第3話 いつもと同じ朝のはずだった
-おじさんの薬草屋スローライフ-
翌朝も、ガルドは店を開けた。
昨夜は結局よく眠れなかった。
五十二年分の前世の記憶と、この世界の記憶が頭の中でぐるぐると混ざり合って、何度寝返りを打っても落ち着かなかった。
明け方近くにようやくうとうとしたと思ったら、いつもの時間にきっちり目が覚めた。
身体というのは正直なものだ。
五十二年間の習慣は、頭の混乱など一切忖度してくれない。
裏庭に出て薬草棚を確認しながら、ガルドは昨日のマーサの言葉を反芻していた。
膝がすーっと楽になった。
十年ぶりだ、と。
いつもと同じ薬草を、いつもと同じように量って、いつもと同じように包んだ。
変えたことといえば——手のひらに薬草を乗せた時に、なんとなく「楽になってくれ」と念じたことだけだ。
そんなことで変わるものなのか。
「変わるわけないよな、普通」
朝露に濡れた薬草の葉を指先で触れながら、独り言を言った。
五十二年間、魔力なしで生きてきた人間が、念じただけで薬草の効果が上がるなどという都合のいい話が——
指先が、かすかに光った。
緑色の、瞬きほどの光だった。
ガルドは固まった。指先を目の前に持ってきて、穴が開くほど見つめた。
もう光っていない。薬草の葉は普通の葉っぱだ。
朝露が光を反射しただけかもしれない。
見間違いかもしれない。
「……神様」
空に向かって呟いた。
「これ、どういうことか説明してもらえますか」
返事はなかった。
「才能の芽、とか言ってましたよね。まさかこれですか。五十二年間眠ってたんですか。薬草屋をやりながらずっと眠ってたんですか、この才能」
返事はなかった。
「怒っていいですか」
返事はなかった。
当然だ。
あの神様が都合よく出てくるわけがない。
きっと今頃どこかで「そのはずだよ」とか言いながら別の誰かを轢かれた車の前に立たせているに違いない。
「今更すぎる」
声に出すと、また怒りが込み上げてきた。
もし二十代で記憶が戻っていたら——前世の知識を活かして、薬の調合を研究できた。
この世界にない治療法を試せた。
魔力がなくても、知識で勝負できた。
もし三十代でも——まだ間に合った。
体力があった。野心があった。
四十代でも——あと十年あった。
でも今は五十二歳だ。
膝が痛い。
背中が丸い。
昨日の豆スープがまだもたれている。
「妻が生きていたら」
声が出た。
カミラ。
十年前に熱病で逝った妻。
あの時、もし転生の知識があれば——前世の医学の知識があれば——
「やめろ」
自分を遮った。
それを考えるのは反則だ。
取り返しのつかないことを悔やんでも、カミラは戻らない。
五十二年は巻き戻らない。
ガルドは目を閉じた。
田中誠として読んできた、あの小説たちを思い出す。
主人公たちはみんな若くて、チートで、無双して、仲間ができて、ハーレムがあって——
「羨ましいな」
思わず笑いが漏れた。
笑えた自分に少し驚いた。
笑えるじゃないか、まだ。
ガルドは深く息を吐いて、薬草棚の確認を再開した。
怒っても仕方がない。
出てきたとしても何も解決しない。
それだけははっきりしていた。
---
「おはようさん、ガルド」
一番乗りはやはりマーサだった。
今日は昨日より足取りが明らかに軽い。
本当に膝の調子がいいらしく、入ってくるなりにこにこしている。
皺だらけの顔が、心なしか昨日より若く見えた。
「おはようございます。昨日より顔色がいいですね」
「そりゃそうだよ! 膝が痛くないって、こんなに気持ちいいもんかねえ。久しぶりに朝から鼻歌が出たよ。ガルド、今日もあの薬草頼むよ」
「はい」
いつも通りに量る。
いつも通りに包む。
今日も手のひらに乗せた瞬間に、自然と念じていた。
楽になってくれ、と。
昨日は無意識だった。今日は意識した。
何かが違うのか、同じなのか、まったくわからない。
指先が光ったようにも見えたし、見間違いのようにも見えた。
「ねえガルド」とマーサが包みを受け取りながら言った。
「昨日あんたの薬草がよく効いたって近所で話したらさ、みんな興味持ってたよ。宿屋のおかみさんとか、鍛冶屋のおかみさんとか」
「余計なことを」
「いいじゃないか、商売繁盛で。あんた、もう少し商売っ気を持ちなさいよ」
マーサはけらけら笑いながら帰っていった。
その背中を見送りながら、ガルドは小さくため息をついた。
商売っ気か。
前世でも営業が苦手で、手取り二十二万円で終わったんだ。
この世界でも変わらないらしい。
---
マーサの予言通り、昼前から見慣れない客がちらほら来るようになった。
宿屋のおかみのベルタは、五十近い大柄な女性で、長年の腰痛に悩んでいると言った。
ガルドは腰痛に効く薬草を丁寧に調合しながら、また自然と念じた。
楽になってくれ、と。
「本当に効くのかしら」
とベルタは半信半疑な顔で包みを受け取った。
「効かなかったら返金します」
「まあ、そこまで言うなら」
鍛冶屋のおかみのグレタは、旦那の肩こりがひどいと言った。
鍛冶師というのは肩が命だからね、と心配そうに話した。
これも同じように念じた。よく効いてくれ、と。
夕方には、旅人らしき若い男が入ってきた。
日焼けして、目の下に隈がある。
腰に剣を佩いていて、冒険者のような雰囲気だ。
長旅で疲れているのが一目でわかった。
「傷薬はありますか。魔物に引っかかれて」
「見せてください」
左腕に、三本の引っかき傷があった。
深くはないが、端が赤くなっている。
少し化膿しかけているかもしれない。
ガルドは手早く傷薬を調合しながら、念じた。
治ってくれ、炎症が引いてくれ、と。
「塗り薬と、飲み薬を一緒に使ってください。三日で治まるはずです」
「ありがとうございます。いくらですか」
「いつも通りの値段です」
旅人は少し驚いた顔をした。
「随分安いですね。王都の薬師に頼んだら、もっと取られると思ってたんですが」
「腕がいいかどうかはわかりませんよ。ただの薬草屋です」
「ただの薬草屋がこれだけ手際よく調合できるものですか」
「五十二年やってれば誰でもできます」
旅人は苦笑しながら代金を置いて出ていった。
ガルドは一人になった店の中で、調合台の前に座ったまま、しばらく動かなかった。
今日だけで何人に念じた。
マーサ、ベルタ、グレタ、旅人——全員に対して、自然と念じていた。
意識する前に手が動いていた。
そしてその全員が、なぜかガルドの薬草を手に取った瞬間に、ほんの少し表情が柔らかくなった気がした。
気のせいかもしれない。でも——
「これが、才能の芽、というやつか」
呟いた。
五十二年間、薬草屋をやりながら、知らないうちに積み上げてきたもの。
人の痛みを見れば楽にしてやりたいと思う、その気持ち。
それが何かと混ざり合って——
「でも遅すぎるだろ、どう考えても」
独り言が増えた。前世を思い出してから、一人でいる時間が妙に賑やかになった。
頭の中に田中誠がいて、ガルド・ライナスがいて、二人でぶつぶつ言い合っている。
傍から見たら完全におかしいおじさんだ。
---
夜、店を閉めてから、ガルドは一人で調合台に向かった。
余った薬草を手のひらに乗せて、目を閉じた。
意識を集中する。
念じる。
何も起きない。
もう一度念じる。
指先が、かすかに温かくなった気がした。
目を開けた。
光っていない。
でも薬草の青い香りが、心なしか濃くなった気がする。
部屋の空気が、少しだけ変わった気がする。
「……わからん」
制御できているのかどうか、そもそも何をしているのかすら、まったくわからない。
効いているのかどうかも、他人に飲ませてみないとわからない。
仕組みも、原理も、限界も、何もわからない。
取扱説明書がほしかった。
「神様」
ガルドは天井を仰いだ。
「取扱説明書はありませんか。才能の芽の、正しい使い方の説明書。普通こういうのって、スキル画面とか、ステータス画面とか、そういうのが出るんじゃないですか。俺が読んできた転生小説では全部そうでしたよ。レベルアップの音が鳴って、光って、画面が出て——」
返事はなかった。
「ないんですね」
返事はなかった。
「そうですか。軽自動車で轢いた上に、説明書もなしですか。なかなかひどい神様ですね」
返事はなかった。
ガルドは薬草を置いた。
立ち上がって、腰を伸ばして、窓の外を見た。
王都の夜空に星が出ている。
この世界の星だ。
前世では見られなかった、魔素をわずかに含んだ夜空。
五十二年間、一度もちゃんと見上げたことがなかった気がする。
いつも下を向いて薬草を刻んでいた。
「まあ」
おじさんは星空に向かって、静かに言った。
「死んでないしな、まだ。それだけは確かだ」
薬草の青い香りが、夜の空気に静かに溶けていった。
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