4−3
荷物を置いて一息ついたら、約束の時間。
私はロビーへと戻った。
ソファに腰をかけていた百瀬さんが、私を見るなり手を振る。
「おっ、来た来た! 遅刻しないなんて優秀だね、クルミン」
「当たり前です。社会人ですから」
「いやあ、さっき部屋で爆睡して寝過ごすんじゃないかと心配してたんだよね」
「どんな信用のなさですか……」
軽口を叩き合っているうちに、支配人の喜林さんが現れた。
「お待たせいたしました。では、ご案内いたします」
案内されたのは、エレベーターの奥にある少し古めかしい扉。
中に入ると、壁の鏡や木目のパネルがやけに昭和レトロな雰囲気を漂わせていた。
「六階の大広間でございます」
喜林さんが階数ボタンを押す。
カタン、と音を立ててエレベーターが上昇を始める。
小さな箱の中に、私と百瀬さん、そして支配人。
ぎゅうっと胸の奥がざわついた。
「ねえクルミン、大広間って聞いて何想像してる?」
百瀬さんが不意に話を振ってくる。
「え、結婚式とか、新年会とか……ですか?」
「おしい! でも今回はお祓い会場だよ」
「お祓い……会場……?」
そんな言葉、初めて聞いた。
私が眉をひそめると、百瀬さんはにやりと笑って答えをはぐらかす。
チン、と軽い音がして、扉が開いた。
目の前に広がったのは、昭和のまま時間が止まったような広間だった。
磨かれた床、古びたシャンデリア、そして一面に並ぶ畳。
まるでホテルの最上階だけ異空間にすり替わったみたいで――私は思わず息をのんだ。
大広間の中に一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
ぴり、と肌が刺すような感覚。背筋を冷たいものが走る。
畳の上には、所狭しと人形や札が並べられていた。
木彫りの小さな童子像、墨で呪文のような文字が書かれた札、五色の紙垂を吊るした縄。
まるでここ一帯が「もう一つの世界」に閉じられているみたいだった。
広間の中央には九条さんと明生さんがいた。
二人は正座して向かい合い、淡々と札を掲げては床に打ちつけるように置いていく。
札が一枚ごとに淡く光り、畳に円を描くように結界が広がっていく。
(……え? なに、あれ……黒い……)
視界の端に、もやのようなものが漂っているのに気づいた。
薄暗い影がゆらゆらと漂い、ところどころ人の形にも見える。
耳を澄ますと、低い呻き声や恨み言のような声まで――。
「いやっ……」思わず声が漏れそうになる。
隣の百瀬さんがひそやかに囁いた。
「大丈夫。ここ、大広間には結界が張ってある。中に入れば、大抵の人間は“霊”を見たり感じたりできるんだ」
「……普段は何も感じないのに……」
自分の声が震えているのがわかる。
「それだけ強い結界ってこと。言わば“強制的に霊感をオンにされる場所”だね」
なるほど、理屈は理解した。
でも理解したところで、今目の前に見えている黒い影や、耳に突き刺さる怨嗟の声は消えない。
結界に守られているはずなのに、むしろ逃げ場がなくなったみたいに感じる。
広間の奥で九条さんが低く唱えた。
「……散れ……」
札が一斉に光を放ち、黒い影がぎしぎしと軋む音を立てる。
怨霊たちの呻き声が広間いっぱいに響いた。
その中心で、九条さんと明生さんは微動だにせず、祓いを続けていた。
(……外に出れば、何も見えないのかも)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
結界の中だから、霊が“見える”だけ。外に出れば、きっとただの畳の広間に戻る。
――わかっているのに、足が動かなかった。
視界の端にまとわりつく黒い影。
怨嗟の声が耳の奥にへばりついて、鼓膜をぎゅうっと掴まれるみたいだ。
こんな状態で一人だけドアに背を向けて歩き出すなんて、絶対に無理。
「落ち着いて」
隣で百瀬さんが、小さく囁いた。
「ここにいる影は全部、九条さんと明生さんが受け止めてる。結界の外に漏れることはないから」
その言葉で、少しだけ呼吸が戻る。
けれど目の前の光景は現実のまま。
九条さんが札を打ちつけるたびに、影がぎしりと軋み、悲鳴のような声をあげる。
そのたびに背筋が冷えて、心臓が縮み上がる。
「……散れ」
九条さんの低い声に呼応するように、明生さんが印を結ぶ。
札が次々に光を放ち、黒い影が弾かれていく。
煙のように揺らめき、やがて霧散するものもあれば、なおしつこく畳にまとわりつくものもある。
私は――ただ立ち尽くすしかなかった。
結界が作り出す異常な世界に閉じ込められて、逃げ道もなく。
「外に出れば見えなくなる」その簡単な一歩が、永遠に遠いもののように感じられた。
黒い影の群れの中で、一体だけが妙にしつこかった。
他のものが札に弾かれて霧散していくのに、その影だけは形を保ったまま、じりじりとこちらへ滲み寄ってくる。
「えっ……ちょ、ちょっと……!」
背中が畳に張りついたように動けない。
怨嗟の声が耳元に迫り、吐息のような冷気が首筋を撫でた。
「クルミン、動かなくていい」
隣の百瀬さんの声は、不思議なほど静かだった。
だがその響きは、空気そのものを凍らせる支配の力を帯びている。
彼が手をひらりと振る。
「……“出ろ、ハチ”」
床に白い閃光が奔り、そこから真っ白な犬が姿を現す。
雪よりも純白な毛並みは光をまとい、瞳は氷刃のように鋭く光っていた。
ただそこにいるだけで、広間の空気が一瞬で張りつめる。
「い、犬……!? なんで犬!?」
声が震える。だが答える間もなく、ハチは低く唸り、黒い影へ疾走した。
その瞬間、影は縫いつけられたように硬直した。
恐怖に呑まれ、逃げることすら許されない。
閃く牙が影を裂き、ガラスが砕けるような音とともに黒煙が四散する。
破片のような黒い霧は、恐怖の奔流に押し流されるようにして光に呑まれ、消えていった。
「よしよし、ナイスだ、ハチ」
百瀬さんは犬の頭を撫でる。
その仕草は軽いのに、空気にはなお圧倒的な威圧感が漂っていた。