第2話 神様、『すぐ』って言いましたよね?
-おじさんの薬草屋スローライフ-
目が覚めた瞬間、すべてを思い出した。
ガルド・ライナス、五十二歳。
薬草屋
妻は十年前に他界。
子供なし。
白髪交じり。
膝は雨の日に軋む。
そして——田中誠。
三十一歳
手取り二十二万円
軽自動車に轢かれて死んだ男
両方が、紛れもなく自分だった。
「……は?」
天井を見つめたまま、ガルドは固まった。
記憶が洪水のように押し寄せる。
前世の記憶——コンビニ、スマートフォン、満員電車、読み漁った転生小説——と、この世界の五十二年間が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って頭の中を駆け巡る。
一分経った。
五分経った。
十分経った。
ガルドはゆっくりと起き上がり、ベッドの端に腰かけて、自分の手を見た。
厚く、節くれだった、薬草屋の手だ。
若い頃からずっと薬草を刻んできた、この手。
「……すぐ、って言いましたよね」
誰もいない部屋に、掠れた声が響いた。
「神様。あなた確かに言いましたよね。目覚めたらすぐ、って」
返事はない。
「五十二年は『すぐ』じゃないですよね。どう考えても」
返事はない。
当然だ。
神様というのは、都合の悪い時には絶対に出てこないものらしい。
「俺の辞書では『すぐ』は長くても三日ですよ。五十二年は『すぐ』じゃない。どの言語でも、どの世界でも、どの辞書を引いても『すぐ』じゃない。断言できる」
壁に向かって訴えても、当然ながら神様は現れなかった。
ガルドは立ち上がった。腰が軋む。
膝が痛い。
五十二歳の身体は、朝一番から正直に現状を報告してくる。
窓を開けた。
王都の朝市が始まる喧騒が流れ込んでくる。
野菜売りの威勢のいい声、荷馬車が石畳を叩く音、どこかで鶏が鳴いている。
いつもと何も変わらない朝だ。
変わったのは俺だけか。
鏡を見た。
白髪交じりの、疲れた顔の男が映っている。
頬には深い皺、目の下には隈、昨日と同じ顔なのに今日は別の目で見ている。
これが転生者の顔か。
思い描いていた転生者とは、あまりにかけ離れていた。
読んできた小説の主人公たちは、みんな若かった。
十代だった。
チートスキルを振り回して無双して、美しい仲間たちと冒険していた。
俺は五十二歳だ。
膝が痛い。
腰も痛い。
昨日食べた豆のスープが胃にもたれている。
冒険どころか、階段を駆け上がっただけで息が切れる。
剣を振り回す体力もなければ、魔法学校に入学できる年齢でもない。
そもそも魔力なしの判定を十歳の時に受けている。
「今更、何ができる」
呟きは朝の空気に溶けて消えた。
しばらくそのまま窓の外を見ていた。
朝市の人々が行き交う。
荷物を担いだ商人、買い物かごを持った主婦、走り回る子供たち。
誰も俺のことなど気にしていない。
当然だ。
ここは転生小説じゃない。
主人公補正もなければ、運命の出会いが用意されているわけでもない。
ただの薬草屋のおじさんが、五十二年越しに前世を思い出しただけだ。
「神様」
ガルドは空に向かって呟いた。
「苦情を入れたいんですが、窓口はどこですか」
返事はなかった。
神様の対応は、一貫して最悪だった。
---
とりあえず、店を開けた。
現実逃避ではない——と思う。
五十二年間続けてきた習慣は、頭が大混乱していようとも身体が勝手に動くものだ。
裏庭の薬草棚を確認する。
束になったハーブを軒に吊るす。
調合台を固く絞った布で丁寧に拭く。
手を動かしていると、少し落ち着いた。
田中誠の記憶が、じわじわと染み込んでくる。
日本語の単語。
東京の雑踏。
コンビニの蛍光灯の白さ。
スマートフォンの滑らかな画面。
そして読んだ小説の主人公たち——みんな若くて、最初から何かを知っていて、俺とは何もかも違った。
羨ましいな、と思った。
笑えた。
笑えるじゃないか、まだ。
「おはようさん、ガルド」
暖簾をくぐってきたのは、近所の老婆マーサだった。
七十を超えているが矍鑠としていて、毎朝関節の痛みに効く薬草を買いに来る二十年来の常連だ。
皺だらけの顔に人懐っこい笑みを浮かべて、今日も変わらず元気よく入ってくる。
「おはようございます、マーサさん」
「なんだい、顔色悪いよ。昨日の豆スープか」
「……豆スープです」
豆スープのせいにしておいた。
転生の記憶が戻りましたとは言えない。
言ったところで、頭がおかしくなったと思われるだけだ。
いつも通りに薬草を量る。いつも通りに包む。
二十年間、毎朝繰り返してきた動作だ。
目を閉じていてもできる。
薬草を手のひらに乗せた瞬間——なんとなく、念じた。
意図したわけじゃない。
ただ、マーサの皺だらけの手を見て、少しでも楽になってくれ、と思った。
それだけだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとうよ」
マーサが帰っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ガルドは自分の手を見た。
何も変わっていない。
何も光っていない。
ただの、節くれだった薬草屋の手だ。
「……気のせいか」
呟いて、次の仕事に取り掛かった。
いつもと同じ朝だった。
何も変わっていないはずの、いつもと同じ朝——のはずだった。
---
その日の夕方、マーサが血相を変えて戻ってきた。
「ガルド! 今日の薬草、何か入れたかい!?」
「何も入れていませんよ」
「嘘おっしゃい! 飲んだら膝がね、すーっと楽になって、階段をスタスタ上れたんだよ! 十年ぶりだよ!?」
「……本当に、いつもと同じですよ」
マーサはじっとガルドの顔を見た。
疑っているのか、心配しているのか、よくわからない目だった。
「まあ……効いたんだからいいけどね」
帰り際、マーサは振り返って言った。
「ガルド、なんか今日、顔つきが違うね」
「そうですか」
「うん。なんていうか——目が、若い」
ガルドは何も答えなかった。
マーサが帰っていく。
夕暮れの石畳に、老婆の小さな影が伸びていた。
ガルドは調合台の前に座って、自分の手のひらをじっと見た。
何も起きない。
何も光らない。
でも——マーサの膝は、十年ぶりに楽になったらしい。
「……どういうことだ」
ガルドはしばらく、自分の手を見た。
昨日と同じ手だ。
でも薬草を調合しながら、なんとなく「もっとよく効いてくれ」と念じた気がする。
まさか。
「……まさかな」
ガルドは店の奥から、余った薬草を一掴み取り出した。
手のひらに乗せて、目を閉じる。
効け。
もっとよく効け。
念じた瞬間——手のひらが、かすかに緑色に光った。
薬草の青い香りが、ふわりと濃くなった。
「…………」
長い沈黙
「遅いわ!!!!」
王都外れに、おじさんの慟哭が響いた。
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