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九条さんが、ふぅ、とため息を吐いた。
「“あいつら”とは、誰のことだ?」
「……辻山さんが亡くなった少し後のことです。会社からちょっと離れた駅前の居酒屋で、大学時代の友人と飲んでいたんです。で、隣の席に……見覚えのある顔ぶれが座っていまして。向こうは俺のことなんて知らないと思います。でも、警備のシフトで日中に顔を合わせたこともあって、すぐに気づきました。……御厨リゾートの社員たちでした」
そこで、聞きたくもない会話が耳に飛び込んできたのだという。
『ねー、神保さんヤバくない? 辻山さんが辞めてから、全然仕事回ってないし』
『ほとんど押し付けてたもんね。でも、なんとかなってるあたりがウザいよね』
『神保さんには佐々浦課長がついてるし。課長が「負担をかけるな」とか言い出した時は笑ったけどさ』
『そりゃあ、不倫相手だもん。そりゃ庇うでしょ』
「その会話を聞いた瞬間、血の気が引きました。……辻山さんを追い詰めていたのは、間違いなくあの二人だって」
「その他に、その社員たちは何か言っていたか?」
九条さんが静かに訊ねると、菅野さんはコクリと頷いた。
「神保という女性社員について、色々と。媚びを売るのが上手いとか……佐々浦課長を“うまく利用してる”とか」
聞けば聞くほど、酷い話だ。
彼女たちは辻山さんが亡くなったことを知らないのだろうが。
「実は……そのとき俺、我慢できなくなって声をかけたんです」
「声を?」
「ええ。『その話、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?』って。でも、三人とも黙り込んで……そそくさと店を出ていきました。関わりたくなかったんでしょうね」
「——それで、落書きを?」
九条さんの声に、菅野さんはうなずく。
「幽霊騒ぎを起こして、あいつらに少しでも恐怖を与えたかった。自分がしてきたことを、どこかで思い出すように……」
「だから、『さむい』『さみしい』『うらむ』『らくになりたい』——か」
九条さんが淡々と並べた言葉に、私は思わず振り返った。
「……それって、縦読み……ですか?」
九条さんと目が合う。なんかこう、冷たい目で見られている気がする。
「誰に向けたメッセージか分からなければ、ただの落書きだ」
……はいはい、おっしゃる通りです。
「中学の頃、縦読みメッセージが流行ってまして……。単に恨み言を並べるだけじゃ、届かないと思ったんです」
菅野さんの口調はどこか空虚で、遠くを見るようだった。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
「……でも、それが本当なら、佐々浦課長と会社は訴えられるべきです。黙って見過ごすわけにはいかないと思います」
言い切ったあとで、もしかして私、余計なこと言った? と九条さんをちらりと見たけど、彼はいつも通りの無表情だった。
菅野さんは、ゆっくりと首を振った。
「辻山さんのお母さんは……会社と争うような人じゃなくて。線香をあげに行った時も、ずっと泣いていました。……彼女、母子家庭で、父親は幼い頃に亡くされていて」
「そもそも証拠がなければ、パワハラで訴えるのは難しいだろうな」
「でも、証人ならいるはずです。周りの人たちは絶対に知ってたはずですよね?」
「証人がいたところで、当のご遺族が望まないんじゃ、訴訟は難しい」
全然、納得できない。
辻山さんは、会社に殺されたようなものじゃないか。
佐々浦はもちろん、神保も見て見ぬふりをしていた同僚たちも、同じ加害者だ。
「そんな、餅を喉につまらせたような顔をするな」
「も、餅?!」
……そんな変顔してた? 私。
「事実は全て明らかにする。部署ごと処罰することは難しいが、佐々浦と神保にはそれ相当の責任を追ってもらう」
九条さんの目が、一瞬だけ鋭く光った……ような気がした。
「手始めに、証拠集めだ」
私は勢いよく席を立った。待ってました、という気持ちで。
「菅野さん、絶対にこのまま終わらせません。……そのための調査課ですから!」
こうして、私たち調査課の“本気”が始まった――。
……はずなんだけどな!
◆◆◆
「どうしてまた私がゴシップ記者みたいなことやらされるんですか!」
今日もまたぱっとしない梅雨空だ。
そして私は、九条さんから渡されたボールペン型の小型カメラを胸ポケットに忍ばせている。
「俺が六階でウロウロしていたら目立つからだ」
……はい、ど正論きたー。
それもそうなので、何も言い返せない。
「うぐぐぐぐ」
九条さんを社内で知らない人はいない。
とにかく歩いているだけでも目立つ人なのである。
黙っていれば相当の美しい顔立ち、そしてすらりと背の高いルックス。
自覚があるのが憎たらしいが、事実は事実だ。
なにしろ、この私も性格を知るまでは、イケメン俳優みたいにカッコいい人だなぁなんて思っていたので、なんか悔しい。
地味な私なら、六階にいても違和感ゼロってこと? それはそれで失礼じゃない?
そして、六階のフロアは、落書きの話でもちきりだった。
実は、九条さんの指示で最後の落書きは消されずにそのまま放置された。
発見したのは、辻山さんと同じ営業三課の女性だった。
私達が小会議室で菅野さんと話している間、六階ではまたもやトイレに不吉な文字が浮かび上がっていると大騒ぎになっていたそうだ。
……まあ、浮かび上がったわけじゃなくて、筆で書いたやつだけど。
真相を知っている私達は、報告に来た社員に白々しく「調査いたします」と個室の写真を撮り、清掃の人を呼びに行ったというわけだ。
「あの、調査課の人ですよね?」
清掃中、トイレの外で待機していると、若い女子社員に声を掛けられた。
九条さんから見せられた資料の写真の女性ーー神保奈央だ。
(うわ、いきなり渦中の本人だ!)
「はい、そうです」
「このイタズラ、さっさと犯人捕まえてもらえません? 正直、迷惑なんですけど」
キューティクルばっちりの長い髪に、しっかり目のメイク。
一見、清楚そうだけど、爪には社内で禁止されているキラキラのストーンが光っている。
「派手なネイルは禁止されていますが、ご存知ですか?」
「その質問いります? 今、話している内容とは関係ないですよね?」
明らかにむっとする。
この人、すぐ顔に出るタイプだ。
「関係ないです。すみません、ご存知ないのかと思って。それで、トイレの落書きの犯人ですが、現在調査中です」
「調査中って、もう四度目ですよ」
「そもそも、生きている人が犯人かどうかも判明していませんしね」
「はあ?」
明らかに、あんたバカなの? という蔑んだ目で見られた。
「“さむい”“さみしい”“うらむ”“らくになりたい”……なんか、いかにも狙った感じですよね?」
「だからイタズラでしょ。ただ怖がらせようといているに決まってますよ」
その時だった。
ーーガチャン。
廊下ですれ違おうとした、女子社員がコーヒーカップを派手に落とした。
「ちょっと、高家さん!」
コーヒーが足元に飛び、神保が高家を睨みつける。
「これ……もしかして辻山さんじゃない?」
「はあ?」
神保が目を細め、鼻で笑った。
「彼女、亡くなったんだって。神保さん、知らなかった?」
「……知らないけど。なにそれ、都市伝説?」
瞬間、ほんの一拍だけ神保の表情が止まった気がした。
でもすぐに「くだらない」とでも言いたげな笑みが戻る。
「自殺だって。去年の……退職してから一ヶ月後らしいんだけど」
「ふーん。でも、それって関係あるの? 会社辞めてからの話でしょ?」
あくまで冷静、理屈っぽく返してくる。
でもその口調には、どこか“話題をさっさと終わらせたい”という焦りが混じっているようにも見えた。
「なんで高家さんがそんなこと知ってるのよ。どうせ、くだらない噂でしょ?」
「噂じゃないよ。調査課の人たちが給湯室で話してたの、全部聞こえてたの。わたし」
神保の手が、反射的に自分の胸元の名札をいじった。
笑っているようで、目が笑っていない。
「はあ……もう、ほんと、馬鹿らしい。幽霊とか信じちゃって。落書きの犯人はどうせ暇なバカでしょ? そっちを調査してくれるなら、こっちは助かるけど?」
吐き捨てるように言いながら、コーヒーを拭いていた高家を睨む。
その背中には、微かな苛立ちと、どこかの“不安”が混ざっていた。
実は、これも九条さんとの仕込みだったりする。
私達は”わざと”給湯室にいる六課の女性職員に聞こえるように、辻山さんの話をしたのだ。
かなりわざとらしかったけど、効果があったみたいだ。
「でも……もし恨んでいたら……」
神保が、キッと高家を睨む。
高家は、怯えるように口を閉ざした。
「あ、これ片付けなきゃ。コーヒー零してすみません。かからなかったですか?」
私は、笑顔で返す。
「これくらい平気です。お気になさらず。私、雨の日はもっと濡れてますから」