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第9話 七日後、ルーカスは約束通りやってきた

-おじさんの薬草屋スローライフ-

 七日後の朝、ルーカスは約束通り一人で来た。

 それだけで、ガルドには大体のことがわかった。


 一人で来られるということは、少なくとも七日前よりは動けるようになったということだ。

 ライラに付き添われなくても、自分の足で歩いてこられたということだ。


「どうぞ」


 ガルドは椅子を引いた。

 ルーカスは七日前より、少しだけ顔色がよかった。

 土気色だった肌に、わずかに血の気が戻っている。

 目の焦点も、あの時よりはっきりしていた。


「飲みましたか」


「毎晩」とルーカスは言った。

「言われた通り、眠る前に」


「眠れましたか」

「……最初の三日は、あまり変わらなかった。四日目の夜に、久しぶりにまとめて眠れた」


「それは良かった」

「五日目から飯が食えるようになった。昨日は久しぶりに腹が減った」


 ルーカスは自分の手のひらを見た。

「腹が減るって、こんなに有難いことだったのか、と思った」


 ガルドは調合台を拭きながら、静かに聞いていた。

「仲間のことは」とルーカスは続けた。

「まだ、うまく整理できていない。夢を見る。起きたら胸が痛い。それは変わっていない」


「そうですね」

「でも」とルーカスは少し間を置いた。

「七日前は、朝が来るのが嫌だった。目が覚めるたびに、またこの重さと向き合わなきゃいけないと思って、それが嫌で仕方なかった。今は——朝が来ても、まあ仕方ないか、くらいには思える」


「それで十分です」とガルドは言った。

 ルーカスは顔を上げた。

「十分なんですか」


「一気に全部が解決するはずがないので。まあ仕方ないか、と思えるなら、次の一日が動けます。動ける一日が積み重なれば、少しずつ変わっていきます」

「……薬草屋なのに、そういうことも知っているんですね」

「五十二年生きていれば、色々あります」


 ルーカスは少し黙っていた。

 それから、ぽつりと言った。


「あんた、いい人だな」

「そんなことはないですよ」


「いや、いい人だ」とルーカスは繰り返した。

「ライラが連れてきてくれた時、正直、また異常なしで終わると思ってた。でも——話を聞いてくれた」


 ガルドは何も答えなかった。

 話を聞くのは、別に特別なことではない。

 でも、そう言われると少し困る。

 前世の田中誠も、人に感謝されると何と返せばいいかわからなかった。


 三十一年経っても、五十二年経っても、その点は変わらないらしい。


「薬の代金を」とルーカスは財布を取り出した。

「いくらか、わかりますか」


「ガルドさんが決めてください」


「では」とガルドは少し考えた。

「七日分で銅貨三枚です」

「安すぎませんか」

「薬草の原価ですから」

「人件費は」

「趣味みたいなものなので」


 ルーカスは苦笑した。

 七日前には見なかった表情だ。


「趣味で人を助けるのか」

「助けたかどうかはわかりませんよ。薬草が少し眠りを助けただけです」

「それで十分だと、さっき言いましたよね」


 言葉を返された。

 ガルドは少し黙ってから、頷いた。

「そうですね。では、銅貨三枚です」


 ルーカスは銅貨を三枚、丁寧にカウンターに置いた。


 ---


 ルーカスが帰り際に、扉のところで立ち止まった。

「もう一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「あの薬草——飲んでいる間、妙な夢を見たんです」

「妙な夢」


「緑色の光の夢です」とルーカスは言った。

「暗い場所にいたら、遠くから緑色の光が近づいてきて、それに触れたら身体が温かくなって——目が覚めたら、よく眠れていた、という感じで」


 ガルドは手を止めた。


「毎晩そういう夢を見ました」とルーカスは続けた。

「なんだったんだろうと思って」


「さあ」とガルドは言った。

「薬草の効果じゃないですか」


「薬草でそんな夢を見ますか」

「さあ」


 ルーカスはしばらくガルドの顔を見た。

 それから、まあいいか、というように頷いた。


「また来てもいいですか」

「薬草が必要な時はいつでも」

「それだけじゃなくても」

「お茶くらいは出せます」


 ルーカスは初めて、はっきりと笑った。

 七日前の、焦点の合わない目とは別人のような顔だった。


「ライラが言っていた。ガルドさんの店は落ち着くって」

「薬草の匂いのせいじゃないですか」


「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」とルーカスは言った。

「じゃあ、また」


 ルーカスが出ていった。

 ガルドは一人になった店の中で、しばらく動かなかった。


 緑色の光の夢。


 自分でも制御できていない、正体不明の何かが、夢の中にまで入り込んでいたとしたら

 ——それは少し、笑えない話だな、と思った。

 いや、笑えない話でもないか。


 誰かが眠れるようになったなら、結果としては悪くない。


「神様」


 天井に向かって呟いた。


「俺の才能の芽とやらは、どうやら夢の中にも出張するらしいです。把握していましたか」


 返事はなかった。


「把握していないですよね。あなたはいつも、そのはずだよ、しか言わないので」


 返事はなかった。


「まあ、誰かが眠れるようになったなら、いいことにします」


 ---


 その日の昼過ぎ、ベアトリスが来た。

 定期的に顔を出すようになって、もう二週間が経つ。

 今日は手に小さな革の本を持っていた。


「少しいいですか」


「どうぞ」


 ベアトリスはカウンターに本を置いた。

 古い文献らしく、表紙が擦り切れている。


「薬草に力を宿す能力について、古い記録を見つけました」


 ガルドは手を止めた。


「薬草師の中に、稀に現れる能力らしいです」とベアトリスはページを開いた。

「魔力とは別の、生命力に近いもの。植物の持つ力を引き出して、増幅させる。本人は無自覚なことが多く、長年薬草を扱い続けた人間に発現するケースがほとんどだと」


「長年、薬草を扱い続けた人間」


「五十年以上の記録が多いです」とベアトリスは静かに言った。

「ガルドさん、何年薬草屋をやっていますか」

「……三十年ほどです」


「それでも十分すぎるくらいです」とベアトリスは文献を指した。

「この記録によると、その能力を持つ者は、植物を通じて人の生命力に干渉できるらしい。傷の回復を早めたり、眠りを助けたり、心の消耗を和らげたり——」


 ガルドは黙って聞いていた。


「本人にも制御はできないことが多いと書いてあります。意識するかしないかに関わらず、関わった相手に自然と作用するらしい」とベアトリスは顔を上げた。

「心当たりがありますか」

「……少し」


「やっぱり」とベアトリスは小さく息を吐いた。

「ずっとそんな気がしていました」

「これは——危ないものですか」


「記録では、悪影響の報告は一切ありません」とベアトリスははっきり言った。

「むしろ逆です。この能力を持つ薬草師のいた村は、住民の平均寿命が周辺より長かったという記録が複数あります」


 ガルドは自分の手のひらを見た。


「名前はあるんですか、この能力に」


「古い言葉で『緑手』と呼ばれていたようです」とベアトリスは文献を閉じた。

「植物の力を宿した手、という意味らしいです」


 緑手。

 ガルドはしばらくその言葉を頭の中で転がした。


 才能の芽、と神様は言っていた。

 芽。植物。緑。


「神様」


 心の中で呟いた。

 声には出さなかった。

 ベアトリスがいるので。


「才能の芽というのは、文字通りだったんですね。洒落が利いているのか、単純なのか、判断に困ります」


 もちろん返事はなかった。


「ガルドさん」とベアトリスが言った。

「この文献、もう少し調べさせてもらえますか。あなたの能力について、記録しておきたいんです」

「俺が研究対象ですか」


「そうです」とベアトリスは遠慮なく言った。

「面白い事例なので」

「面白い事例」

「褒めています」


 ガルドは少し考えてから、頷いた。


「構いませんが、大げさにしないでください。静かに薬草屋をやっていたいので」


「わかりました」とベアトリスは言った。

 それから少し笑った。


「ガルドさんって、本当に目立ちたくないんですね」

「目立つ理由がないので」

「これだけの能力があれば、十分すぎる理由だと思いますが」

「五十二歳の薬草屋おじさんが目立っても、誰も得しませんよ」


 ベアトリスは少し黙ってから、また笑った。


「そういうところが、また面白いんですよね」


 ガルドには、その言葉の意味がよくわからなかった。


 ---


 夜、一人で調合台に向かった。

 緑手。

 自分の手のひらを見た。

 今夜も、念じると指先がかすかに温かくなる。


 光は相変わらず瞬きほどで消える。

 制御はできていない。

 でも——名前がついた。

 名前がつくと、少し実感が出てきた。


「神様」


 天井に向かって呟いた。


「才能の芽の名前がわかりました。緑手というらしいです。文字通りですね」


 返事はなかった。


「これを五十二年前に教えてくれていれば、色々違ったと思いますが」


 返事はなかった。


「まあ」


 ガルドは薬草の青い香りの中で、静かに言った。


「今からでも、遅くはないですかね」


 今夜の指先の光は、いつもより少しだけ、長く続いた気がした。


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