第4話:泥の匂いと、小さな掌
頬に触れる、湿った土の感覚。
鼻を突くのは、家畜の排泄物と、乾いた草が混じり合った野性的な匂い。
現代の日本には存在しなかった、生命の根源的な「泥臭さ」がそこにはあった。
「……っ……はぁっ!」
私は弾かれたように上身を起こした。
肺に流れ込んできたのは、驚くほど冷たく、そして澄んだ空気。
「ここは……どこ……?」
震える声で呟き、自分の手を見る。
そこにあったのは、スマートフォンの画面を叩いていた細い指でも、血に濡れた樹里の指でもなかった。
節くれ立ち、泥に汚れ、日焼けした……小さな子供の掌。
「戻って……きたの?」
周囲を見渡す。
そこは、石造りの粗末な小屋の裏手だった。
遠くでは、羊の鳴き声と、村人たちが互いを呼ぶ野太い声が響いている。
忘れもしない。
私の故郷、ドンレミ村だ。
「ルイ! ルイは!?」
私は必死に辺りを探した。
現代の路地裏で、私の腕の中で冷たくなっていった彼。
もし、私だけが戻ってきたのだとしたら。
あの地獄のような孤独を、また一人で歩まなければならないのか。
恐怖で心臓が早鐘を打つ。
「……じゅ……り…………?」
背後から、掠れた声がした。
振り返ると、そこには私と同じくらいの年齢……七、八歳ほどに見える少年が、地面に尻餅をついたまま呆然としていた。
ボロ布のような服をまとい、顔は泥だらけ。
けれど、その瞳には、現代の教室で私を見ていた「彼」の光が宿っている。
「ルイ……! ルイなの!?」
私は泥を跳ね飛ばしながら駆け寄り、彼の小さな体に抱きついた。
「い、痛いよ、樹里……。っていうか、ここ、どこだよ……。俺、刺されたはずじゃ……」
「よかった……本当によかった……!」
彼の胸に耳を当てると、トクトクと力強い鼓動が聞こえる。
生きている。
温かい。
私は、彼の鼓動を確認しながら、溢れ出す涙を止めることができなかった。
「落ち着けよ、樹里。……いや、今はジャンヌって呼んだ方がいいのか?」
ルイが、戸惑いながらも私の背中を小さく叩いてくれる。
「……知っているのね? 私が、ジャンヌ・ダルクだったこと」
「ああ。現代で一緒に世界史の授業受けてただろ。正直、信じられなかったけど……。でも、今の俺たちの格好を見て、この空気の匂いを嗅いだら……認めざるを得ないよ」
ルイは、自分の小さな掌を握ったり開いたりしながら、苦笑いを浮かべた。
「どうやら、俺たちは中世フランスに『逆転生』しちまったみたいだ」
その言葉に、私は涙を拭って立ち上がった。
そうだ。
感傷に浸っている暇はない。
ここからの歴史が、どれほど残酷で、どれほど救いがないか、私は誰よりも知っている。
イギリス軍の侵攻。
村を焼く炎。
そして、味方の裏切り。
けれど、今回は違う。
私の隣には、現代の知識を持ち、私を「一人の人間」として見てくれるルイがいる。
「ルイ。聞いて」
私は、彼の目を見据えて言った。
「私は二度と、あんな結末を迎えない。あなたを死なせないし、この国も、私の人生も、私が書き換えてみせる」
ルイは少し驚いたような顔をしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「……決まってんじゃん。現代で守れなかった分、今度は俺が君を守るよ。最強の騎士になってさ」
幼い二人の誓いが、フランスの空に溶けていく。
火刑台の終止符を打つための、本当の戦いがここから始まる。




