、赤の他人は入り込む余地がない。
「ひらき、ここ、オートロックだろ。どうやって中に入るんだ?」
「うーん、ひらきわかんない……」
「だよなぁ……」
悩んでいても仕方がない。勇気を出してエントランスに足を踏み入れる。地図に書いてある通りの部屋番号を入力すると、インターホンの音が鳴り響く。
しばらくすると、女性がモニタに映る。その表情には若々しさが感じられない。この人が真美さんだろう。しかし、真美さんの年齢が三〇歳と聞いていたが、モニター越しからでもはっきりと分かる頬のこけ具合。髪は後ろで簡単にまとめただけで素っ気ない。メイクもしていないのだろうか、眉毛が半分しかない。実年齢より相当上に見て取れた。
「どなたですか?」
明らかにこちらを不審がっている。今すぐにも会話を打ち切りたいという気分が露骨に表情に出ているが、気後れせずに俺は話し掛けた。
「あの、瀬良さん、ですか?」
俺の問い掛けに、表情を固くしたままモニター越しに睨み付けてくる女性。
「……そうだけど? セールスはお断りよ」
「あ、違うんです。実は、ひらき、じゃなかった、友里ちゃんの傘を届けに来ました」
傘、という単語に身体を小さくビクッと震わせる女性。目が急に泳ぎ始め、やけにそわそわしだしているではないか。
「あ、あの……?」
「知りません」
「え?」
「傘なんて、知りません! 友里なんて子も知りません!」
女性は半ば金切り声に近い声で叫んだ。俺は慌ててひらきを抱き寄せる。
「そんなはずはありません。この傘です。見覚えありませんか? それにご自身の娘のことを知らないだなんて。あなた、母親の真美さんですよね?」
相手には、普通の黄色い通学用の傘に見えるはず。ひらきがよく見えるように、ひらきの身体をモニタに角度を変えながら何度も移す。そして、レインコートの赤黒い染みをモニタのカメラに移したその時、女性の表情が苦痛に歪んだ。
「知らない! 知らないって言ってるでしょうッ? いい加減にして! これ以上訳分からない事言うなら、管理人さんに連絡して追い出してもらうわよ?」
「え、待ってください! 俺はただ傘を届けに……」
「だからそんな傘知らないって言ってるでしょ! もういい、管理会社に連絡して人を呼ぶわ!」
ガチャッと乱暴にインターホンが切られる。切られる直前、「真美ちゃん、どうしてなの?」とひらきは寂しそうに呟くのが聞こえた。
「よく分からないけど……、逃げるぞ、ひらき!」
ひらきが驚いた顔をして固まってしまったので、俺はひらきを抱きかかえて一目散にその場を後にしたのだった。
一分くらいは全速力で走っただろうか。俺の全身の筋肉が酸欠を訴えてきたので、近くにあった喫茶店へ逃げ込む事にした。席に通され、俺はどっかりと椅子に座り背もたれに全体重を預けてしまう。店員がメニューとお冷をテーブルに運んできた。注文は後ですると言い、店員を下がらせる。そこでようやく俺は深呼吸をした。
しばらく天井を見つけていた俺は、横目でひらきの顔を盗み見た。ひらきも先ほどの状況が飲み込めないようで、口をへの字にして目を伏せていた。
「……事だよ?」
椅子の真横に立っているひらきに向かって俺は問い掛ける。
「え、なに? きこえないよ?」
俺の言葉が届かなかったらしい。ひらきは座っている俺の足元によじ登ろうとしてきた。
「だからっ、これはどういう事だって聞いているんだよ!」
ひらきの身体を払い落とし、心の中の澱を声にして吐き出した。
「傘を届ければ終わりじゃなかったのか? なんでだよ、なんで拒絶されるんだよ!?」
俺はひらきに向かって怒鳴り続ける。ひらきは顔を強張らせたまま何一つ答えない。
「なぁ、ひらき。なんで真美さんは受け取ってくれないんだ? なんであんなに怒ってるんだよ? しかも、自分の娘を『知らない』とまで言ったぞ!? なぁ、ひらき。ひらき、ひらき! おい、聞いてんのかよ!」
「わかんないよぅ!」
ひらきも叫び返してきた。目には涙をいっぱい溜めて、鼻水やら唾液やらで折角可愛い顔がぐしゃぐしゃの台無しになってしまっている。そして俺の太ももを小さな掌で何度もぺちぺちと叩いてきたのだ。
「ひらきだってわかんないっ! わかんないのに、やくもんおにいちゃん、いきなりおこるんだもん! わかんない! わかんない! わかんないよおぉううあああああぁぁぁ……、アアアアアアん!」
ひらきは叩くをやめると、そのまま太ももに顔を埋めて泣き出してしまった。そこで俺はスイッチが切り替わったかのようにはっと気が付いた。
(何やってるんだ、俺は!)
やっと目標達成と思いきや、次の障害が立ち塞がったくらいでひらきを怒鳴りつけて鬱憤をぶつけたって、何の解決にもならないのは分かっているのに! ひらきを助けるどころか、苦しめてるじゃないか。ああ、俺はとんだ馬鹿だ!
周囲は俺たちのやり取りに驚いたのか、ちらちらと目線をこちらに寄せている。まずい。ここは場所を変えたほうがよさそうだ。幼女を虐げる悪漢という構図が完全に成り立っている今、ここにいるのはいたたまれない。案の定、店員が迷惑そうな顔してこちらのテーブルにやってきた。
「お客様、『お一人』で喚き散らすなら、他所でやってくれませんか?」
「……すいません」
どうやら、俺は相当参っているようだ。ひらきの姿はもとより、その泣き声すら一般人には聞き取れないという事を俺は完全に失念していたのだ。
(後編へ続く)