第1話 トラックじゃなくて軽自動車でした
-おじさんの薬草屋スローライフ-
死んだ。
それだけははっきりわかった。
雨の夜だった。
残業を終えて会社を出たのが午後十一時過ぎ。
駅前のコンビニでからあげ棒を一本買って、ビニール袋をぶら下げながら傘もささずに走っていた。
明日の朝イチの会議に必要な資料を、自宅の机の上に置き忘れてきたことに気づいたのは、ちょうど大きな交差点の手前だった。
舌打ちをした。
青信号を確認した。
渡った。
右折してきた車が、田中誠の左側面に突っ込んできた時——気づいた時には、もう遅かった。
光。衝撃。アスファルトの冷たさ。雨の音。
それから——何もなかった。
田中誠、三十一歳。独身。
都内の中小企業勤務、手取り二十二万円。
彼女なし。
自宅は最寄り駅から徒歩十二分の六畳一間の安アパート。
冷蔵庫の中には賞味期限ギリギリのプリンが一個だけ入っていた。
趣味は異世界転生小説を読むことと、週末に近所の公園のベンチでぼんやりすること。
特に取り柄もなく、特に不満もなく、何かを成し遂げたわけでもない。
どこにでもいる普通の会社員の、何とも締まらない人生の幕引きだった。
食べかけのからあげ棒は、横断歩道の上に転がったままになった。
「やあ」
声がした。
白い空間だった。
床も天井も壁もなく、ただ白だけがある。
温度もなく、風もなく、音もない。
目の前に——なんとも言えない存在が立っていた。
老人のようでもあり、子供のようでもある。
背が高いような、低いような。顔立ちははっきりしているのに、目を離した瞬間に忘れてしまいそうな顔だ。
強いて言えば「神様っぽいもの」が、どこか申し訳なさそうに微笑んでいた。
「まず謝らないといけないね」
「……死にましたか、俺」
「うん。ごめんね。痛かったね」
「トラックですか」
散々読んできた異世界転生小説の展開が頭をよぎった。
トラックに轢かれて異世界転生——お約束の展開だ。
まさか自分がその立場になるとは思っていなかったが、こういう場所に連れてこられたということは、つまりそういうことだろう。
神様は少し目を逸らした。
「……軽自動車でね」
「軽自動車」
「うん」
「トラックじゃなくて」
「軽自動車。しかも三十キロも出てなかった。右折の時に雨で視界が悪くて、気づくのが遅れてしまって——本当にごめん」
田中誠は三秒ほど沈黙した。
「……運転手は」
「無事だよ。擦り傷程度。ただ君が頭を強く打ってしまって。タイミングが悪かった。本当に申し訳ない」
「嘘だろ」
頭を打って死ぬのか。
時速三十キロの軽自動車に。
からあげ棒を持ったまま。
それが田中誠の、この世界での最後の言葉だった。
---
「せめてものお詫びに」と神様は続けた。
「異世界に転生してもらおうと思う。魔法のある、剣と冒険の世界だよ。君にはそこで、新しい人生を生きてほしい」
田中誠の中で、何かが燃え上がった。
転生、異世界、魔法、冒険——読んできた小説の知識が一気に走る。
「才能の芽も持たせてあげるよ。君がいた世界では開かなかった可能性を、向こうで開いてほしい。きっと楽しい人生になると思う」
「チートスキルですか」
神様は少し困った顔をした。
「……芽、ね。最初から大樹ってわけじゃないけど、ちゃんと向き合えば必ず花開く才能だよ。それは保証する」
「まあいいです。それで記憶はどうなりますか。前世の記憶を持ったまま転生できますよね。知識チートは転生者の基本なので」
「もちろん」と神様は頷いた。
「目覚めたらすぐに思い出せるようにしておくよ」
「すぐ、ですね」
「うん、すぐ」
「絶対すぐですね。すぐというのは転生してすぐ、という意味ですよね」
「そのはずだよ」
――――そのはず。
田中誠は異世界転生小説を読み過ぎていたせいで、この手の神様との約束に疑いを持たなかった。
神様が言うなら大丈夫だろう。
後から思えば——「そのはずだよ」という言葉の、なんとも言えない曖昧さに気づくべきだった。
断言じゃない。
保証じゃない。
「そのはず」だ。
「赤ちゃんからだよ。普通の赤ちゃんとして生まれて、目覚めたらすぐに前世の記憶が戻るから、あとは自由に生きて。楽しんできてね」
「わかりました。よろしくお願いします、神様」
「こちらこそ。……本当にごめんね」
最後まで申し訳なさそうな神様だった。
白い光が、田中誠をゆっくりと包んでいく。
意識が遠くなる。眠くなる。
からあげ棒、食べかけだったな、などとどうでもいいことを考えながら——田中誠は、静かに目を閉じた。
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そして。
五十二年が、過ぎた。
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王都の外れに、小さな薬草屋がある。
間口の狭い、古びた店だ。
看板は雨風で少し色が褪せていて、軒先には乾燥させた薬草の束がいくつも吊るされている。
朝になると木の扉が開いて、白髪交じりの店主が調合台の前に静かに座る。
店主の名はガルド・ライナス。五十二歳。
背中が少し丸くなっていて、雨の日には膝が軋む。
顔の皺は深いが、人が良さそうな目をしている。
愛想がないわけではないが、積極的に話しかけるタイプでもない。
どちらかといえば、静かに話を聞く側の人間だ。
妻は十年前に熱病で亡くなった。
子供はいない。
毎朝薬草を刻んで、煎じ薬を作って、常連客と短い世間話をして、夜は一人で豆スープを食べて眠る。
どこにでもいる、普通のおじさんだ。
その男が——ある朝、突然すべてを思い出した。
前世の記憶が。
五十二年越しの「すぐ」が、ようやく——何の前触れもなく、くたびれた木製のベッドの上で、訪れた。
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