第30話:開戦の号砲(ドミノ倒し)
五月七日の夜明け。
霧が立ち込めるロワール川の河岸に、異様な静寂が広がっていた。
対岸にそびえ立つイギリス軍の要塞「トゥーレル砦」は、石造りの巨大な怪物のように、こちらの軍勢を威圧している。
「……緊張して、喉がカラカラだわ」
私は白い軍旗の柄を、指が白くなるほど強く握りしめた。
かつての人生で、私はここで矢を受け、土にまみれた。
その記憶が、冷たい汗となって背中を伝う。
「……水、飲むか? 糖分もしっかり摂っとけよ。脳が働かなくなったら終わりだからな」
隣で馬を並べるルイが、現代のスポーツドリンクを模した「蜂蜜と塩を混ぜた水」の革袋を差し出してきた。
彼の顔も、どこか青白い。
高校生の彼にとって、これは部活の大会どころではない、本物の命のやり取りなのだ。
「……ねえ、ルイ。本当に、あんな巨大な石壁が壊れるの?」
「……計算上は、いけるはずだ。物理の授業でやった『共振』の理屈だよ。……あそこの橋の継ぎ目、石が摩耗して少し隙間ができてるだろ? そこに、昨日作った特製の破城槌を、一定のリズムで叩き込むんだ」
ルイは、双眼鏡……などはないので、筒の先にレンズを嵌めた粗末な望遠鏡を覗き込みながら、震える声で続けた。
「……一発で壊そうとするな、って兵士たちには言った。……メトロノームみたいに、正確に。……橋の揺れが一番大きくなるタイミングで、一点を突く。……そうすれば、巨大な橋もドミノみたいに崩れるはずだ」
「……ドミノ。……ルイ、あなたの言葉は時々、魔法みたいね」
「魔法じゃないよ。……ただの『理屈』だ。……さあ、ジャンヌ。出番だぜ。……聖女様の一喝で、みんなのやる気を最大まで引き上げてくれ」
私は深く息を吸い、全軍の先頭へと躍り出た。
「――フランスの兵士たちよ! 神は、我らに勝利の『知恵』を授けられた!」
私は軍旗を高く掲げ、太陽の光をその白い鎧に反射させた。
「祈るだけでは門は開かない! だが、我らにはこの鉄の腕がある! 突き進め! オルレアンの呪縛を、今こそ断ち切るのだ!!」
「「「おおおおおっ!!」」」
地を揺らすような歓声とともに、フランス軍が動き出した。
先頭を行くのは、ルイが設計した「軽量・高速型」の破城槌を担いだ精鋭たちだ。
「……行けっ! リズムを合わせろ! ワン、ツー、スリー……突け!!」
ルイの鋭い号令が響く。
ドォォォォン!!
重い衝撃音が、砦の周囲に木霊した。
一度、二度。
イギリス兵たちが嘲笑いながら矢を放つが、ルイが工夫した「防弾(防矢)屋根」がそれを弾き飛ばす。
三度、四度。
そして、十数回目。
「……今だ! 最大の振幅が来るぞ!」
ルイが叫んだ瞬間。
バリバリ、と不気味な音が石造りの橋から響き渡った。
一点に集中し続けた振動が、ついに中世の堅牢な建築物を内側から破壊し始めたのだ。
「なっ……!? 橋が……橋が崩れるぞ!!」
イギリス兵の悲鳴が上がった。
轟音とともに、トゥーレル砦を支える重要な橋の一部が、まるで砂細工のように崩れ落ちていく。
常識ではあり得ない、理論による「奇跡」。
「……よしっ! 計算通りだ!!」
ルイが拳を突き上げた。
その顔は、難問を解き明かした時の、一人の高校生の輝きに満ちていた。
「……ジャンヌ、今だ! 突っ込め!!」
「ええ! ……全軍、突撃!!」
私は馬の腹を蹴った。
白い旗が、崩れゆく砦の煙の中へと、一直線に吸い込まれていった。




