3−6
二人の笑い声が、地下の冷えた部屋に柔らかく響いていた。
さっきまで荒れていた空気はすっかり和らぎ、まるで長い夜が明けたかのように感じられる。
けれど――。
「……そろそろやな」
明生さんが静かに立ち上がる。
その声には、優しさと決意が入り混じっていた。
「早見さん。……もうええやろ。友達と話せたんや。未練も、言いたいことも、全部出せたやろ」
白い光で形作られた早見さんが、こちらを見て、ゆっくりと頷く。
その輪郭はもう、少しずつ透け始めていた。
《……ありがとう。僕は……もう、大丈夫だ》
「行くんや」
明生さんが両の掌を胸の前に重ね、低く祈りの言葉を紡ぐ。
柔らかい声が部屋を包み込み、光の粒がふわりと宙に舞い上がった。
やがて早見さんの姿は淡く溶け、無数の光となって天へと昇っていく。
その表情は、どこまでも穏やかで、どこまでも笑顔のままだった。
「……さよなら、早見さん」
新橋さんの呟きが、震えて消える。
部屋の中に、残響のような静けさが戻った。
ただ今度は、不気味な重さではなく――清らかな静けさだった。
◆◆◆
私たちは調査課の部屋に戻り、新橋さんから詳しい事情を聞くことになった。
「彼とは……共通の趣味があって、仲良くなったんです」
新橋には、アニメ鑑賞という趣味があった。いわゆる“アニメオタク”。
だがそれを口にしたことはない。中学の頃、クラスで馬鹿にされ、笑い者にされた経験があるからだ。社会人になってからも、誰にも打ち明けずにいた。
きっかけは、ほんの偶然だった。
廊下で早見が落としたスマホ。ケースには、人気キャラ・エミリアンのステッカーが貼られていた。
「……もしかして、エミリアン推し?」
思わず声をかけると、早見は驚いたように振り返った。
「そうです。……あなたも?」
「俺は前世からエミ様推し」
「俺も、です」
――くだらない会話。でも、心の奥でずっと隠していた部分が、ようやく共鳴した。
それから二人は、職場では目立たぬようにしながらも、少しずつ言葉を交わすようになった。やがて一緒にアニメイベントへ行く仲にまでなった。
イベント帰りの居酒屋でのことだ。
酔った勢いで、新橋はつい口を滑らせた。
「うちの会社って、ずさんなんだよ。一人作業ばかりだから……部品なんて、いくらでも持ち出せる」
「それって……」
「例えば基盤が壊れてても、ついでにメモリも壊れてるって言えば交換できる。新品のメモリはこっそり家のパソコンに使ったり、合わなきゃオークションに流せばいい」
「……バレたら懲戒ですよ」
「バレないように、少しずつやればいいんだ。派手にやらなきゃ誰も気づかない」
その時の新橋には、背徳感よりも“仲間を得た安心”のほうが勝っていた。
気づけば、早見を巻き込むような言葉を口にしていた。
「なあ、早見さんも一緒にやらないか?」
「……盗みをですか?」
「早見さんなら怪しまれない。地下に誰もいなくなるタイミングを教えてくれるだけでいいんだ。あとは俺がやる。利益は半分ずつで」
グラス越しの早見の顔には、迷いと戸惑いが浮かんでいた。
――それでも、彼は断らなかった。
「でも、バレたんですね」
私は小さく息を呑みながら問いかけた。
新橋さんは、小さく頷く。
「同僚の一人が、交換したパーツの数と在庫が合わないって言い出して……。そこから大掛かりな調査が始まりました。俺は、もう絶対バレないって高をくくっていたので、修理管理表までは小細工してなかったんです」
何かを思い出すかのように目を伏せる。
「それで、防犯カメラに映っていた早見さんが疑われたんですね?」
「……はい。本当は誤魔化せばよかったのに……。早見さんは、和田部課長に電話で追求されて、正直に盗んだことを認めてしまったんです。そして後日、本社に来て詳しい話をしよう、ということになりました」
新橋さんは、握りしめた拳を膝の上で震わせる。
「俺は慌てて、早見さんに連絡を取りました。……彼が俺にそそのかされて仕方なく盗みに加担した、ってことにしようと思ったんです。でも、何度電話しても繋がらなかった。約束の日にも、本社に現れなかった。そして後日……母親から、事故で亡くなったと聞かされました。……自殺かもしれないって、一瞬思いました。でも違って、駅の階段で足を滑らせた……ただの事故だと聞いて。……それで俺は、もしかしたら、このまま盗難のことはうやむやにできるかもしれない、って……そんなことを考えてしまったんです」
「だから、和田部課長に本当のことを言えなかったんですね」
「はい……」
新橋さんは、絞り出すようにうなずいた。
「でも、ポルターガイストが起こって……すぐに、早見さんだと思いました。……もしかしたら、全部自分のせいにした俺を、怒っているんじゃないかって……」
ずっと黙って新橋さんの独白を聞いていた明生さんが、そっと言葉をかける。
「……早見さんはな、あんたに忘れられるのが怖かっただけや」
新橋さんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「……たった一人の、初めての友だちだったんやな」
明生さんの声は、穏やかに新橋さんを包んでいた。
新橋さんは何かを決意したように顔を上げる。
「……俺、和田部課長に、すべてを話します」
「早見さんは、“全部自分のせいにしていい”って言っとったけど……それでええんか?」
明生さんは真っ直ぐに問いかける。
「はい。……そんなの、さすがに自分で自分を許せなくなりますから」
「そうやな。……そんなことしたら、寝覚めが悪うてかなわんやろ」
「俺にとっても、たった一人の心を許した友達だったんです……」