第67話:図書室の静寂(リブート)
耳をつんざくような雷鳴と、網膜を焼くような白い光。
それらがふっと消えた瞬間、鼻をついたのは石鹸の匂いでも、馬の体臭でも、硝煙の香りでもなかった。
……古びた紙の匂いと、わずかな埃の香り。
「……っ、はぁ……っ!」
私は、冷たい床の上に倒れ込んでいた。視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
目の前にあるのは、重厚な石造りの壁ではなく、スチール製の本棚。そして、使い古された木製の閲覧机だ。
「……ジャンヌ? おい、生きてるか……?」
すぐ隣で、荒い息をつきながらルイが上体を起こした。
彼の格好は、煤けた革のベストではなく、シワの寄った白いワイシャツに、紺色のネクタイ。
手にはペンだこが残っているけれど、そこにあるのは剣の重みではなく、使い慣れたシャープペンの感触だった。
「……ルイ。……戻ったのね。私たち、本当に……」
私は、自分の服を見下ろした。
白い鎧は消え、そこにあるのは見慣れた学校の制服。
窓の外を見れば、フランスの空ではなく、夕暮れに染まる日本の地方都市の風景が広がっている。遠くで運動部の掛け声と、吹奏楽部のチューニングの音が聞こえてきた。
「……ああ。……計算通り、完璧なログアウトだ。現代の……いや、俺たちの日常に帰ってきたんだよ」
ルイは、震える手で眼鏡をかけ直し、図書室の時計を見上げた。
針は、あの日、雷が落ちた瞬間から数分しか進んでいない。
「……信じられないわ。あんなに長い間、戦場にいたのに。……パリを救って、王様を説得して、下水道まで作ったのに……」
「……歴史は書き換わったさ。……ほら、これを見てみろ」
ルイが、棚から一冊の分厚い『世界史図説』を抜き出し、中世フランスのページを乱暴に開いた。
そこには、私たちの知っている「悲劇の聖女」の物語はなかった。
【ジャンヌ・ダルク(1412-1490)】
百年戦争の英雄。パリ奪還後、異例の軍師「ルイ」と共にフランスの近代化を推進。公衆衛生の確立、教育改革、要塞建築の革新を行い、晩年は平和のうちにその生涯を閉じた。彼女の統治下でフランスは暗黒時代を脱し、「科学の母」と称される……。
「……あはは。……『科学の母』だってさ。……君、火あぶりどころか、大往生してるじゃないか」
ルイが、呆れたように、けれど心の底から嬉しそうに笑った。
高校生の彼が、難解な数式の証明を終えて、回答欄を埋め尽くした時のような、最高の達成感に満ちた表情だ。
「……ルイ。……ありがとう。……あなたがいてくれたから、私は……」
「……礼を言うのは、アイスを食べてからだって言っただろ?」
ルイは立ち上がり、私に手を差し出した。
その手は、かつて光の渦の中で握りしめた、あの温かくて頼もしい「相棒」の手だ。
「……さあ、行こうぜ、ジャンヌ。……歴史の修正はもう終わりだ。……これからは、宿題とテストに追われる、普通の高校生の毎日が待ってるぞ」
「……ふふっ。……軍師さんがいれば、赤点なんて怖くないわね」
私たちは、夕闇に包まれ始めた廊下を、二人並んで歩き出した。
歴史の教科書が語り得ない、誰も知らない「聖女」と「軍師」の放課後が、今、ここから始まろうとしていた。
Fin




