婚前旅行で浮気クズ婚約者に無慈悲に捨てられた私、気づけば国民的歌手との同枠写真がネット中でトレンド入りしていた件
佐倉帆夏は、婚前のクルーズ旅行を一日早く切り上げただけだった。
それなのに、婚約者の黒瀬悠真は彼女に別れを切り出した。
沖縄航路のクルーズ旅行、最後の夜だった。窓の外の海は夕日に染まり、レストランには静かなピアノの音が流れていた。周囲の席には、寄り添う恋人や夫婦ばかりが座っている。帆夏は窓際の席で、グラスの氷を無意味にかき回す悠真を見つめながら、不思議なくらい心が冷めていくのを感じていた。
「帆夏、別れよう」
彼女は唇の端を少しだけ上げた。
まるで、その言葉をずっと待っていたかのように。
「西園寺莉央のせい?」
「莉央は関係ない。俺が、帆夏にふさわしくないだけで……」
「佐倉先生と呼んでください」
帆夏は彼の言葉を遮った。声は静かだったが、逃げ道を残すつもりはなかった。
「ほかの女と甘いことを言い合った口で、私の名前を呼ばないでください。気持ち悪いので」
悠真は固まった。
しばらくして、彼は何も言わなくなった。きっと、長く引きずってきた関係が、こんなにあっさり終わるとは思っていなかったのだろう。
帆夏は荷物を引いて部屋を出た。そのまま一人でレストランへ向かう。恋は終わった。けれど、夕食まで台無しにするつもりはない。彼女は皿いっぱいに料理を取り、胸の中に溜まった悔しさをすべて食欲に変えることにした。
食事の途中、少し離れた席に背の高い若い男がいることに気づいた。サングラスにマスク、深くかぶったキャップ。顔を隠しているつもりなのだろうが、逆に目立っていた。帆夏はフォークをくわえたまま二秒ほど見て、たぶん顔がいいのだろうと判断した。
そして、どこかの女性を見すぎて、席を間違えたのだろうとも思った。
「お兄さん、席、違いますよ」
相手は答えなかった。
そのまま、テーブルのカトラリーに手を伸ばす。帆夏は目を細め、少しだけ声を大きくした。
「すみません。ここ、人がいます」
男がようやく顔を上げた。
サングラス越しで目元は見えない。それでも、その一瞬の視線に、どこか奇妙な既視感があった。男は何も言わず、すぐに席を立った。まるで、短く吹き抜けた風のようだった。
帆夏はまた料理に目を戻した。
翌日になって、彼女はようやく知ることになる。
あの奇妙な男が、神崎遥斗だったことを。
今、日本で最も注目されている若手シンガーだったことを。
1.空港で差し伸べられた手
最悪の婚前旅行は、ようやく帰路についた。
那覇空港に着いたとき、帆夏はただ頭が痛かった。これから黒瀬と同じ飛行機で東京へ戻らなければならないと思うと、気分はさらに沈む。彼女は一人でキャリーケースを引き、振り返ることさえしなかった。
出発ロビーに入った瞬間、スマホと応援ボードを持った人の波が押し寄せてきた。悲鳴のような歓声が弾け、人混みが一気に前へ流れる。帆夏はもう熱心に誰かを追いかける年齢でもなく、誰のファンなのかもわからないまま、避ける間もなく人に押された。
足元がふらつき、体が床へ傾く。キャリーケースも横へ倒れた。
「遥斗くん! こっち見て!」
「かっこいい!」
「遥斗くん、大好き!」
混乱の中、誰かの手が彼女を支えた。
その手は力強かったが、乱暴ではなかった。帆夏がまだ立ち上がりきらないうちに、周囲からさらに大きな歓声が上がった。
「遥斗くんが助けた!」
「今の女の人、誰?」
帆夏が顔を上げたときには、相手はスタッフとファンに囲まれ、保安検査場のほうへ向かっていた。帽子とマスクで顔はよく見えない。悠真がそのタイミングで追いついてきた。まるで今、彼女が転んだことに気づいたかのような顔だった。
「大丈夫か?」
「平気」
帆夏は自分のキャリーケースを奪い返すように引き寄せた。
彼とそれ以上話す気にはなれなかった。
搭乗までの時間はやけに長かった。悠真はずっとスマホを見ていて、ときどき口元を緩めている。誰と連絡しているのか、考えるまでもなかった。きっと画面の向こうにいるのは西園寺莉央だ。
退屈に耐えかねて、帆夏はXを開いた。
トレンド欄に、同じ名前が何度も並んでいた。
【人気シンガー神崎遥斗、熱愛疑惑再浮上】
また、この名前だった。
帆夏が投稿を開いた次の瞬間、思わずスマホを落としそうになった。写真の中で神崎遥斗の向かいに座っている女は、どう見ても自分だった。背景は、昨夜のクルーズ船のレストランだ。
理解が追いつく前に、搭乗案内のアナウンスが流れた。
帆夏が自分のエコノミー席を見つけたところで、客室乗務員が近づいてきた。
「佐倉様。お客様のお席はアップグレードされております。こちらへどうぞ」
そんな幸運に遭遇したことなど、人生で一度もない。
けれど今は、悠真の隣に座らずに済むなら、その先が罠でも構わない気分だった。帆夏は客室乗務員のあとについて前方へ進み、悠真の驚いた顔を後ろに置き去りにした。仕切りのカーテンを抜けて初めて見た上級席に、少しだけ気後れする。
席に着いてから、隣の人物に見覚えがあることに気づいた。
神崎遥斗は目を閉じ、座席に体を預けていた。疲労の色はあるのに、若く整った顔は照明の下で静かに際立っている。高い鼻筋、すっきりした輪郭、閉じたまぶたでさえ目を引いた。
今度こそ、帆夏は彼の顔をはっきり見た。
「あなた、神崎遥斗さんですよね。ファン、すごいですね」
勇気を出してそう声をかけた。
しかし、彼はすぐには答えなかった。空気が凍りつくほど気まずい沈黙が落ちる。帆夏は顔をそらし、小さくつぶやいた。
「感じ悪……」
そのとき、彼女は席のことを思い出して振り向いた。
「この席、あなたが?」
「うん」
「トレンドの件で?」
遥斗は目を開け、少し考えるように間を置いた。
「あの写真、あなたに迷惑がかかるかもしれない。困ったら、うちの事務所に連絡して」
そう言って、彼は小さな名刺をテーブルに置いた。
帆夏はそれを手に取り、すぐ返そうとした。
「ただの誤解でしょう。あなたが気にしていないなら、私みたいな一般人が怖がることでもないです」
「持ってて。何もなければ、それでいい。あと、できればネットのコメントは見ないほうがいい」
「大丈夫です。見る暇なんてありませんから」
実際、暇などなかった。
東京へ戻れば、新しい部屋を探さなければならない。それに、黒瀬とは同じ大学受験塾で働き続けることになる。さらに面倒なのは西園寺莉央だ。彼女の父は、塾を運営する会社の常務取締役だった。簡単に放っておいてくれる相手ではない。
帆夏はただ、いつもどおり授業をしたかった。
生徒を見て、ミスをせず、仕事を失わずにいたかった。
2.特定された佐倉先生
帆夏は昔から、あまり運のいい人間ではなかった。
好きになった人は、いつもいなくなる。幼いころは母がいなくなり、一年前には父を亡くした。悠真に出会う前、父はこの世界でいちばん帆夏を愛してくれる人だった。毎日ご飯を作り、彼女が帰ってくるのを待っていてくれた。
やがて、食卓には悠真の席もできた。
父が病気になってからも、彼は帆夏と悠真の結婚をずっと楽しみにしていた。けれど、それを見届けることはできなかった。最後に帆夏の手を握り、母さんと一緒に空から見ていると言ってくれただけだった。
ごめんね。
また、がっかりさせてしまった。
そう思った瞬間、帆夏の目元が熱くなった。彼女は慌てて顔を伏せ、機内食を無理やり口に運ぶ。隣の遥斗がこちらを見た。機内食でそんな顔をする人間を、初めて見たのかもしれない。
「そんなにまずい?」
帆夏は彼から差し出された紙ナプキンを受け取り、鼻にかかった声で答えた。
「平気です。今、婚約者に振られただけなので。少ししたら落ち着きます」
遥斗はそれ以上、何も聞かなかった。
飛行機が着陸したころ、帆夏は少し眠っていた。目を覚ますと、乗客はほとんど降りていて、遥斗の姿も隣になかった。悪夢のような婚前旅行は、ようやく終わったのだと思った。
しかし空港のバス乗り場で、彼女は悠真が黒い車に乗り込むのを見た。
運転席にいたのは、西園寺莉央だった。
やっぱり。
一秒だって待てなかったらしい。
もしかすると、本当の悪夢はここからなのかもしれなかった。
その夜、授業準備を終えた帆夏は、古いアパートの小さなテーブルの前でスマホを開いていた。例の話題がまたタイムラインに流れてくる。見ないほうがいいとわかっているのに、指は勝手にコメント欄を開いていた。
大量の悪意が、冷たい水のように浴びせられる。
「遥斗くんが、こんなおばさん相手にするわけないじゃん」
「誰? 売名?」
「外に出る前に鏡見たほうがいい」
「わざと近づいたんでしょ」
コメントの中には、彼女の個人情報まで混じっていた。名前、年齢、勤務先、過去の写真。さらに、住所らしき画像まで掘り起こされ、拡散されている。
帆夏はそれを見て、背筋が冷えた。
この中には、おそらく自分の生徒が流した情報もある。
彼女はようやく、遥斗の忠告を聞いておけばよかったと後悔した。
翌日の午後、帆夏は塾へ授業に向かった。
教室に入った瞬間、生徒たちが騒ぎ出した。帆夏は教壇に立ち、教材を持つ手に力を込める。
「先生、本当に神崎遥斗と知り合いなの?」
「佐倉先生、サインもらえますか?」
「先生、遥斗くんの彼女なんですか?」
「先生って、黒瀬主任と付き合ってたんじゃないんですか?」
帆夏が口を開こうとしたとき、教室の入り口から軽い声がした。
西園寺莉央が立っていた。顔には、隠しきれていない笑みが浮かんでいる。
「佐倉先生、運営本部の方がお呼びです」
来るものが来た。
莉央の横を通り過ぎるとき、帆夏は彼女の唇に浮かんだ勝ち誇った表情を見た。
その瞬間、すべてを悟った。
事務室には悠真もいた。
帆夏が入ってくると、彼はすぐに用事を思い出したように部屋を出ていった。目を合わせられないその表情だけで、何よりもよくわかった。
「お呼びでしょうか」
運営本部の担当者は、困ったようにため息をついた。
「佐倉先生。あなたの授業実績はよく、生徒からの評価も高いです。ただ、今回のSNSの件で、生徒や保護者の間に少し影響が出ています。うちは大学受験塾ですから、保護者からの信頼が何より大事なんです」
帆夏は何も言わなかった。
「ですので、西園寺先生と担当クラスを入れ替えてください。Aクラスは一時的に彼女へ。佐倉先生にはBクラスをお願いします」
帆夏は顔を上げた。
「Aクラスは三年近く見てきました。入試まであと数か月です。このタイミングで講師を替えるんですか?」
担当者は彼女の目を避けた。
「運営本部の決定です。佐倉先生は契約講師ですから、次期の担当については、また改めて相談という形になります。まだ若いんですから、今後の機会はいくらでもありますよ」
帆夏はようやく笑った。
なるほど。
すぐにクビにするわけではない。
ただ、自分が少しずつ育ててきたクラスから外し、その生徒たちが莉央の手に渡るのを見せる。そして次の契約更新のとき、自然に名簿から消すつもりなのだろう。
直接追い出されるより、よほど体裁がよく、よほど残酷だった。
「わかりました。退職届は、あとでお送りします」
そのときになって、帆夏はようやく悠真の目に浮かんでいた罪悪感の意味を理解した。
西園寺莉央が欲しかったのは、悠真だけではない。
帆夏を、悠真の世界から完全に消すことだった。
3.塾講師から芸能人の付き人へ
三か月近くたっても、帆夏は新しい仕事を見つけられなかった。
莉央の影響なのか、東京にある有名な大学受験塾からは面接の連絡すら来ない。別業界の会社にも応募してみたが、経験不足を理由に断られた。
帆夏は大学で日本文学を専攻していた。卒業後は東京の大学受験塾に入り、現代文と小論文を担当してきた。数年間、ようやく長く続けられる仕事を見つけたのだと思っていた。
それなのに、たった一枚の写真で、保護者から苦情を受け、生徒から好奇の目で見られ、運営本部に切り捨てられた。
彼女が住んでいるのは、東京郊外にある古い一Kのアパートだった。部屋は狭く、キッチンは一人立つのがやっとで、ベランダの向こうには隣の建物の壁しか見えない。父が残してくれたお金は多くなく、退職後の貯金も少しずつ減っていった。
帆夏がじりじりと追い詰められていく一方で、悠真は順調だった。
以前の同僚がこっそり教えてくれたところによると、悠真は教室長補佐からエリアマネージャーへ昇進したらしい。裏で力を貸したのは、もちろん西園寺莉央だった。
きっと、これが彼が帆夏を捨てた理由なのだろう。
帆夏は床に座り、断りのメールで埋まった受信箱を眺めていた。
ふと、一人の人物を思い出す。
神崎遥斗。
あの名刺は、まだ本の間に挟んである。
だめで元々のつもりで、彼女は名刺に書かれていた仕事用アドレスへメールを送った。すると、思いがけずすぐに返信が届いた。相手は遥斗のマネージャー、南条美咲だった。
簡単に事情を聞いた美咲は、帆夏を事務所の現場マネージャー補佐の面接に推薦してくれた。
翌日、帆夏は事務所へ向かった。
面接は驚くほどあっさり終わった。入社初日、彼女は守秘義務契約書に署名した。スタッフからは、タレントの移動スケジュール、住所、私生活、スポンサー資料、楽屋情報は絶対に外へ漏らしてはいけないと何度も念を押された。
帆夏はうなずきながら、自分がまったく知らない世界に迷い込んだような気がしていた。
気づけば彼女は、国民的人気シンガー神崎遥斗の現場付きのアシスタントになっていた。
神崎遥斗は、ニュースに書かれているような、毎日恋愛沙汰と話題作りに忙しい人間ではなかった。
彼の生活のほとんどは、空港、レコーディングスタジオ、撮影現場、ホテルの間を行き来することで埋まっていた。時間が空けば、彼は一人で隅に座って曲を書いている。カメラの前でまぶしく笑う姿とは別人のように、静かだった。
事務所のスタッフによれば、以前は彼の付き人をやりたい人間がいくらでもいたらしい。彼は一人でいるのを好み、必要以上に人を近づけない。理屈の上では、扱いやすいタレントということになっていた。
けれど、帆夏には少しも楽だと思えなかった。
彼女のショルダーバッグは、ほとんど四次元ポケットのようだった。遥斗は少しでも暇になると彼女を呼ぶ。起こす、走る、食事を手配する、スケジュールを確認する、衣装を整える、現場写真を撮る。あれもこれも、すべて彼女の仕事だった。
ただ、帆夏がいちばん好きなのは食事の手配だった。
事務所の予算で、スタッフ全員の弁当や差し入れを栄養バランスよく、見た目よく整える。もちろん、本音を言えば、自分の食事を少しでもよくするためでもある。
たまには、こっそり自分用に一品足すこともできた。
ある夜、ホテルの部屋に戻ったばかりの帆夏のもとに、インターホンが鳴った。
自分の夜食が届いたのだと思い、彼女は喜んでドアを開けた。けれど、立っていたのは遥斗だった。彼は帆夏が注文した夜食の袋を片手に持ち、見事に見つけたと言わんばかりの目をしている。
「一日、何食食べるつもり?」
終わった。
部屋番号を間違えた。
完全にばれた。
帆夏は必死に仕事用の笑顔を作った。
「しっかり食べたほうが、明日も働けますので」
遥斗は袋の中をちらりと見た。
「だめ。俺も食べる」
そう言って、部屋へ入ろうとする。帆夏は慌てて彼を押し戻した。
「だめです。美咲さんに知られたら、私より神崎さんのほうが怒られます」
「じゃあ、今から美咲さんに届けようか」
彼はドアの横にもたれ、意地悪く笑った。まったく帰る気がない。帆夏は両手を合わせた。
「神崎さん、勘弁してください。明日、写真を多めに加工しますから」
遥斗は数秒、彼女を見た。
やがて、袋を差し出す。
「今やって」
そう言い残して、彼は廊下を戻っていった。
帆夏は夜食の袋を持ったまま、ドアの前で小さく息を吐いた。
本当に、子どもっぽくて、妙にずるい人気者だ。
4.雪見市での再会
翌朝、美咲から電話がかかってきた。
「帆夏、準備して。十時半に羽田集合」
まだ寝ぼけていた帆夏は、かすれた声で聞き返した。
「何の仕事ですか?」
「雪見市で番組収録。あなた、雪見市出身だったよね。今回は大きな現場じゃないから、遥斗をお願い」
休みは消えた。
けれど、久しぶりに故郷へ帰れるなら悪くない。遥斗と二人で出張することを考えると、少し緊張して、少しだけ期待している自分もいた。
空港に着くと、遥斗はもう待っていた。
「ほかの人たちは?」
「美咲さんたちは別件の打ち合わせ。今回は流れも簡単だから、資料はあとで確認して」
そう言って、遥斗は先に歩き出した。
移動中、彼はずっとスマホを見ていた。口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。帆夏が思わず横目で画面を見ると、そこには彼女が普段撮った遥斗の写真ばかりが並んでいた。
まさか、こんなに自分の写真が好きだったとは。
帆夏は呆れて目をそらした。
「美咲さん、よく私に任せましたね。神崎さんを迷子にしたらどうするんですか」
遥斗は顔を上げなかった。
「君の地元でしょ。ちゃんと案内して」
「観光する気ですか? 雪見市、今すごく寒いですよ。そんな薄着で行ったら、絶対に後悔します」
その予言は、見事に当たった。
空港の外へ出た瞬間、遥斗は吹きつける冷たい風に固まった。帆夏は自分のマフラー、帽子、手袋をすべて彼に渡すしかなかった。
それでも、彼は風邪をひいた。
収録中、遥斗は何とか最後まで仕事をやりきった。帆夏は最初、若い人は回復力が違うのだと感心していた。けれど収録が終わった瞬間、彼は完全に倒れた。
高熱だった。
帆夏はまず美咲に連絡し、近くの夜間診療を調べた。医師から、風邪と過労なので安静にと言われて、ようやく少し息をつく。
事務所の大事な稼ぎ頭をここで壊したら、美咲に申し訳が立たない。
帆夏は実家に寄って卵粥を作り、途中で桃の缶詰とスポーツドリンクを買った。ホテルの部屋へ戻ると、遥斗は布団の中で丸くなっていた。起きたくない子どものようだった。
「起きて。少し食べてから薬を飲みますよ」
遥斗は目を閉じたまま、かすかにうなった。
「無理。力が出ない」
帆夏はわざと缶詰を開けた。
「わあ、自分で作ったお粥、すごくおいしそう。桃缶も久しぶり。残したらもったいないですね」
布団の中から、こもった声がした。
「食べさせて」
「食べないなら片づけます」
「本当に力が出ない」
体調を崩した遥斗は、普段よりずっと頼りなかった。帆夏の中にある、世話焼きの部分がまた勝手に動き出す。
看病される遥斗は、驚くほど素直だった。
お粥も食べる。薬も飲む。眉を寄せる表情まで、雨に濡れた小動物のように見えた。
ひと通り世話を終えるころには、もう夜になっていた。
帆夏が帰ろうとすると、遥斗がそっと彼女の手首をつかんだ。
「もう少しだけいて。眠るまででいいから」
帆夏は血の気の薄い彼の顔を見下ろした。
結局、もう一度椅子に腰を下ろす。
彼をこんなに近くで見るのは、これが二度目だった。長いまつげ、熱で少し赤くなった頬、体調が悪いのに妙にきれいな唇。近すぎると気づいた瞬間、危ないと思った。
帆夏が身を引こうとしたとき、手首がそっと引かれた。
バランスを崩し、遥斗の胸元へ倒れ込む。彼はすぐには離さなかった。ただ、低く問いかけた。
「今、キスしたら怒る?」
帆夏の頭が一瞬、真っ白になった。
答える前に、彼の唇が軽く触れた。
そのキスは、思っていたよりもずっと優しかった。熱の名残を含んでいて、少しずつ確かめるように近づいてくる。帆夏の中には後退すべき理由がいくつもあったはずなのに、そのときだけは、何も考えたくなかった。
たぶん、彼女はずっと愛されたかった。
こんなにもまっすぐで不器用な熱を前にして、理性は急に意味を失った。
帆夏はただ、目を閉じた。
翌朝、帆夏の逃亡計画は完全に失敗した。
遥斗はとっくに目を覚ましていた。飼い主が起きるのを待つ猫のように、横で首をかしげて彼女を見ている。目が合った瞬間、帆夏は恥ずかしさのあまり布団をかぶった。
「今日は休み。起きて。案内して」
遥斗は慌てることなく布団を外し、柔らかく笑っている。帆夏は彼をにらんだ。
「神崎遥斗、その演技力で賞を取らないのはもったいないですね」
「ありがとう。相手役がよかったから」
そう言って、彼はまた近づいてくる。帆夏は慌てて逃げた。
しっかり防寒して、二人は外へ出た。帆夏はガイドのように、古い商店街や展望台へ彼を連れていった。歩きながら、子どものころの話をいくつもした。遥斗は観光地そのものより、帆夏の横顔をずっと見ているようだった。
夕食へ向かう途中、二人は帆夏が初めて働いた補習塾の跡地の前を通った。
建物はすでに改装され、昔の面影はほとんど残っていない。それなのに、遥斗は足を止め、やけに長くそこを見つめていた。帆夏は少し不思議に思ったが、何も聞かなかった。
夜、帆夏は遥斗を雪見市で有名なジンギスカンの店へ連れていった。
熱い鉄板の上で肉が音を立て、羊肉と玉ねぎの香りが炭火の匂いと混ざって立ちのぼる。冷えたビールを前にすると、普段なら言わないようなことまで口にしてしまいそうだった。
帆夏は、自分がこんなふうに、年下の男にこれまでの楽しかったことや惨めだったことを話す日が来るとは思っていなかった。
遥斗は静かに聞いていた。ときどき短く相づちを打つ。その姿は、わがままな人気者ではなく、どこか大人びた人に見えた。
「昔、教えていた生徒のことって、覚えてますか?」
帆夏は彼を見た。
「さっき通った塾にいた子です。ぽっちゃりしていて、みんなに『まる太』って呼ばれていました。あまりしゃべらない子で、あなたみたいに、よく同級生にからかわれていて。でも、ギターがすごく上手だったんです」
遥斗は視線を落とし、指先でグラスの縁をなぞった。
帆夏はその表情に気づかないまま話し続けた。
「学校の文化祭で有志ステージに出るっていうから、私は曲の練習を手伝いました。すごく評判がよかったんです。でも、そのせいで何人かの男子に呼び出されて、殴られているところを見てしまって」
帆夏は焼けた肉を一切れ、皿に取った。
「私は、ちゃんと反抗して先生や家族に言ったほうがいいって言いました。でもその子は、おじいちゃんの世話があるから、受験まで静かに過ごしたいって」
そこで、遥斗が続きを引き取った。
「それで、放っておけなかった馬鹿な先生が、教室長と運営本部に報告した。相手の生徒たちの親が、塾の運営会社とつながっていることも知らないで。結果、次の契約は更新されなかった」
帆夏の箸が落ちた。
周囲の音が、一瞬遠のく。
「どうして、それを知ってるの?」
遥斗は顔を上げた。声は穏やかだった。
「その生徒は、ずっと後悔していた。あの先生を探して、ありがとうって言いたかった。でも、どうしても見つけられなかった」
帆夏は彼を見つめた。
「その後、おじいちゃんが亡くなった。長い間会っていなかった母親に、海外へ連れていかれた。彼は必死で有名になろうとした。ニュースにも出るようにした。でも、その先生は彼に気づかなかった」
遥斗はグラスを持ち上げ、そっと帆夏のグラスに当てた。
「だから、直接会いに行くしかなかった。一緒に酒を飲んで、肉を食べられるところまで」
帆夏は、耳を疑った。
「あなたが……まる太?」
そのあだ名は、目の前の男とあまりにも結びつかなかった。
遥斗は笑った。
「ありがとう、佐倉先生」
目の前の彼が、かつていじめられていたあの少年だとわかった瞬間、帆夏の心は大きく乱れた。
偶然だと思っていた出会いは、運命ではなかった。
この少年が、長い時間をかけて彼女を探していただけだった。
でも、それは本当に恋なのだろうか。
それとも、遅すぎた執着なのだろうか。
その夜、帰り道で帆夏はずっと考えていた。この荒唐無稽な関係を、どう終わらせるべきなのか。遥斗も、彼女の変化に気づいたのだろう。別れ際、低く言った。
「こんなことになるなら、言わなければよかった」
帆夏は彼を見なかった。
「いつまで隠すつもりだったの。私は、あなたの先生だったんだよ」
本当に言いたいことは、最後まで口にできなかった。
あのころの彼は、帆夏が短い期間だけ見ていた補習塾の生徒だった。連絡先を交換したわけでもないし、何か一線を越えたわけでもない。再会したとき、彼はもう大人だった。
それでも、帆夏には見えない線が二人の間に引かれているように感じられた。
5.いちばん近い他人
東京へ戻ってから、帆夏は遥斗との関係をどうするべきか悩み続けた。
けれど、遥斗は姿を消した。美咲が彼を番組収録へ連れていき、ついでに帆夏には短い休みをくれたらしい。
数日後、帆夏はXで番組の話題を見つけた。
それは恋愛観察系のバラエティ番組だった。中には仮想デート企画があり、遥斗と同年代の女優とのやり取りが、ひどく自然で親密に編集されている。短い動画が次々と流れ、視聴者は二人の距離感について楽しそうに語っていた。まるで二人は、最初から並んで立つために作られたかのようだった。
自分が真に受けすぎていただけなのかもしれない。
遥斗は若く、まぶしく、これからいくらでも広い世界へ出ていける人だった。彼女と遥斗が一緒にトレンドに入ったとき浴びせられた言葉を思い出すと、胸の奥が重くなる。
帆夏は、やはり今ここで立ち止まるべきだと思った。
彼女は遥斗にメッセージを送った。
【過去の感謝を、恋だと勘違いしないで。あなたには、もっとふさわしい人がいる】
夜、眠りかけたころにインターホンが鳴った。
帆夏は驚いてスマホを手に取り、電源を入れて初めて、遥斗からのメッセージが何件も届いていることに気づいた。
ドアを開けた瞬間、遥斗が中へ入ってきて彼女を抱きしめた。次の瞬間、彼は顔を近づけ、キスしようとした。
帆夏は力を込めて押し返した。
遥斗は怒らなかった。むしろ、どこか安心したような顔をした。
「怒るかどうか、知りたかった。だから、わざと番組のことを言わなかった」
そう言いながら、彼はソファに倒れ込んだ。疲れ切っていて、目を開けているのもつらそうだった。帆夏はそばに立ち、胸の奥に押し込めていた言葉をようやく口にした。
「怒っているんじゃない。本気で言ってるの」
「明日、聞く」
遥斗は目を閉じたまま、声を落とした。
「少し寝かせて。疲れた」
夜中にここまで来たことを思うと、帆夏は追い返せなかった。
彼女は黙って毛布を一枚かけた。
翌朝、部屋から出ると、遥斗の姿はもうなかった。
帆夏は彼に連絡しようとスマホを手に取り、そこで黒瀬から深夜にいくつもメッセージが届いていたことに気づいた。
今の自分はうまくいっていない。帆夏に会いたい。あのとき莉央と一緒になったのは、二人の将来のためだった。
どう見ても、酔っていた。
帆夏は、昨夜あまりに眠くてスマホを完全にロックしていなかったことを思い出した。黒瀬からの通知が、画面に次々と表示されていたはずだ。遥斗は、その最初の数行を見たのかもしれない。
彼がどう思ったかはわからない。
けれど、もういい。
長く痛むより、短く痛むほうがいい。
きっと、これでよかったのだ。
帆夏は一度、辞めようかとも考えた。
けれど、そこまでする必要はないとも思った。若い人の恋は、始まるのも終わるのも早い。遥斗は忙しい日常へ戻り、事務所でたまにすれ違っても、何もなかったように通り過ぎるだけだった。
二人は、いちばん近い他人になった。
ある日、ブランド主催のレセプションパーティーが開かれ、事務所のタレントも何人か招かれた。帆夏も現場アシスタントとして同行した。
会場で遥斗の周りには、企業関係者の夫人や令嬢が集まっていた。
その中に、見覚えのある顔があった。
西園寺莉央だった。
彼女は令嬢らしい顔をして輪の中に立ち、談笑しながら何度も遥斗にシャンパンを勧めている。遥斗は酒に強くない。このあとブランド撮影とインタビューが控えている。これ以上続けば、また妙な写真を撮られかねない。
帆夏が美咲へ連絡しようとしたとき、黒瀬も会場にいることに気づいた。
黒瀬は帆夏を見つけると、驚いた顔で近づいてきた。
「帆夏、どうしてここに?」
帆夏は冷たく彼を見た。
「私がここにいたら、そんなにおかしい?」
言い終えた瞬間、彼女は思いついた。
帆夏は黒瀬を連れ、莉央たちの輪へ向かった。まだ何も言わないうちに、莉央が笑う。
「あら、佐倉先生。お久しぶりです。ここでスタッフをしているんですか? なんだか残念ですね。よかったら悠真に、いい仕事を紹介してもらえば?」
彼女は黒瀬の腕に手を添え、わざとらしく笑った。
「そうそう、私たち来月結婚するんです。ぜひ来てくださいね」
帆夏は遥斗の横へ歩き、低い声で告げた。
「神崎さん、次のブランド撮影が始まります」
遥斗は彼女を一度見て、すぐにグラスを置いた。
帆夏は莉央へ向き直り、仕事用の笑みを浮かべる。
「西園寺さん、うちのタレントとずいぶん盛り上がっていらしたので、婚約者の方があなたを探していました。皆さまお知り合いのようですし、先にお祝いを申し上げますね」
周囲の客たちも、それを聞いて笑顔で祝福の言葉を口にした。
その隙に、帆夏は遥斗を人の輪から連れ出し、美咲へ引き渡した。
役目を終えると、彼女は逃げるように会場を離れた。
6.もう遅い
日々は少しだけ落ち着きを取り戻した。
ある昼休み、事務所の誰かが、下でプロポーズをしている人がいると声を上げた。帆夏はこういう騒ぎを嫌いではない。すぐに窓際へ行き、下をのぞき込んだ。
車には風船と花が飾られていた。よくある演出ではあるが、昼休みに出てきた人たちがすでに集まっている。帆夏が下へ降りようとしたとき、男が現れた。
彼女は固まった。
そこにいたのは、黒瀬悠真だった。
まもなく、黒瀬から電話がかかってきた。帆夏が切ると、今度はメッセージが届く。
【帆夏、俺が悪かった。君の会社の下にいる。少しだけ会ってほしい】
何を考えているのだろう。
帆夏は慌てて、以前の同僚に電話した。
「黒瀬が私の会社の下にいるんだけど。あの人、もうすぐ結婚するんじゃなかったの? どうして私のところへ来るの?」
電話の向こうで、同僚は冷たく笑った。
「本当に図々しいね。聞いた話だけど、西園寺さん、あのパーティーで業界の人と知り合って、そのまま黒瀬を捨てたらしいよ」
帆夏はようやく理解した。
黒瀬にとって、自分は困ったときに戻るための保険だったのだ。
少しして、また電話が鳴った。
帆夏は非常階段へ逃げ、通話に出た。黒瀬は謝り続けた。あのころ、自分がどれだけ帆夏のために努力していたか。莉央と一緒になったのも、仕方のない選択だったのだと、何度も繰り返す。
声だけ聞けば、誠実そうだった。
けれど、帆夏にはもう知らない人の声にしか聞こえなかった。
「私たちに話すことはありません。これ以上、お互いを巻き込まないでください。帰らないなら、警察を呼びます」
電話を切った瞬間、振り向くと、遥斗がそこに立っていた。
「何してるんですか」
気まずさをごまかそうとして聞くと、遥斗は指先の煙草を軽く見せた。火はついていない。喫煙室へ続く非常階段の前で、ただそれを持っているだけだった。
それでも、帆夏は眉を寄せた。
「こんなところを撮られたら、また面倒になりますよ」
そう言って扉を開けようとしたとき、遥斗が煙草をしまい、手で扉を押さえた。
彼は帆夏を見下ろした。瞳の奥に、また小さな火が灯っているようだった。
「本当に、下へ行かないの?」
「私を呼んでいるわけじゃありません」
帆夏は彼の腕の下をくぐり抜けるようにして階段へ出た。
ところが、遥斗は追いかけてきた。彼は迷いなく帆夏の手を取り、そのまま黒瀬の前まで歩いていく。
足を止めると、遥斗は驚くほど静かな声で言った。
「すみません。あなたは遅すぎました。帆夏は今、俺と付き合っています」
黒瀬は言葉を失った。
帆夏も同じだった。
彼女は目を丸くして遥斗をにらんだ。遥斗が彼女の手を強く握る。そこでようやく、帆夏は我に返り、慌てて帽子のつばを下げた。
「本当なのか、帆夏」
黒瀬が彼女を見た。
帆夏は、とにかくこの騒ぎを終わらせたかった。
「そうです。だからもう帰ってください」
そう言って、彼女は遥斗を引っ張り、現場から足早に離れた。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、遥斗が彼女を見下ろす。
「ご飯作って。今夜、君の家に行く」
帆夏が反論する前に、彼はもう決めた顔をしていた。
ちょうどいい。
彼女にも、聞きたいことが山ほどあった。
その夜、遥斗が部屋に着くなり、帆夏は我慢できずに切り出した。
「西園寺莉央に業界の人を紹介したのって、あなたですか。それで黒瀬は捨てられたんですか」
手を洗い終えた遥斗は、キッチンの入り口にもたれた。
「俺は知り合いを紹介しただけ。お互い、欲しいものがあったんじゃない?」
「どうしてそんなことを?」
「君が黒瀬とよりを戻すと思ったから」
彼は帆夏を見つめ、少し得意げに笑った。
「でも違った。君の中に、俺がいた」
帆夏は危うく箸を落としそうになった。
「何を言ってるんですか。手を洗ったなら座ってください」
彼女は慌てて話題を変えた。
遥斗は笑ったが、それ以上は追及しなかった。
夕食のあとも、遥斗は帰ろうとしなかった。
帆夏は時計を見る。
「そろそろ帰って寝てください、まる太。私は明日も仕事です」
「酒飲んだから運転できない」
「タクシー呼びます」
帆夏がスマホを取ろうとすると、遥斗はそれを奪い、椅子と自分の間に彼女を閉じ込めた。
「本当に帰ってほしい?」
彼は身をかがめ、低く聞いた。
帆夏は彼の目を見上げた。
その瞬間、彼女は一度だけ勇気を出してみようと思った。
今からは、自分の気持ちに嘘をつかない。
ここまで遠回りをして、彼女にもう一度幸せを信じさせようとしてくれた人を、もう傷つけたくなかった。
7.公表できない恋人
まる太がいる生活は、あまりにも穏やかで幸せだった。
部屋の中では、二人はどこにでもいる普通の恋人同士のようだった。遥斗は寝癖のついた髪でソファに座ってギターを弾くこともあれば、スーパーで割引弁当や試食コーナーを真剣に眺めることもあった。長い間、普通の生活から遠ざかっていた人のように、何にでも興味を示す。
ある休日、帆夏はふと思いついて、彼にメイクをして写真を撮ることにした。
途中で、こっそり女性風のメイクに変えてみた。すると、予想以上に似合ってしまった。鏡を見た遥斗は、ふくれた猫のような顔で彼女をにらむ。
「帆夏、正気?」
帆夏は笑いが止まらなかった。
「きれいすぎ。もう私より似合ってるんだけど」
彼女は無理やり何枚か並んで写真を撮り、その中の一枚をスマホの待ち受けにした。怒っているのに、最後には笑ってしまう彼を見るのが好きだった。
外に出るとき、二人はまるで秘密作戦でもしているように慎重だった。帽子、マスク、眼鏡。どれも欠かせない。
それでも、遥斗のスーパーへの興味は止められなかった。彼は何を見ても新鮮そうで、とくに試食に熱心だった。あるときは、売り場の女性に気づかれかけた。
「お嬢さんの彼氏、あの神崎遥斗に似てるわね」
帆夏は笑ってうなずいた。
「よく言われます」
また別の日、帆夏はファンのふりをしてライブ会場の客席に立ち、周囲に混じって声援を送っていた。
つい勢いで、呼び方を間違えた。
「まる太、大好き!」
遥斗はすぐに彼女を見つけた。
ステージの上で笑いながら、彼女へ向けてハートを作る。客席から大きな歓声が上がった。
その仕草が自分だけに向けられたものだと、帆夏だけが知っていた。
盗んだ光のような幸せだった。
その日以来、ファンの間で新しい呼び名が広がった。
まる太。
カメラの前の遥斗も、以前よりずっと自然に笑うようになった。最近スキャンダルがないのは恋をしているからではないかと聞かれると、彼は否定しながらも、つい笑ってしまう。好きなタイプを聞かれれば、まるで帆夏のことを説明するようなことを言う。
すでに、彼の周囲のスタッフを調べ始めている人たちもいた。
帆夏はいつか自分が見つかるのではないかと、ずっと不安だった。
実際、二人が一緒に過ごせる時間は多くなかった。
帆夏は、彼の前ではできるだけ明るくいたかった。少しでも気が楽になるように、幸せな顔だけを見せていたかった。けれど、SNSに投稿することもできない。友人に恋人がいると話すこともできない。彼の名前を出すことさえ怖かった。
友人は少しずつ減り、生活の範囲も狭くなっていった。
それが、帆夏を不安にさせた。
大きな広告看板の前を通り、遥斗のポスターを見るたび、彼女はその顔を指差して叫びたくなる。
この人は私の恋人だ。
私だけの人だ。
けれど、そんな自分が嫌だった。
敏感で、独占欲が強くて、少しずつ自分の生活を失っていく。
遥斗のスケジュールは詰まっていた。食事や睡眠を削って彼女に会いに来ることもある。少しでも熱愛めいた話題が出れば、彼は真っ先に帆夏を安心させようとした。
二人とも、疲れていた。
ある日、配信の仕事を終えたばかりの遥斗が、そのまま帆夏の部屋へ来た。
「帆夏、公開しよう。そうすれば、普通に会える」
彼の目は、今にも閉じそうだった。
帆夏は胸が痛くなった。
「遥斗、あなたの噂がどれだけ多いと思ってるの。それに、もしこの先別れたら、私はどうなるの?」
遥斗は固まった。
「俺たち、別れるの?」
「先のことなんて、誰にもわからないでしょう」
言った瞬間、帆夏は自分が間違えたことを悟った。
けれど、今回の遥斗の目には怒りはなかった。
そこにあったのは、もっと不安で、もっと傷ついた色だった。
8.彼女がライブに来なかった日
長く準備してきた全国ツアーは、ついに最終公演を迎えた。
その日、いつも穏やかな遥斗と美咲が、楽屋で言い争っていた。帆夏は飲み物を持って中へ入り、空気を変えようとした。けれどその前に、遥斗がドアを開けて出てくる。
彼は帆夏を見て、一瞬だけ足を止めた。
それでも、何も言わずに通り過ぎていった。
帆夏が楽屋に入ると、美咲は目元を拭っていた。
「帆夏、ちょうどよかった。相談したいことがあるの」
帆夏は椅子に座った。
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
「遥斗、今日のライブであなたにプロポーズするつもりよ。知ってた?」
帆夏の指が固まった。
「一度、そういうことを言われたことはあります。でも、あれは私を助けるための冗談みたいなものだと思っていて……本気だとは思いませんでした」
美咲は数枚の資料を机に置いた。
そこには、すでに書かれた暴露記事の案や、更新間近の広告契約の資料があった。美咲は多くを語らなかった。けれど帆夏には、彼女がこうした記事を抑え、契約を守るためにどれだけ動いてきたのかが想像できた。
もし遥斗がこのタイミングで公開プロポーズをすれば、彼の商業価値は大きく揺らぐ。いくつかの広告は止まるかもしれない。事務所はすぐに、新人へリソースを移す可能性もある。
目の前のマネージャーは、誠実で、仕事に厳しく、遥斗をここまで支えてきた人だった。
一方の自分は、彼の光に巻きついて栄養を吸っている蔓のようだった。
その恥ずかしさに、帆夏は顔を上げられなかった。
帆夏は休みを取り、スマホの電源を切って、隅田川のそばに午後いっぱい座っていた。
ごめんね、まる太。
もし会場にいたら、きっと断れない。
だから、今日だけは行けない。
彼女は遥斗へ最後のメッセージを送った。
【山と山は、きっと出会わないほうがいい。過去を手放して、今を生きて。どうか幸せでいて】
送信したあと、帆夏はようやく決めた。
同僚に退職手続きのことを頼み、その夜のうちに雪見市へ戻った。
美咲は、ライブで起きかけた混乱を見事に収めた。最終公演は成功し、ネットでは神崎遥斗のファンサービスがすごいと絶賛された。最後に上がった花火は、ファンのために用意されたものだと言われていた。
花火には、FANの文字とハートが浮かんだ。
コメント欄には、同じ言葉が何度も流れていた。
【佐倉帆夏、臆病者】
帆夏はそれを見ながら、胸を見えない手で引き裂かれるような気がした。
画面はすぐに滲んで見えなくなった。
それから、二人の連絡は完全に途絶えた。
帆夏はたまにXのトレンドで遥斗の近況を見る。それが、唯一の慰めになっていた。
けれど、彼に関するニュースは少しずつ減っていった。
海外へ勉強に行ったらしい。
芸能活動を控えているらしい。
マネージャーと結婚したらしい。
そんな噂だけが、どこからともなく流れてくる。
どうやら本当に、それぞれの場所で生きていくしかないらしかった。
9.山は出会わない
二年が過ぎた。
少子化とオンライン授業の影響で、学習塾業界では合併や人員整理が増えていた。帆夏もとうとう教壇を離れ、地方グルメの発信をするアカウントを運営するようになった。
元塾講師が地方グルメを紹介するという仕事は、意外にも彼女に合っていた。
彼女は生徒のことも、普通の人の暮らしもよく知っている。安くておいしい店を温かく撮り、料理の裏にある小さな物語も丁寧に書いた。少しずつ、彼女の投稿を楽しみにしてくれる人が増えていった。
生活は、ようやく少しずつ整い始めた。
友人はときどき、彼女のスマホの待ち受けを見てからかう。
「帆夏って、こういう若いシンガー好きだったんだ。神崎遥斗の『君へ』、けっこういい曲だよね」
帆夏は画面の中の写真を見ながら、冗談めかして笑った。
「推しじゃないよ。私が勝手に夫認定してるだけ」
本当に付き合っていたことがあるなんて、誰が信じるだろう。
ある日、友人が新しくできた店を見つけた。
「最近、雪見ジンギスカンって店が話題になってるの。芸能人が出した店らしいよ。撮りに行ってみない?」
雪見ジンギスカン。
その名前を、帆夏が無視できるはずがなかった。
友人は急用で行けなくなり、帆夏が一人で先に素材を撮ることになった。
店に入り、注文を済ませ、彼女は撮ったばかりの動画を確認していた。鉄板の上では肉が音を立て、懐かしい炭火の香りが広がっている。
そのとき、誰かが向かいの席に座った。
帆夏は顔を上げた。
長い時間をかけてようやく静まったはずの心の湖が、一瞬で波立った。
忘れられなかった人が、目の前に座っていた。
二年前より少しだけ大人びている。けれど、その目元はあのころと変わらず優しかった。
「久しぶり、佐倉先生」
帆夏はスマホを握ったまま、長い間何も言えなかった。
山と山は出会わない。
それでも、人と人は、きっとまた出会える。
――完――




