3−2
結局、私は強引に明生さんに着いていくことになった。
ただし約束はひとつ。――もし明生さんが「逃げろ」と判断したら、何があっても逃げること。
映画やドラマでよくいる。
「逃げろ」と言われたのにウダウダして、結局敵に捕まって主人公に余計な迷惑をかけるヒロイン。
……私は絶対に、ああはならない。
たとえ明生さんを置いてでも、私は迷わず逃げる。
――絶対に足を引っ張ってはいけない。そう固く心に誓った。
エレベーターに乗り、地下二階へ。
扉が開いた瞬間、ヒヤリとした冷気が頬を撫でた。
「……寒っ」
「冷蔵庫みたいやろ」
軽口を叩く明生さんの声が、かえって場違いに響く。
蛍光灯は青白く煌々と点いているのに、廊下全体がなぜか暗く見えた。光に照らされているはずなのに、影が濃い。そんな、不自然な暗さ。
――こんな場所で一年中働いている情報システム部の人たち、大丈夫なんだろうか。体だけじゃなく、心まで冷え切ってしまいそうだ。
問題の部屋は、重厚な鉄製の扉の先にあった。
「……いいか、開けるで」
明生さんがゆっくりと取っ手を回す。軋む音と共に扉が開いた瞬間、室内から低い機械音が響いてきた。
使用禁止になっている今、中は真っ暗だ。
空調が強く効いているせいで湿気はないのに、どこか籠もったような臭いが鼻をつく。金属と紙と、長く閉じ込められた空気のにおい。
明生さんが壁際のスイッチを押す。
蛍光灯が点り、部屋の全貌が白々と浮かび上がった。
床一面に散乱したマニュアル本。転がる細かいパーツ。
椅子は不自然な角度で止まっており、まるで人の手に押しやられたまま時間が止まったようだ。
説明で聞いていた光景が、そのまま目の前に広がっていた。
明生さんが指差した右端の空白。
私にはただの“空間”にしか見えない。
けれど、そこに何かがあることは――肌で、空気で、嫌でも分かる。
私は深呼吸し、呼びかけた。
「……私たちは、あなたと話をしに来ました。危害を加えるつもりはありません。無理にお祓いしたりもしません。だから……どうしてここに居るのか、教えてください」
返事はない。
静寂だけが、地下室の空気をさらに重くする。
諦めかけたその時。
明生さんの表情が変わった。まるで“誰かの声”を聴いているように、目を細め、真剣に耳を澄ませている。
「……胡桃ちゃん。彼、顔を上げたわ」
「えっ……」
私にはただ、空白がそこにあるだけ。けれど、明生さんには――確かに“言葉”が届いているのだろう。
やがて、彼は低く通訳するように口を開いた。
「……僕は、ネットワークの中で永遠に生きることにした。そして……人類を支配する」
「……そう、彼がそう言っているんですね?」
私の問いに、明生さんは無言で頷いた。
沈黙の中、私には何も聞こえない。
ただ、冷気だけがじわじわと体温を奪っていく。
「ごめんなさい……。私、あまりネットとかパソコンに詳しくないので恐縮なんですが……ええと、機械の体を使って人間と戦争を起こす、みたいな感じですか?」
自分でも的外れだと分かっていた。
けれど、黙っているよりはいいと思って口にすると――
「……全然違うらしいで」
明生さんが眉をひそめながら通訳する。
「ネットワークの中で“個の意識”を確立させて……人類を支配する、やと」
「……今、だいぶ省略しましたよね?」
「俺も機械方面はからっきしでな……。とりあえず、コンタクトは取れたけど……会話が成立するかは怪しいわ」
たしかに、すでに意思疎通に溝があった。
けれど私は一歩踏み込む。
「でも、その目的の前に……悲しいことがあったんですよね? よければ、そのお話を聞かせていただけませんか?」
返ってきた言葉を、明生さんが渋い顔で代弁する。
「……“馬鹿に話すようなことはない”って。あっ、胡桃ちゃんをバカって言うとるんやないで」
「分かってますよ……」
胸の奥にチクリとした痛みを覚えながらも、さらに問いかける。
「あの……私たちで、力になれることはありますか?」
沈黙のあと、明生さんの声が低くなる。
「……“騙された。だから信用しない。まずはこの会社を支配する”……そう言うてる」
「騙された……? この会社の人間に、ですか? それは誰に?」
思わず矢継ぎ早に問いただしてしまった。
その瞬間、肩に軽く手が置かれる。
「……落ち着け」
明生さんの掌の温もりが、緊張を少し和らげる。
彼は私を制し、鋭い眼差しで暗がりを見据えた。
「ここからは……俺の出番や」
◆◆◆
俺はゆっくりと床に腰を下ろした。
できるだけ目線を合わせるように、低い位置から語りかける。
「なあ、腹割って話そうや。このままやと、お前……質の悪い地縛霊になってまうで。そんなもんになるくらいなら、俺は――安らかに眠ってほしいんや」
《……俺は地縛霊なんかじゃない》
かすれた声が、胸の奥に直接響いてくる。
否定の言葉に、俺は小さく頷いた。
「まあ、誰だって認めたないもんや。でもな、この世に強い未練残したまま死ぬと、そうなりやすい。……せやから、ここでパーッと吐き出してみいへんか?」
《……あの男を殺してくれるなら、話してやる》
「それは無理や」
俺は首を横に振った。
「俺は殺人鬼になるためにここに来たんやない。誰かを救うために、ここにおるんや」
「ちょ、ちょっと明生さん!」
後ろで胡桃ちゃんが慌てた声を上げる。
「いや、こいつを騙した男を殺せって言うてきよったんや」
「……あの、もし復讐したいなら、その騙した人に取り憑くことはできないんですか?」
「胡桃ちゃん……」
俺は思わず振り返った。
「だって、自分の代わりに明生さんに殺してくれって……おかしくないですか? だったら、自分で取り憑けばいいんですよ」
「……胡桃ちゃん、可愛い顔してとんでもないこと言うなぁ」
俺は苦笑しつつも、言葉を選んだ。
「そんな真似したら悪霊になって、もう戻れん。……それはこの人にとっても救いやないんや」
「でも、明生さんが殺人犯になるよりはマシでしょ?」
「極論すぎるやろ……」
俺は額を押さえて溜息をついた。
それでも、胡桃ちゃんの純粋さに救われる部分もある。彼女の言葉は、時に核心を突くのだ。
「……この人が取り憑けんのには理由がある。騙した相手の守護霊が異常に強いとか……もしくは、この場所、あるいはここにあるもんに執着してて動けんのかもしれん」
《……俺は、高次元の存在になる》
唐突に放たれたその言葉は、冷たく重く響き、やがて途切れる。
そして男は再び膝を抱え、顔を伏せた。
沈黙が落ちる。
機械音だけが、虚ろに部屋を満たしていた。