第1話:灰の中から見上げた空
熱い。
ただ、ひたすらに熱い。
肺の奥まで焦げるような煙が入り込み、視界は白く濁っている。
足元から這い上がってくる炎の舌が、私の肌を焼き、意識を削り取っていく。
ああ、これが私の最期なのだ。
「神よ……」
掠れた声で、私は呟いた。
広場を埋め尽くす群衆の罵声は、もう聞こえない。
かつて私を聖女と崇めた者たちが、今は私を魔女と呼び、その死を待ち望んでいる。
悔いは、ないはずだった。
フランスのために戦い、シャルル様を王座に就かせた。
私は、私の役割を果たしたのだ。
けれど、意識が遠のく中で、ふと思ってしまう。
もし――。
もしも、戦いなどない世界があったなら。
私がただの村娘として、誰かと笑い合い、誰かのために料理を作り。
穏やかな夕暮れを迎えられるような。
そんな、ありふれた幸せがある世界があったなら。
「あ……つ……」
熱さが痛みを通り越し、感覚が消えていく。
空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいるように見えた。
それが神の御手なのか。
それとも死が見せる、最期の幻覚なのか。
私はただ、その光の中に吸い込まれるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
……。
…………。
「――樹里……っ!」
「樹里、起きて! 予鈴鳴っちゃうよ!」
耳元で、聞き慣れない、けれど心地よい響き。
少年の声がした。
弾かれたように、私は目を開ける。
そこには、燃え盛る炎も、冷酷な審判官もいなかった。
代わりに視界に入ってきたのは、真っ白な天井。
そして、目の前で心配そうに私の顔を覗き込んでいる、一人の少年の姿だった。
「……ルイ?」
口から出たのは、かつての「聖女」のものとは違う。
高く、澄んだ、少女の声。
「そうだよ。また世界史の時間、寝てたでしょ。先生に目つけられてるんだからさ」
呆れたように笑う彼は、ブレザーという不思議な服を着ている。
窓の外を見れば、そこには石造りの城壁ではなく、ガラス張りの高いビルが建ち並んでいた。
空を飛ぶ、鉄の鳥。
地を駆ける、鉄の馬。
「ここ……は……」
「何言ってるんだよ。学校だよ。ほら、早く片付けないと置いていくぞ」
ルイが差し出してきた手を取る。
その手は、剣を握るための硬いタコなどなく。
温かくて、とても柔らかかった。
そうだ。
私は今、ジャンヌ・ダルクではない。
この平和な「現代」という時代を生きる、十六歳の女子高生。
神城 樹里。
それが、今の私の名前。
隣にいるのは、幼馴染のルイ。
私の前の人生にはいなかった、この世界で一番大切な、かけがえのない存在。
「……うん。行こう、ルイ」
私は彼の手を握り返し、立ち上がった。
火刑台の熱さは、もう遠い夢の彼方。
この時の私は、まだ知らなかった。
この穏やかな日常が、再びあの凄惨な戦火へと繋がっていることを。
そして、ルイを救うために。
私が再び「聖女」の旗を掲げることになることも。
放課後の廊下に、私たちの足音が軽やかに響いていた。




