3−1
御厨リゾートに、いわゆる「お盆休み」なんてものは存在しない。
もちろん、人事部や総務部、経理部あたりはカレンダー通りに土日がお休みだし、社員の週休二日制だってちゃんと守られている。でも、営業部とか事業開発部とか、常に誰かがフロントで走っている部署はそうはいかない。だからうちの会社では、夏休みも冬休みも“交代制”という形で各自が自由に取ることになっている。各10日間、合わせて年間20日。
……要するに、みんなが浮かれるお盆シーズンも、会社は通常営業ってわけで。
だから調査課のデスクには、長期の出張から戻ってきている珍しい顔が座っていた。
「おかえり、胡桃ちゃん……って、帰ってきて早々悪いんやけどさ……」
そう言って、クッキーをぼそぼそかじりながら机に突っ伏しているのは、我らが調査課の明生陽稀さん。なぜか、見るからに疲労困憊モードだった。
「出張、お疲れ様です。で、何の仕事が舞い込んできたんです?」
「……厄介なモンが、居着いてもうたんよ」
「厄介な……?」
「静ちゃんも気づいとるはずやのに、知らん顔しとってさぁ……冷たいわ〜……」
クッキー片手に嘆きながら、身長180センチ超のその背中を情けなく丸めている姿は、正直ちょっと可哀想だった。
「……なんか、事情がありそうですね?」
「聞いてくれるんか? 優しいなぁ〜胡桃ちゃん……ほんま癒しやわ〜。静ちゃんとは大違いやわ〜」
「褒めても、もうクッキーあげませんよ?」
「そっちかーい!」
ツッコミにも力がない。どうやらかなり消耗しているらしい。
そんなわけで、明生さんはぽつぽつと、数日前の出来事を語り始めた。
――それは、私たちが北海道に出張へ行った日のこと。
明生さんは出社早々、地下一階にある情報システム部の“とある部屋”に呼び出されたのだという。
そこは作業場と部品倉庫を兼ねた、やたら広い地下の一室だった。
中央には六つの作業デスクが整然と並び、壁際には廃棄されたパソコンや修理用の部品、ソフトウェアの分厚いマニュアル本なんかが、ぎっしり詰め込まれている。
空調はやけに低めに設定されていて、真夏なのに薄手の羽織が欲しくなるくらい肌寒い。どうやら、会社のネットワークを管理しているホストコンピューターやら機材が熱を持つせいで、強めに冷やしているらしい。――つまりここは、暑がりさんと寒がりさんがケンカする前に全員凍える仕様、ということ。
で、明生さんはこの部屋に入る前から、すでに“イヤな予感”を感じ取っていた。
「出社した瞬間にもう帰りたかったわ……」
本人いわく、それくらい強烈な負のオーラが漂っていたらしい。いや、私たち普通の社員はまったく気づかなかったんですけど?
他の人たちはいつも通り地下に降り、いつも通り作業を始めた。……が、その時に見たのは惨状そのもの。
床に散乱したマニュアル本。ひっくり返された段ボール箱。意味もなくあらゆる方向へ移動している椅子。
まるで誰かが徹夜で暴れ回ったかのような有様だった。
最初は「また誰かのイタズラだろう」で済ませようとしたらしい。
――けれど、防犯カメラを確認した瞬間、その認識は崩れ去る。
映っていたのは。
誰もいないのに棚から勝手に滑り落ちるマニュアル。
じわじわと手前に動き、最後には中身をぶちまけて落下する段ボール箱。
さらに、ひとりでに走り回る椅子が壁に激突し、ガコンと止まる瞬間。
……はい、完全にホラー映像。
一晩の間に、そんな“心霊ドキュメンタリー”みたいな現象が起きていたのだ。
「――それで、俺が呼ばれたんや……」
明生さんは、地下の空気に足を踏み入れた瞬間、すぐに“原因”を見つけたらしい。
部屋の隅に、どす黒いオーラをまとった”それ”がいたのだ。
――膝を抱えて蹲る人影。
顔は影に隠れて見えないが、輪郭や背格好からして若い男性のようだった。
呼びかけても反応はなく、置物みたいにピクリとも動かない。
「胡桃ちゃんは、もう俺らの仕事がどういうもんか知っとるよな?」
「はい。九条さんが除霊するところも見ましたし……私も霊を視ましたから。明生さんの話も信じますよ」
「そっか……」
そこで明生さんは、深いため息をつきながら続けた。
「作業場で起こった現象は、典型的なポルターガイストや。……けど、あそこまで派手なのは正直初めてやな。皿が飛んできて割れるとか、せいぜい本が落ちるくらいなら分かる。でも、分厚いマニュアル本だけやなく、重量ある段ボール箱まで動かすんやで?」
「……それ、その場に居合わせたら、恐怖で腰抜かしますね」
「幸い深夜やったから人的被害は出んかったけど……背筋が凍る話や」
「でも、お祓いしたら止まるんですよね?」
「……結論から言えば、まあそうなるな」
歯切れ悪く答えるその声には、自信のなさが滲んでいた。
「俺のやり方は、静ちゃんと違って“対話”による“説得”や」
「説得、ですか?」
「霊っちゅうのは、元は人間や。だから、ちゃんと話をすれば分かってくれることも多い。恨みを抱いて悪霊になったとしてもな、“救いたい”いう気持ちで向き合えば、道は開けるんや……」
そう言う彼の顔は、いつになく真剣だった。
でもすぐに苦笑が浮かぶ。
「せやけど、ああやって完全に聞く耳持たんやつは……正直、俺は苦手やなぁ」
――なるほど。これが明生さんが落ち込んでる理由か。
名前も出さない。部屋に居座る理由も言わない。怒りの矛先すら分からない。これじゃあ、対話のしようがない。
「静ちゃんなら、秒で蹴散らして終わりなんやけどな……」
どこか羨ましそうに肩を落とす明生さん。
――いや、羨ましがる方向性おかしくないですか?
「まあ、ここでグダグダ言うてもしゃあないわ。ちょっくら、地下室まで行ってくる」
明生さんが腰を上げる。
つられて、私も立ち上がった。
「なら、私も一緒に行きます」
「駄目駄目駄目ぇぇ!」
ぶんぶん首を横に振られる。ほぼプロペラ。
「胡桃ちゃんを、あんな危険な場所に連れていけるわけないやろ! 静ちゃんが前に現場に入れたんは、怪異が大人しいと判断したからや。でも今回は違う。もしかしたら大怪我……いや、下手したら命が――」
「それでも、力になりたいんです! 私だって調査課の人間ですから!」
「ありがたい言葉やけど……やっぱ駄目や。危険すぎる!」
「でも、真っ昼間からポルターガイストって、普通に起こるんですか?」
「例がゼロってわけやない。地下室やったら余計にありえるで」
「……でも今回わかったんです。幽霊って怖いものだと思い込んでたけど、そうじゃないんだなって」
「せやな。生きてても怖いヤツはおるしな」
「そうなんですよ! だから、無駄に怖がるのやめようと思って」
「……そんな簡単にコントロールできるん?」
「もちろん怖いですよ? でも、怖がってばかりだと幽霊に悪い気がして」
「……胡桃ちゃん、変わってるって言われへん?」
「失礼ですね。そんなこと一度も――いや、一度はあるかも。九条さんに“幽霊見た翌日に、ご飯食べてる夢見るとかどうかしてる”って笑われました」
「……胡桃ちゃん……君はきっと大物になるわ」
感心したように頷く明生さん。
――いや、それ絶対“変人”の意味ですよね?