第13話 森というのは、なかなか正直な場所だった
-おじさんの薬草屋スローライフ-
出発は夜明け前だった。
ガルドが店の前に出ると、ライラはすでに来ていた。
冒険者装備に身を包んで、大きな背負い袋を持っている。
灰色の耳がぴんと立っていて、朝の冷たい空気の中でも顔色がいい。
獣人というのは朝に強いらしい。
「早いな」とライラが言った。
「早く起きる習慣なので」
「支度はいいか」
「はい」
ガルドは薬草採取用の道具一式と、いつもの薬草鞄を持ってきた。
鞄の中には応急処置用の薬草も入れてある。
念のため、少し多めに。
「重くないか」とライラが鞄を見た。
「慣れています」
「無理するなよ、おじさんなんだから」
「おじさんで結構です」
ライラはくっと笑って、歩き始めた。
ガルドはその後ろをついていった。
王都の夜明け前は静かだ。
石畳の上に靴音だけが響く。
パン屋だけが早くから動いていて、どこかから焼き立てのパンの匂いが流れてきた。
前世の記憶が囁いた。
コンビニのパンとは違う、本物の焼き立ての匂いだ。
「腹減ってるか」とライラが言った。
「少し」
「途中で食べよう。出る前に買ってきた」
背負い袋から、包みを取り出した。
焼き立てのパンだった。
「パン屋に頼んで朝早く作ってもらった」とライラは言った。
「あんたが早起きだと思って」
「気が利きますね」
「当然だ」
ガルドはパンをかじった。
外はさくっとしていて、中は柔らかい。
素朴な塩味で、歩きながら食べるのにちょうどいい。
「美味いか」
「美味いです」
「よかった」
ライラは満足そうに前を向いた。
灰色の尻尾がゆっくりと揺れている。
こういう人だな、とガルドは思った。
豪快で、遠慮がなくて、でも細かいところに気が回る。
昨日の重い雰囲気は、今朝はほとんど見えなかった。
切り替えが早いのか、それとも——昨日、少し吐き出せたからか。
どちらでもいい。
今朝のライラが軽い足取りなら、それでいい。
---
王都を出ると、道は緩やかな坂になった。
両側に畑が広がって、遠くに森の緑が見えてくる。
朝日が出始めて、草の上の露が光った。
空気が冷たくて、澄んでいた。
「綺麗ですね」とガルドは言った。
「毎朝こんな感じだぞ、冒険者は」とライラが言った。
「羨ましいか」
「羨ましいというより——新鮮です」
「薬草屋はあまり外に出ないのか」
「店を空けられないので。こうして遠出をするのは、久しぶりです」
「何年ぶりだ」
「妻が生きていた頃に、一度だけ遠出をしたことがあって——二十年くらい前ですね」
ライラは少し黙った。
「カミラさん、といったか」
「よく覚えていますね」
「あんたが話した名前は、ちゃんと覚えてる」とライラは言った。
「どんな人だったんだ」
ガルドは少し考えた。
「気が強くて、よく笑う人でした。俺が口下手なのを、ずっと面白がっていました」
「似合いそうだな」とライラは言った。
「あんたの口下手を笑ってくれる人は、傍にいた方がいい」
「そうですかね」
「そうだ」とライラはきっぱり言った。
それ以上は追及しなかった。
---
森に入ったのは、出発から二時間ほど後だった。
深い森ではない。
木々の間から光が差し込んでいて、足元もよく見える。
鳥の声があちこちから聞こえた。
ガルドは森に入った瞬間、足を止めた。
「どうした」とライラが振り返った。
「少し——」
うまく言えなかった。
森の空気が、身体に馴染む感じがした。
薬草の匂い、土の匂い、木の葉の匂い。
それが全部、一気に流れ込んできた。
前世の田中誠は森など歩いたことがなかった。
でもガルド・ライナスの身体は、植物の匂いを知っていた。
三十年以上、毎日薬草と向き合ってきた身体が、今森の中で、何かに反応している。
指先が温かくなった。
じわじわと、指先から手のひらへ、手のひらから腕へ。
「ガルド?」
「大丈夫です。少し歩きましょう」
歩き出しながら、ガルドは周囲を見回した。
薬草が見える。
様々な種類の薬草が、森の中に自然に生えている。
当然と言えば当然だが、今日は何かが違う。
いつもより——鮮明に見える気がした。
どの草が何で、どんな効果があって、どのくらい育っているか。
普段より、情報が流れ込んでくる感じがした。
「あれはカモミールですね」とガルドは少し離れた場所の草を指した。
「そんな遠くから見えるのか」とライラが目を細めた。
「今日はなぜか、よく見えます」
「なぜか、か」とライラは少し笑った。
「森に来たからじゃないか。あんたの力って、植物に関係してるんだろ。ベアトリスがそんなことを言ってた」
「ベアトリスさんと話したんですか」
「この間、ギルドで会った。あんたの研究をしているらしい」とライラは言った。
「緑手、とか言ってたな。森に来たら、いつもより強く出るんじゃないか」
ガルドは自分の手のひらを見た。
光ってはいない。
でも温かい。
森に入ってからずっと、温かいままだ。
「神様」
心の中で呟いた。
「森に来たら、なんか変になりました。把握していましたか」
もちろん返事はなかった。
「把握していないですよね。いつも通り」
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採取は順調だった。
というより——順調すぎた。
ガルドが「あそこに何がある」と言うたびに、ライラが確認すると本当にその通りだった。
遠くの茂みの陰に隠れた薬草、岩の下に生えた珍しい草、普通は見つけにくい場所にあるものまで、今日のガルドにはなぜかわかった。
「これは——普段もこうなのか」とライラが三度目の確認をしながら聞いた。
「いいえ、今日だけです」
「やっぱり森のせいだな」
「そうかもしれません」
「面白いな」とライラは笑った。
「あんた、冒険者向きじゃないかと思ってたが、こういう才能があるなら、採取系の依頼なら無双できるぞ」
「五十二歳で無双は体力的に無理です」
「それもそうか」
二人で笑った。
採取しながら歩いていると、ライラが急に立ち止まった。
耳がぴんと立って、周囲を見回した。
「どうしました」とガルドが言った。
「何かいる」とライラは低い声で言った。
「魔物の気配じゃない。小さい動物だ。でも——変だな」
ライラがゆっくりと茂みに近づいた。
ガルドもついていった。
茂みの中に、小さな動物がいた。
リスのような、でもリスより少し大きい。
この世界特有の魔素を帯びた小動物で、尻尾が二本ある。
前足を庇うようにして、動けずにいた。
「怪我をしているな」とライラが言った。
前足に傷があった。
何かに引っかかれたのか、小さな切り傷から血が滲んでいる。
ガルドはしゃがんだ。
小動物は逃げなかった。
警戒した目でガルドを見ていたが、逃げなかった。
「怖くないですよ」とガルドは小声で言った。
動物に言葉が通じるとは思っていない。
でも自然と出た言葉だ。
ゆっくりと手を差し伸べた。
小動物はじっとしていた。
手のひらが、じわりと温かくなった。
緑色の光が、今日は少し長く続いた。
森の中だからか、いつもより安定している気がした。
薬草を取り出して、傷に当てた。
念じた。治ってくれ、と。
しばらくそうしていると、小動物が前足をそっと動かした。
痛みが引いてきたのかもしれない。
「治るか」とライラが後ろから覗き込んだ。
「小さな傷なので、大丈夫だと思います」
「あんた、動物相手でもやるんだな」
「目の前にいるので」
「それがあんただよな」とライラは静かに言った。
小動物はしばらくガルドの手のひらの上にいた。
それから、ゆっくりと茂みの奥に消えていった。
二本の尻尾が揺れて、見えなくなった。
「よかったな」とライラが言った。
「そうですね」
「さっき、手が光ってたぞ」
ガルドは振り返った。
「見えましたか」
「緑色の光。ほんの少しだけど」とライラは言った。
「きれいだったぞ」
ガルドは自分の手のひらを見た。
もう光っていない。
でも、まだ少し温かかった。
「神様」
心の中で呟いた。
「動物にも効くんですね、これ」
返事はなかった。
「把握していましたか」
返事はなかった。
「まあ、していないですよね」
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帰り道、二人は並んで歩いた。
採取袋はずっしりと重くなっていた。
今日だけで、普段の三倍は採れた。
ライラはそれを見て、依頼達成報酬が増えると嬉しそうに言った。
「ガルドにも分けるぞ、報酬」
「俺は薬草をいただければ十分です」
「遠慮するな」
「遠慮ではなく」
「受け取れ」
有無を言わさぬ口調だった。
このやり取りも、最近定番になってきた。
夕暮れが近づいて、空が橙色に染まってきた。
王都の屋根が遠くに見えてきた。
「楽しかったか」とライラが聞いた。
ガルドは少し考えた。
森の空気。
薬草の匂い。
指先の温かさ。
怪我をした小動物。
ライラと並んで歩いた道。
「楽しかったです」と正直に言った。
「なら、また来よう」
「また採取依頼があれば」
「依頼がなくても来よう」とライラは言った。
「あんたにとって、森はいい場所だと思う。緑手が、喜んでいた気がした」
緑手が喜ぶ。
その言葉が、なぜか胸に残った。
五十二年間、知らなかった自分の一部が、今日初めて、のびのびと動いた気がした。
「神様」
歩きながら、心の中で呟いた。
「今日は悪くなかったです」
返事はなかった。
「素直に認めますよ、たまには」
返事はなかった。
「でも五十二年は遅すぎましたけどね」
それだけは譲れなかった。
王都の灯りが、夕暮れの中に灯り始めていた。
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