2−12
九条さんは静かに息を吐き、両の掌を胸の前で合わせるようにかざした。
その指先から、肉眼では捉えきれぬはずの光が滲み出し、病室の蛍光灯の白をかき消す。
空気が震え、壁紙が軋む。世界そのものが、見えぬ門へと軋んでいくかのようだった。
「……幽世の門よ。母と子の縁に導かれし魂を、この場へ顕ち給え」
その言葉は詠唱ではなく、宣言だった。
言霊が空間を貫いた瞬間、九条の背後で風が渦を巻き、黒髪がふわりと持ち上がる。
窓の外の曇天は裂け、どす黒い渦がうねり、稲妻の影が走った。
やがて、天井から零れ落ちるように、影が幾筋も垂れてきた。
それらは床に集まり、やがて一つの形を結ぶ。
「……まお?」
掠れた雪乃の声が、病室の沈黙を破った。
影は凝固し、輪郭を持つ。――そこに立っていたのは、十年前と変わらぬ幼い娘。
頬に愛らしいえくぼを浮かべ、あの頃のままの笑顔を浮かべて。
私は思わず息を飲んだ。
恐ろしくはなかった。むしろ、胸を締めつけるような懐かしさに、身体が震えた。
これまで「霊」という存在を、恐怖の象徴として否定し続けてきたのに――。
今、目の前にいるその姿は、ただひとつの真実を告げていた。
この世界には、まだ自分の知らないことが数えきれないほどあって。
そして今、目の前で起きていることは、そのほんの一端にすぎないのだと。
《……ママ……》
その声は確かに響いた。耳で聞くだけでなく、胸の奥に直接届くような、澄み切った少女の声。
私は息を呑む。まおの小さな体はふわりと宙に浮かび、糸に導かれるように母の腕へと吸い込まれていった。
雪乃は痩せ細った腕を必死に伸ばす。
その腕に抱きとめた瞬間、全身から堰を切ったように嗚咽がこぼれた。
「まお……私のまお……! ごめんなさい、ごめんなさい……。一人で、淋しい思いをさせて、ごめんなさい……」
震える声に応えるように、まおの小さな両手が雪乃の頬を包む。
その掌は透けているのに、確かに温もりが伝わるかのようだった。
《ママ、泣かないで》
その瞬間――私の頭の中に、鮮烈な情景が流れ込む。
――「あなた、止めて下さい! 会社のお金を使い込むなんて……!」
――「うるさい! 俺に口答えをするな!」
荒れ狂う男の怒声、飛ぶ拳。頬を打たれ、床に蹴り倒される女。泣きながら母にすがりつく子供。
男の腕には、派手な服をまとった若い女が絡みついている。
「あーあ、奥さん可哀想に」
薄ら笑いを浮かべる男女。
その冷笑は、何度も何度も雪乃の心を抉ってきた記憶の断片だった。
やがて情景は溶け、目の前の現実へと戻る。
雪乃はなおも子を抱きしめるが、もはや腕には力が残されていなかった。
垂れ落ちる手。虚ろな視線。か細い息。
その傍らで、必死に母にしがみつくまおの姿。
「ごめん……ごめんなさい、まお……」
その声は、すでに母と子の魂を結び直す鎮魂の言霊だった。
絡まり合い、断ち切れていた時の糸が、今ようやく結び直されていく。
二人の間に漂っていた怨嗟も、悔恨も、静かに解けていった。
雪乃の瞳から、際限なく涙が零れ落ちる。
「……会いに来てくれてありがとう。私はやっと、あなたに謝ることができた」
その声は弱々しいのに、不思議なほど澄み切っていた。
私の目からも、気づけば涙がとめどなく溢れていた。
悲しみでも恐怖でもない。
ただ、人と人がようやく心を通わせたときに流れる涙だった。
「まお、お前は一人じゃない。迎えを呼んだ」
九条さんが静かに告げると、病室の空気がふっと張り詰め、二つの影が滲み出る。
それは輪郭を持ち始め、やがて柔和な笑みを湛えた老いた夫婦の姿へと変わった。
「……お義父さん……お義母さん……」
雪乃の声が震える。
老婆はまおの背にそっと手を添え、老いた男性は目に涙を溜めながら九条さんへ深く会釈をした。
九条さんは静かに手を翳し、目を閉じて言霊を紡ぐ。
その声は、祈りであり命令であり、天地に響く鎮魂の調べだった。
「……鎮め、鎮まりて……還るべき道へ、迷わずに進め。汝、愛しきものに護られ、清き光に抱かれよ」
まおの身体は雪乃の腕の中でやわらかな光に溶け出し、小さな手で母の頬を撫でる。
《ママ……大好き》
その言葉とともに、光は羽のように舞い上がり、祖父母の姿と重なって天へと昇っていった。
病室に残されたのは、静寂と、雪乃の頬を伝う一筋の涙。
だがその瞳は、もはや深い淀みに覆われていなかった。
母の表情には、十年ぶりの安らぎが宿っていた。
雪乃は震える唇を動かし、かすれた声で言った。
「……私、もう、大丈夫……」
その言葉は小さかったが、揺るぎない芯があった。
心の奥を覆っていた闇が、ようやく祓われたのだと誰もが悟る。
私は堪えきれずに、彼女の手を握った。
「よかった……本当によかった……」
声が震え、涙が止まらなかった。
雪乃は弱々しくも、はっきりと微笑む。
「ありがとう……ずっと、誰かに助けてほしいって、心の中で叫んでいたの……」
九条さんは静かに頷き、一歩後ろに下がる。
「その声は、確かに届いた。もう一人ではない。彼らが見守ってくれている」
病室の空気がようやく柔らかく解け、重く淀んでいた気配はすっかり消えていた。
雪乃の涙はまだ止まらなかったが、それは悔恨の涙ではなかった。
——それは、再び「生きよう」とする者の涙だった。
病室にはまだ光の余韻が漂っていた。
雪乃は泣きながらも、穏やかな表情で娘を見送ったばかりだった。
――その時。
「お時間です」
ノックと同時に、看護師がカルテを抱えて入ってくる。
しかし目に飛び込んできたのは、涙に濡れている雪乃の姿。
次の瞬間、看護師は目を見開き、怒気を孕んだ声をあげた。
「あなたたち、一体何をしたの!患者さんを泣かせて……!」
その声音には、患者を守ろうとする強い責任感がにじんでいた。
けれど、雪乃はゆっくりと顔を上げる。
涙に濡れた頬のまま、穏やかに言葉を紡いだ。
「看護師さん……私はやっと、自分を取り戻せました」
その声は、これまでの沈んだ呻き声ではなく、はっきりとした確かな言葉だった。
看護師は息を呑む。
あれほど会話もままならなかった雪乃が、まるで別人のように正気を取り戻している。
「……本当に……?」
震える問いかけと同時に、看護師の目からも涙がこぼれる。
職務の仮面を超えて、人として心を動かされてしまったのだ。
「よかった……本当によかった……」
看護師はカルテを胸に抱きしめ、堪えきれぬように涙を流す。
その姿を見て、私もまた胸が熱くなる。
九条さんは黙って目を伏せ、小さく頷いた。
静かな病室には、嗚咽と安堵の涙が溶け合い、ただ祈りのような温もりが広がっていた。