2−1
私が好きになるものは、どうしてか、みんな壊れてしまう。
小さな頃に抱いて眠ったお人形。
風を切って走った赤い自転車。
お気に入りのリボンの髪飾り。
そして――ママ。
直そうと願っても、戻らない。
壊れるだけ。捨てられるだけ。
その先には、何も残らない。
◆◆◆
目を覚ました瞬間、違和感。右のまぶたがずしっと重い。
鏡をのぞくと……腫れてる。まんまるに。――蚊か! なんで顔なんだよ! 他にいくらでも刺す場所あるだろ!
そんな状態で出社したら、あの九条さんが、席に着くなり「ぶっ」と吹き出した。
え、笑った……? え、あの人が? 貴重すぎる……。たまにはこんな朝もいいか――
「って、なるかーっ!」
自分に突っ込みながら椅子に深く座り直す。
私は山木胡桃、二十四歳、独身。去年『御厨リゾート』に新卒入社して、総務部総務課を経て、今は人事部調査課に配属されている。
本社勤務は私と九条さんの二人だけ。他のメンバーは全国に散らばって出張中。顔すら見たことがない人ばかりだ。
「なにを鏡に向かって百面相している」
背後から、冷えた声が落ちてくる。
九条静さん。社内では“王子様”扱いされてるけど、実際は冷酷無比の毒舌パワハラ鬼上司だ。
「薬が塗れなくて、なかなか腫れが引かないんです。それに痛痒い……」
「番町皿屋敷だな」
「誰がお岩さんですか!」
「まあいいじゃないか。どうせ誰も気にしないだろう」
「……(気にしろ!)」
そんなやり取りをしていたところで、突然――。
「おー、おつかれさーん!」
元気すぎる声と共に、給湯室の方から長身の男性が入ってきた。茶色がかった髪を後ろでひとつに束ね、がっしりとした体格。笑えば八重歯がのぞき、妙に親しみやすい雰囲気をまとっている。
(ーー誰?!)
思わず凝視。こんな人、社内にいたっけ?
「おー、なんやなんや。めちゃくちゃ美人がおるやん」
そして、関西弁……。
「そいつが、明生だ」
九条さんが、男性を指す。
私はやっと理解した。
明生陽稀さん。彼も調査課の社員だ。
「……直接お会いするのは、初めましてですね。山木胡桃です」
「胡桃ちゃん、会いたかったで〜!」
唐突にがばっと抱きしめられる。うわ、近い! え、これセクハラじゃ……? いや、この人、距離感おかしい……。
「静ちゃんも久しぶりやなぁ〜! 元気しとったかー?」
明生さんが手を振る。対する九条さんは、いつもの無表情。
「煩い」
「そう言わんといてぇ。ずっと会いたかったんやで?」
(げっ)
今度は私から離れ、九条さんに抱きついた。
この人すごい、命知らずだ……。
それとも、中身はアメリカンなのか?
「白々しいな。東京には行きたくないと、いつもごねてただろ」
「東京は人が多すぎてアカンねん。鬱陶しくてたまらんわ」
「俺はお前が鬱陶しい」
「またまた〜、ほんま相変わらずツンデレやなぁ!」
まあ、たぶん。彼らは親しい間柄なのだろう。
鬱陶しいと言いつつ、彼のボディタッチをさらりと受け流している。
「――で、どうしてその“鬱陶しい”東京にわざわざ戻ってきた?」
「今回の調査、ちょっとしんどくてなぁ。一ヶ月の休暇を申請したら、部長が“本社に戻ってこい”言うてな」
「当然だ。お前、どうせ申請しなくても勝手に休んでるだろうが」
「まあまあ。それがな、次の調査先ももう決められてて、“そこに行け”言われたんや。それなら東京に戻ります〜って」
「あの……」
思い切って右手を上げる。
「明生さんは、地方でどんな調査をされていたんですか?」
「どんな調査?」
「社員の横領調査とか、不倫調査とか、職場のいじめ調査とか?」
大真面目に聞いているのに、明生さんは私じゃなく九条さんを見た。
「……もしかして、この子、俺らのこと知らんの?」
「私、おかしな話こと言いました?」
「そりゃー、横領、不倫、いじめって……」
沈黙が流れた。
これって、そんなに珍しい問題?
「私、この部署に異動してきてからまだ五ヶ月目なんですけど……。本社でその三つが全部重なった大騒動があったんですよ。ちゃんと解決はしましたけど」
「ぶっ」
明生さんが盛大に吹き出す。
あれ? なんか空気が変わった……。
「つまりアレやな。胡桃ちゃんは、静ちゃんと一緒に、横領と不倫といじめをまとめて解決したわけや」
いや、なんで繰り返すの。
「ほー……。なるほどなぁ……。ほー……」
「お前、本当に鬱陶しいな。さっさと部長のところへ行ってこい」
九条さんが、明生さんをぎらりと睨む。
あ。この目つき、冗談じゃなくて本気のやつだ。
「せやった。ほな、胡桃ちゃん、また後でな〜。あ、これ土産や。静ちゃんと一緒に食べてな〜」
殺気を察知して、バタバタと去っていく明生さん。
……嵐が過ぎ去ったみたいだった。
◆◆◆
紙袋をのぞき込むと、ふわっと甘い香り。
「あ、萩の月だ〜」
仙台の定番土産。ノリは軽いのに、こういうとこはちゃんとしてる。
箱を取り出すと、九条さんがすっと横から手を差し出してきた。
「ん」
「ん?」
「一個くれ」
言われるまま渡すと、無言で席へ戻って食べ始める。
(へー、甘いもの好きなんだ……ちょっと可愛いかも)
なんて思いながら、私も一つ口に入れ、緑茶が欲しくなって給湯室へ。
コーヒーや紅茶も飲むけど、和菓子には緑茶が絶対不可欠だ。
「明生さん、相変わらずカッコいいよねー」
廊下まで声が漏れている。
先客が二人いた。彼女たちも同じ萩の月を持っている。
(――明生さん、配って回ってるんだ)
「えー、私は九条さん派だよ」
「九条さんって超絶イケメンだけど、近寄りがたいし……私は断然明生派かな」
「でも百瀬君もいいよね。本社にはほとんど来ないけど」
「わかる。子犬みたいで超可愛い」
百瀬さん……名前だけは知ってるけど、会ったことないなあ。
キャッキャキャッキャ話している二人の空気に割って入れず、給湯室の順番待ちをしていると。
「胡桃ちゃん、そんなところで突っ立って何しとるん?」
背後から声が飛んできて、びくっとなる。
「明生さん、あ……えっと、お茶を入れようと思ったんですけど、先客がいたので順番待ちを……」
「あの、私たち、もう入れ終わったので……」
女子二人はそそくさと退室。……気まずい。
「部長との話は終わったんですか?」
「終わったで。大した話やないしな。とりあえず、勤務日にはちゃんと出社せえって。それで一ヶ月の休暇はなしや」
肩を竦めておどけたポーズ。
そりゃあ、外資系じゃないんだから一ヶ月の休みなんて取れないよね。普通は……。
自分の分と明生さんの分、ついでに九条さんの分のお茶を入れる。
湯呑みから立ち上る湯気が、給湯室の蛍光灯の明かりにふわりと揺れた。
「胡桃ちゃん、いつもそんなに静ちゃんの世話焼いてるん?」
「お茶なんて滅多に入れませんよ。うちの会社は女子にお茶くみさせるの禁止なんで」
大昔は女子事務員と言えば、お茶くみとコピー取りが仕事だったという時代があったらしいが、そんなものはもはや伝説だ。
「ほー、前に居た子は、毎日静ちゃんにお茶を入れて、机の掃除までしてたらしいで」
「机の掃除?!」
思わず声が裏返る。
「椅子までピカピカに磨いて、弁当まで作ってきたとか……」
「は……初耳です。それ、九条さんが命令したんですか?」
「いやいや、鬱陶しいって言うて、その子は一週間で元の部署に戻されとった。それから、調査課に女子はいらんて静ちゃんが言うて、しばらく事務員はおらんかったんよ」
机周りの清掃や整理は、各々の仕事の一つという認識。
弁当に至っては……自分のだって、ごくたまにしか作ったことがない。
……というのは正解だったのか?!
「私、去年入ったばかりなので前の事情は知りませんでした」
「いやー、ほんま助かってるよ。今までは全部自分でせなあかんかったからな」
「そうですか。良かった。私、調査課の役に立ってるのかなって、心配してたんです」
「十分、役に立ってるで。事務員の人がいるとほんま助かるわー」
紙コップを揺らしながら廊下を歩き、部屋に戻る。
すると九条さんは、受話器を肩に挟み、低い声で誰かと話していた。
机の上に置いた湯呑みの横顔は、眉間に皺を寄せ、目元が鋭い。
その雰囲気に、給湯室のぬるい空気が一瞬で張り詰める。
「……お前の代わりに、北海道に行くことになった」
「おー、そりゃすまんねぇ。ほな、俺は胡桃ちゃんとお留守番やなぁ」
明生さんが、のんきに笑いながら自分の席に腰を下ろす。
「明後日から一週間の予定だ」
なんで私に向かって言う? と、思ったが。
ああ、飛行機やホテルの手配を頼むってことですね。
「わかりました。お気をつけて」
社交辞令のような笑顔を向けると、切れ長の目でじろりと睨まれる。
「アホ。お前も一緒に行くんだ」
「え?!」
やばい。思考が固まった。
明生さんが「ちょっと待った!」と間に入る。
「胡桃ちゃんを現地調査に同行させる気?」
「良い機会だ。俺たちの仕事がどんなものか教えてやる」
反論しづらい低い声。拒否できない威圧感。
……こうして私の人生初出張は、唐突に決まったのである。