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その後、男の霊は再び口を噤んでしまった。
これ以上は押し問答になる――そう判断して、私たちはいったん調査課の部屋へ引き上げた。
「……とりあえず、一歩は前進しましたよ」
自分にも言い聞かせるようにそう告げて、私は紙とペンを明生さんに差し出した。
「似顔絵、お願いします」
「似顔絵?」
「私はお顔が見えませんでしたから。どんな方だったのか、明生さんに描いてもらうしかないんです」
「俺、美術で“1”取ったことある男やで……」
渋い顔で受け取ると、明生さんは「うーん……」と唸りながら線を置いていく。
数分後、そこに現れたのは――小学生の落書き(しかも遠足のバスで描いたタイプ)だった。
「……これは、斬新ですね」
「芸術は爆発や」
かろうじて読み取れるのは、左の頬に濃い点があること。
――たぶん、ホクロ。しかもけっこう大きい。
もしこの情報が正しければ、顔写真照合の手がかりにはなる。
「んー……もう少し特徴、ありませんか? 髪型とか、輪郭とか、眉の濃さとか……」
「それが精一杯や……。顔の線、ここから先は見えへんかった」
つまり、あの“暗がり”が視界まで食っていたということだ。私の背筋に、さっきの冷気がまた這い上がる。
「そもそも、どうしていきなり地下室に現れたんでしょう。あそこで亡くなったわけじゃないですよね」
「そこなんや」
明生さんは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「やっぱり、あそこに“あるもん”と関わりがある気がする。場所に縛られるか、物に縛られるか……どっちかや」
「あそこに“あるもの”って……パソコンの部品やマニュアル類ですよね」
「せやけど、細かい部屋の中身までは俺もちゃんと見とらん。……もう少し調べたら、何か出てくるかもしれん」
明生さんと二人、似顔絵を前にして唸っていたその時――調査課の扉がノックもなく開いた。
「失礼します、情報システム部の者です」
姿を見せたのは、天然パーマをぼさっと伸ばした四十前後の男性。直接話すのは初めてだが、顔は知っている。システム部の課長、和田部課長だった。
「あそこの部屋、いつまで使えないんです? こっちは業務に支障が出て困ってるんですけど」
第一声から、高圧的。
空気が一気に冷え込む。
「まだ調査中ですねん。もう少し待って下さい」
明生さんがやんわりと応じるが、和田部課長は露骨に不満げな顔を隠さない。
「“もう少し”って、問題を一刻も早く解決するのが、そちらの仕事でしょう」
その後ろから、気弱そうな男性がそっと顔をのぞかせた。
「課長……こういうのは、そんなにすぐ解決できる問題じゃないんですよ」
「お前はサボれていいだろうが、こっちは期限がカツカツなんだ」
「誰もサボってはいません。……みんなデスクを片付けて作業しています」
「ふん。どうだか」
和田部課長が鼻で笑った、そのとき――彼の視線が、机の上の一枚の紙に止まった。
「……なんだ、その絵」
小学生の落書きにしか見えない明生さんの似顔絵。
私が慌てて言葉を探す。
「これは……調査資料といいますか……」
説明を終える前に、和田部課長は絵をひったくった。
じっと見つめた彼が、ぽつりと呟く。
「……これ、早見だろ」
その名に、私は思わず身を乗り出した。
「この絵の男性をご存じなんですか!?」
「幼稚園児が描いたような、恐ろしく下手くそな絵だが……この左頬のホクロ。こんなホクロのある奴は、他に見たことがない」
課長は後ろの男性に絵を突き出した。
「新橋、お前もそう思うだろ」
新橋と呼ばれた部下は、恐る恐る絵を覗き込み、眉を寄せる。
「……言われてみれば。早見さんに、似ているような……」
「早見さんというのは、情報システム部の方なんですか?」
私が尋ねると、和田部課長はわずかに口ごもった。
「いや……清掃会社の男だ」
「清掃会社……このビルの、ですか?」
課長は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせ、それから声を落とした。
「……先日、ちょっとあってな」
その言葉には、はっきりと説明を避けている気配があった。
「教えてください。詳しくは言えませんが……彼が今回のポルターガイスト騒ぎと関わっているかもしれないんです」
私の言葉に、和田部課長は一瞬だけ目を見開き、似顔絵を机の上に戻した。
「なるほど……だがな、我々を恨むのは筋違いだ」
「課長、あまり外部の人にその話は……」
後ろの新橋さんが慌てて制止する。
けれど、私は引かなかった。
「一刻も早く部屋を使いたいなら、私たちに情報を出していただくしかありません。調査は、そこで止まってしまいます」
明生さんも穏やかに口を添える。
「ここでの話は外に漏らしません。安心して下さい」
和田部課長はしばらく思案した後、こちらをじっと見据え、低く言った。
「……なら、ここだけの話だ。絶対に口外しないでくれよ」
「私たちは人事部調査課です。秘密は守ります」
◆◆◆
事件が発覚したのは、ほんの数週間前のことだった。
部内の一人がふと“不自然な発注”に気づいたのがきっかけだ。
購入したはずのパーツが、帳簿と実在庫で合わない。
さらに過去一年を遡ると、同じような小さな食い違いが積み重なっており――結果、約十万円分ものパーツが行方不明になっていた。
パソコン本体ならすぐに発覚する。だが、パーツは違う。
HDDや増設メモリは「必要数より少し多めに発注して在庫にする」のが慣習になっており、在庫が減っていても「誰かが使ったんだろう」で済まされていたのだ。
少額ゆえ、事務担当も深刻に考えなかった。
こうして長い間、見えない“穴”が放置されてきた。
「そこで俺は、防犯カメラの記録を洗い直した。すると……昼休みに全員が外へ出ていた時間帯に、例の部屋へ入る清掃員の姿があった」
和田部課長の声が重く落ちる。
「バケツを下げて入っていき、五分ほどで出てきた。その男が――早見だった」
「……でも、それだけで犯人だと断定するのは乱暴では?」
私は思わず口を挟む。
「そうだ。社員の可能性もある。社員なら出入りはいくらでもごまかせる。だが――彼は認めたんだよ。盗んだものは弁償する、と」
「認めた……」
「素直に認めれば大事にはしないと約束した。……こっちもずさんな管理を指摘されれば立場が危ういからな。だから、会社には伏せて内々で終わらせようとしたんだ」
課長はそこで言葉を切り、苦い顔をした。
「だが……何を盗んだのか詳しく聞き出す前に、早見は突然死んだ」
部屋の空気が止まる。
「……もしかして、自ら……?」
「いや。事故だと聞いている」
「事故……」
胸の奥に嫌なざわめきが広がる。
盗難の真相はうやむやに消え、早見は命を落とした。
その結末に、和田部課長は「だから恨まれる筋合いはない」と言うが――。
私は思わず、自分のノートに震える手で一行だけ書き込んでいた。
――だが、彼は“騙された”と言った。