第2話:放課後の静寂を切り裂いて
神城 樹里として生きる毎日は。
かつての戦場が嘘のように、穏やかで、満ち足りていた。
朝、目が覚めると白いシーツの匂いがして。
母さんが作る朝食の香りが、一階から漂ってくる。
学校へ行けば、友人たちが他愛もない流行り病の話ではなく、好きな音楽や、放課後の遊びについて笑い合っている。
「……平和だな、本当に」
教室の窓際、頬杖をつきながら私は小さく呟いた。
「また難しい顔してる。樹里は時々、おばあちゃんみたいな顔するよね」
隣の席でノートを広げていたルイが、クスクスと笑う。
この世界でのルイは、少しお調子者で、けれど誰よりも優しい少年だ。
私の前の人生……フランスの土にまみれたあの時代には、彼のような存在はいなかった。
常に死と隣り合わせで、信じられるのは神の声と、自分の剣だけ。
けれど今は、この少年が隣にいてくれるだけで、私の心は凪いだ海のように静かになれる。
「おばあちゃんじゃないよ。……ただ、この景色が綺麗だなって思っただけ」
「へえ、感傷的だね。じゃあ、その綺麗な景色のまま、今日の放課後はアイスでも食べて帰る?」
「賛成。一番大きいのを食べるから」
「あはは、食いしん坊なのは相変わらずだ」
そんな、なんてことのない会話。
教科書を開き、歴史の授業を聞く。
皮肉なことに、授業では「ジャンヌ・ダルク」の名が出てくることもあった。
『悲劇の聖女』
『救国の乙女』
教科書に載っている私の肖像画は、実物とは似ても似つかないけれど。
そこに記された「処刑」の二文字を見るたびに、胸がキリリと痛む。
けれど、今の私には関係のないことだ。
私はもう、戦わなくていい。
この平和な日本という国で、ルイと一緒に大人になっていく。
それが、神様が私にくれた「ご褒美」なのだと信じていた。
放課後。
夕陽が校舎をオレンジ色に染める頃。
私たちは約束通り、校門を出て駅へと続く道を通っていた。
「あ、近道しようぜ。駅前の大通り、工事中で混んでるし」
ルイが指差したのは、古いビルに挟まれた細い路地裏だった。
いつもなら、私は嫌な予感がして止めていたかもしれない。
かつての戦場での勘が、微かに警鐘を鳴らしていたはずだ。
けれど、十六年間の平和は、私の爪をすっかり丸くしていた。
「そうだね。早く行こう」
私は笑って、ルイの後に続いた。
薄暗い路地裏に入った、その時だった。
「――おい、お前ら。ちょっと止まれよ」
低い、濁った声が響いた。
行く手を塞ぐように立っていたのは、数人の男たち。
派手な服を着て、手には金属の棒や、鈍く光る何かを持っている。
「……っ、ルイ、下がって」
咄嗟に、私の身体が動いた。
女子高生の細い腕。
けれど、その内側で眠っていた「戦士」の鼓動が、ドクンと跳ねた。
「ははっ、女が前に出るのかよ? 勇ましいねえ」
男たちがニヤニヤと笑いながら距離を詰めてくる。
「……何の用だよ。カネなら、そんなに持ってねーぞ」
ルイが私を背中にかばうようにして、一歩前に出た。
その肩が、微かに震えている。
彼は戦士ではない。平和な時代に生きる、普通の高校生なのだ。
「カネじゃねえよ。ちょっとその女を貸せって言ってんだわ」
先頭の男が、懐からナイフを取り出した。
夕陽の届かない路地裏で、その刃が冷たく光る。
「……ふざけんな。樹里には指一本触れさせねえぞ」
ルイの声は震えていたけれど、その視線は真っ直ぐで、刺すように鋭かった。
「ああ? 生意気なんだよ、ガキが!」
男が、ナイフを振りかざして突進してくる。
「ルイ!!」
私の叫びが、狭い路地に反響した。
この時、私はまだ過信していた。
たとえ今の私が非力でも、ルイを連れて逃げることくらいはできると。
けれど、現実は無情だった。
鈍い音がして、ルイの身体が、崩れ落ちる。
「……あ…………?」
ルイが、自分の腹部を押さえて立ち尽くしている。
その指の間から、ドクドクと、鮮やかな赤色が溢れ出してきた。
「……じゅ……り…………」
ルイの瞳から、光が消えていく。
平和だった私の世界が、一瞬にして、あの火刑台と同じ地獄の色に塗りつぶされた。




