3−7
九条さんの休暇明け、私は上司に怪異事件の顛末を報告した。
「それで地下室のポルターガイスト現象は止まって、早見さんの魂は無事に鎮魂されて……新橋さんは和田部課長と話し合った結果、懲戒処分ではなく依願退職扱いとなりました。……って、聞いてますか?」
「……聞いてる」
いつもの毒舌は休みのようで、たった一言で終わり。
「それだけですか?」
「他に言うことはない。俺は初めから明生なら解決できると思っていたし、なんの問題もない」
「……だから突き放すようなことをしたんですか?」
「あいつは、すぐ諦める癖があるからな」
確かに、最初は泣き言っぽいことを言っていたし、九条さんがやればいいようなことを言っていたけど……。
結局は、明生さんが担当して良かったような気もする。
もしかして、九条さんは全部分かってたってこと?
そんなやり取りの最中、扉が開き、明生さんが顔を出した。
「おはようさーん。お、静ちゃん、おかえりや! 顔が見れへんくて寂しかったわあ」
私は壁の時計をちらりと指さす。
「……明生さん、遅刻ですよ。一時間ほど」
「そんな細かいこと気にしたらあかんて」
(この人、査定どうなってるのかしら……)
九条さんが咳払いして、机の上の書類を持ち上げた。
「明生、部長から、すぐに迎えとのお達しだ」
「……洗浄池ホテル。……また、あそこで何か起こったんか」
紙に目を走らせた明生さんの表情が、一気に引き締まる。
「“洗浄池ホテル”ってどこにあるんですか?」
私は首をかしげた。
「青森や。恐山の近くでな。祓っても祓っても怪異が起こる、いわくつきの場所や」
「今度は俺も行く」
九条さんの声音も、いつになく真剣だった。
「そんなに……状況が悪いんですか」
「ああ。――俺一人でも持て余すぐらいにな」
「なら、胡桃ちゃんはお留守番やな」
「え? 私も行きますよ」
「俺も胡桃ちゃんと大間のマグロ食べたかったけどなあ……。でも今回は危険すぎる。大人しく待ってて」
そう言われてしまえば、反論の余地はなかった。
確かに私がついて行っても、お荷物になるだけだろう。
それでも置いていかれるのは、やっぱり寂しいけど。
「……わかりました。どうか、お気をつけて」
努めて明るくそう告げたけれど、胸の奥に小さな穴が空いたような感覚が残った。
ただ願うのはひとつ――どうか無事に帰ってきてほしい。
こうして翌日、九条さんと明生さんは青森へと旅立ち、私は東京に取り残された。
◆◆◆
「おはようございます」
誰もいない部屋に向かって、むなしい挨拶が響いた。
九条さんと明生さんが青森へ出張に出て、今日で二日目。
私はひとり、調査課の部屋で業務用の資料や過去の報告書を整理していた。
(九条さんたち、今ごろ何してるのかな……)
そんなことをぼんやり考えてしまう。
今回の件については会社に定期連絡もなく、私は完全に蚊帳の外だった。
手を止め、なんとなく「洗浄池ホテル」をネットで検索してみる。
画面には、いくつものレビューが並んでいた。
『古いけど趣があって、まるで昭和にタイムスリップしたみたい』
『池の鯉が立派だった。とても高そう』
どれも高評価ばかり。
今のご時世、ホテルの名前を出して評判を落とすようなレビューは、さすがに書き込まれないのかもしれない。
スクロールしていくと、ホテル名ではなく「洗浄池」そのものに関する記事が目に留まった。
ーー天明の飢饉で一揆を起こした農民が、血のついた鍬や斧を洗ったとされる池。
この水で洗えば、鍬や斧の不浄が清められると信じられていた。
やがてその伝承は、「この池に身を投げれば来世では良い身分に生まれ変われる」という話に変わっていき、自殺者が絶えなかった。
池で体を清めれば今世の不浄が払えるーーそんな解釈が、飛躍してしまったのだろう。
パソコンの画面を凝視していると、静まり返った部屋の扉が勢いよく開いた。
「おはよーございますっ!」
あまりに元気いっぱいの声に、私はびくっと肩を跳ねさせる。
振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのない青年だった。
茶色がかった髪を軽く跳ねさせ、明るい笑みを浮かべたその姿は、妙に場の空気を軽くしてしまう。
「えっ……どなたですか?」
青年はにっこり笑って、元気よく胸を張った。
「僕、百瀬です! モモって呼んで下さい。はじめまして、山木胡桃さん」
あまりに人懐っこい第一声に、私はぽかんと口を開けたまま固まってしまう。
もちろん百瀬さんの名前は知っている。調査課に所属する、百瀬瑠偉さん。もう一人の社員だ。
「あれ? 静さんと陽稀君は?」
「二人とも、昨日から青森に出張です」
「えーっ! じゃあ入れ違い? 洗浄池に行くって聞いたから、僕、急いで帰ってきたのに」
頬をぷーっと膨らませる顔は、まだ大学生にも見える。
スーツもあまり似合っておらず、どこか「着せられている」感じだ。
目が大きくて、肌が白くて――もし女の子だったら絶対に美少女だろう。
以前、給湯室で女性社員が「子犬みたいで超可愛い」と噂しているのを耳にしたことがある。
でも、私の印象だと彼は猫だ。
むしろ犬っぽいのは明生さんの方。……大型犬だけど。
「ねえねえ、青森行きの新幹線、手配してくれる?」
さっそくの猫なで声。
「は、はい……もちろんですけど。九条さんの許可を取らなくていいんですか?」
百瀬さんは人差し指を立て、ウインク。
「大丈夫! いきなり登場して驚かせたいから」
……それって大丈夫って言うの? 叱られるのは私なんですけど。
返答に困っていると、百瀬さんがポンと手を打った。
「あ、そうだ。クルミンも一緒に行こうよ」
アイドル顔負けの笑顔。しかも、ほとんど初対面なのに、もう“クルミン”呼び……。
明生さんも距離感の近い人だったけど、この人はさらに上をいく。人懐っこい。……けど、なんか立ち悪そう。
「私は、危ないから留守番だって言われてますので……」
「平気平気。いざとなったら僕が守るから!」
どや顔。でも、弟に言われてるみたいで、ちょっと頼りない。
私が呆れて見ていると、百瀬さんは急に真顔になってじっと見つめてきた。
「……やっぱりそうだ」
顔を近づけられ、私は思わずエビ反る。
「わ、私に何か?!」
「静さんや陽稀君から、何も聞いてない?」
さっきまでの明るさが嘘みたいな低い声。……怖いんですけど。
「聞いてないって……特には……」
「ふうん。陽稀君は気づいてないのかも。……静さんは、わざと教えてないのかな」
「気になる言い方しないで、ちゃんと教えてください」
「ちょっと考えてみてよ。クルミンは静さんが直々に指名して調査課に来たんでしょう?」
「……そうですけど。それは事務員がいなくて不便だったから、って……」
「今までずっと不便でも回ってたんだよ? それなのに急に一人入れた。……だから何かあるんじゃないかって思ったんだ」
「それって……」
期待と不安で身を乗り出した私に、百瀬さんはいたずらっ子みたいに笑った。
「内緒!」
「……」
「知りたければ、僕についてきて?」
「ずるいです……」
机に突っ伏したくなる。
どうやら私は――とんでもない小悪魔に捕まってしまったらしい。
今回、怖がりだと言っていた胡桃が随分積極的に動いていますが、それは前回の函館の経験で「霊=怖い」という概念を払拭したからです。根が真面目なんです。
あと早見さんの死因は、文中で書かれている通り「駅の階段から転落して」です。事件性はありません。
ですが盗みを言及され、歩いている最中もずっと考え悩んでいたのだと思います。
悲しい事故ですが、あれから新橋さんは月命日にお墓参りに行っているそうです。自分の考えの浅はかさと早見さんを巻き込んでしまったことを、深く後悔しています。