表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
御厨リゾート怪異ファイル  作者: しろいぬ
第二話 乗りかかった船は、途中で降りません。
20/36

2−12

 九条さんは静かに息を吐き、両の掌を胸の前で合わせるようにかざした。


 その指先から、肉眼では捉えきれぬはずの光が滲み出し、病室の蛍光灯の白をかき消す。

 空気が震え、壁紙が軋む。世界そのものが、見えぬ門へと軋んでいくかのようだった。


「……幽世かくりよの門よ。母と子の縁に導かれし魂を、この場へ顕ち給え」


 その言葉は詠唱ではなく、宣言だった。

 言霊が空間を貫いた瞬間、九条の背後で風が渦を巻き、黒髪がふわりと持ち上がる。

 窓の外の曇天は裂け、どす黒い渦がうねり、稲妻の影が走った。

 やがて、天井から零れ落ちるように、影が幾筋も垂れてきた。

 それらは床に集まり、やがて一つの形を結ぶ。


「……まお?」


 掠れた雪乃の声が、病室の沈黙を破った。

 影は凝固し、輪郭を持つ。――そこに立っていたのは、十年前と変わらぬ幼い娘。

 頬に愛らしいえくぼを浮かべ、あの頃のままの笑顔を浮かべて。


 私は思わず息を飲んだ。

 恐ろしくはなかった。むしろ、胸を締めつけるような懐かしさに、身体が震えた。

 これまで「霊」という存在を、恐怖の象徴として否定し続けてきたのに――。


 今、目の前にいるその姿は、ただひとつの真実を告げていた。

 この世界には、まだ自分の知らないことが数えきれないほどあって。

 そして今、目の前で起きていることは、そのほんの一端にすぎないのだと。


《……ママ……》


 その声は確かに響いた。耳で聞くだけでなく、胸の奥に直接届くような、澄み切った少女の声。


 私は息を呑む。まおの小さな体はふわりと宙に浮かび、糸に導かれるように母の腕へと吸い込まれていった。

 雪乃は痩せ細った腕を必死に伸ばす。

 その腕に抱きとめた瞬間、全身から堰を切ったように嗚咽がこぼれた。


「まお……私のまお……! ごめんなさい、ごめんなさい……。一人で、淋しい思いをさせて、ごめんなさい……」


 震える声に応えるように、まおの小さな両手が雪乃の頬を包む。

 その掌は透けているのに、確かに温もりが伝わるかのようだった。


《ママ、泣かないで》


 その瞬間――私の頭の中に、鮮烈な情景が流れ込む。



 ――「あなた、止めて下さい! 会社のお金を使い込むなんて……!」

 ――「うるさい! 俺に口答えをするな!」

 荒れ狂う男の怒声、飛ぶ拳。頬を打たれ、床に蹴り倒される女。泣きながら母にすがりつく子供。

 男の腕には、派手な服をまとった若い女が絡みついている。


「あーあ、奥さん可哀想に」


 薄ら笑いを浮かべる男女。

 その冷笑は、何度も何度も雪乃の心を抉ってきた記憶の断片だった。

 やがて情景は溶け、目の前の現実へと戻る。

 雪乃はなおも子を抱きしめるが、もはや腕には力が残されていなかった。

 垂れ落ちる手。虚ろな視線。か細い息。

 その傍らで、必死に母にしがみつくまおの姿。


「ごめん……ごめんなさい、まお……」


 その声は、すでに母と子の魂を結び直す鎮魂の言霊だった。

 絡まり合い、断ち切れていた時の糸が、今ようやく結び直されていく。

 二人の間に漂っていた怨嗟も、悔恨も、静かに解けていった。


 雪乃の瞳から、際限なく涙が零れ落ちる。


「……会いに来てくれてありがとう。私はやっと、あなたに謝ることができた」


 その声は弱々しいのに、不思議なほど澄み切っていた。

 私の目からも、気づけば涙がとめどなく溢れていた。

 悲しみでも恐怖でもない。

 ただ、人と人がようやく心を通わせたときに流れる涙だった。


「まお、お前は一人じゃない。迎えを呼んだ」


 九条さんが静かに告げると、病室の空気がふっと張り詰め、二つの影が滲み出る。

 それは輪郭を持ち始め、やがて柔和な笑みを湛えた老いた夫婦の姿へと変わった。


「……お義父さん……お義母さん……」


 雪乃の声が震える。

 老婆はまおの背にそっと手を添え、老いた男性は目に涙を溜めながら九条さんへ深く会釈をした。

 九条さんは静かに手を翳し、目を閉じて言霊を紡ぐ。

 その声は、祈りであり命令であり、天地に響く鎮魂の調べだった。


「……鎮め、鎮まりて……還るべき道へ、迷わずに進め。汝、愛しきものに護られ、清き光に抱かれよ」


 まおの身体は雪乃の腕の中でやわらかな光に溶け出し、小さな手で母の頬を撫でる。


《ママ……大好き》


 その言葉とともに、光は羽のように舞い上がり、祖父母の姿と重なって天へと昇っていった。


 病室に残されたのは、静寂と、雪乃の頬を伝う一筋の涙。

 だがその瞳は、もはや深い淀みに覆われていなかった。

 母の表情には、十年ぶりの安らぎが宿っていた。


 雪乃は震える唇を動かし、かすれた声で言った。


「……私、もう、大丈夫……」


 その言葉は小さかったが、揺るぎない芯があった。

 心の奥を覆っていた闇が、ようやく祓われたのだと誰もが悟る。

 私は堪えきれずに、彼女の手を握った。


「よかった……本当によかった……」


 声が震え、涙が止まらなかった。

 雪乃は弱々しくも、はっきりと微笑む。


「ありがとう……ずっと、誰かに助けてほしいって、心の中で叫んでいたの……」


 九条さんは静かに頷き、一歩後ろに下がる。


「その声は、確かに届いた。もう一人ではない。彼らが見守ってくれている」


 病室の空気がようやく柔らかく解け、重く淀んでいた気配はすっかり消えていた。

 雪乃の涙はまだ止まらなかったが、それは悔恨の涙ではなかった。

 ——それは、再び「生きよう」とする者の涙だった。

 病室にはまだ光の余韻が漂っていた。


 雪乃は泣きながらも、穏やかな表情で娘を見送ったばかりだった。

 ――その時。


「お時間です」


 ノックと同時に、看護師がカルテを抱えて入ってくる。

 しかし目に飛び込んできたのは、涙に濡れている雪乃の姿。

 次の瞬間、看護師は目を見開き、怒気を孕んだ声をあげた。


「あなたたち、一体何をしたの!患者さんを泣かせて……!」


 その声音には、患者を守ろうとする強い責任感がにじんでいた。

 けれど、雪乃はゆっくりと顔を上げる。

 涙に濡れた頬のまま、穏やかに言葉を紡いだ。


「看護師さん……私はやっと、自分を取り戻せました」


 その声は、これまでの沈んだ呻き声ではなく、はっきりとした確かな言葉だった。

 看護師は息を呑む。

 あれほど会話もままならなかった雪乃が、まるで別人のように正気を取り戻している。


「……本当に……?」


 震える問いかけと同時に、看護師の目からも涙がこぼれる。

 職務の仮面を超えて、人として心を動かされてしまったのだ。


「よかった……本当によかった……」


 看護師はカルテを胸に抱きしめ、堪えきれぬように涙を流す。

 その姿を見て、私もまた胸が熱くなる。

 九条さんは黙って目を伏せ、小さく頷いた。

 静かな病室には、嗚咽と安堵の涙が溶け合い、ただ祈りのような温もりが広がっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ