1−2
『おい』
突然、耳元から低い声がして、心臓が飛び出しそうになる。
「うわぇっ、は、はいっ!」
思わず声が裏返った。
『とりあえず、そこから出てこい』
私はガタガタとへっぴり腰のまま個室を出て、そそくさとトイレの外へ。
廊下に出ると、空気が少しだけ柔らかく感じたけれど、膝はまだ震えている。
「早く、録画データを転送しろ」
「は、はいはい。わかりました……」
震える指でスマホを操作し、録画データを九条さんの端末へ送信する。
データが転送されていくあいだ、私は自分のスマホの画面を開いて、録画した映像を再生してみる。
画面に映ったのは、薄暗い個室の壁。そして、誰かの手。
スッと現れて、何かを、筆のようなもので書いている。
全体は映っていないけれど、制服の袖口が見える。
「……警備員さん?」
呟いた私の隣で、九条さんが静かに頷く。
「そのようだな」
私はその場にフリーズした。
脳内で、はてなマークが何個も弾け飛んでいく。
「なんで、警備員さんがこんなことを……?」
私がぽつりと呟くと、九条さんは少しだけ間を置いて言った。
「それは、彼に聞くしかない。……明日、呼び出すぞ」
その声は、いつもと変わらず淡々としていたけれど、どこか慎重な響きが混ざっていた気がした。
◆◆◆
翌日は昨夜の深夜残業を考慮して、午後出社に……なんてなるはずもなく。
普通に九時出社だった。
やっぱり、九条さんは鬼だ。
「小会議室に行くぞ」
始業のチャイムが鳴る前から、朝のコーヒーすら飲む間も与えず、鬼上司は顎でクイッと指示してくる。
「……はい」
私は内心うんざりしながら、トボトボと後ろをついていった。
小会議室のドアを開けると、すでに一人の男性が中に座っていた。
年齢は私とそう変わらないくらい。無地のポロシャツにスラックスという、カジュアルな服装。
彼は目線を落としたまま、軽く頭を下げた。
「彼が、昨夜、6階フロアの巡回を担当していた警備員だ」
九条さんが簡潔に紹介する。
「菅野重文です……」
「……人事部調査課の山木です。よろしくお願いします」
緊張で声が少し上ずった。私も九条さんの隣に腰を下ろす。
今日の私は、聞き手兼記録係だ。ノートを机の上に取り出して、ページをめくる。
「聞きたいことがいくつかある。まずは、今回の落書きについて。理由を説明していただきたい」
九条さんの声は、いつものように抑揚がない。
(えっ、もうこの人で確定なの?)
私は内心でツッコミを入れながら、記録のペンを走らせた。
菅野さんは、柔道でもやっていそうながっしりとした体格だったが、威圧感はない。
むしろ、やけに静かで、机の上をじっと見つめている。
やがて、小さな声でぽつぽつと語り始めた。
「……去年、この会社の従業員が自殺した話は知っていますか?」
「辻山ひよりのことか?」
九条さんが即答すると、菅野さんは少し驚いたように顔を上げ、小さく頷いた。
(えっ、そんな話、初耳なんだけど)
私は思わず眉をひそめた。
その当時はまだ調査課じゃなかったからかもしれないけれど、総務部にもそれくらいの噂は流れてきても良かったはずだ。
「辻山は営業三課の事務職員だ。退職から一ヶ月後に自死している。正式な発表はされておらず、関係部署以外には伏せられているがな」
九条さんが、私の表情を察したように補足する。
「辻山さんは……俺の中学の同級生でした。大人しくて、目立たない子でしたが、すごく、良い子でした」
菅野さんの声がかすかに震えた。
「彼女がこの会社で働いているって知ったのは、夜勤の巡回中でした。ある夜、資料室の明かりがついていたのを見て——」
彼の視線が宙を彷徨う。記憶を呼び起こしているのだろう。
「……声をかけようとしたら、中から怒鳴り声が聞こえたんです。男が、誰かを叱っていました。たぶん上司と部下……」
「それは何時頃だ?」と、九条さんが尋ねる。
「二十一時を少し過ぎた頃です。残ってる人がいるにはいる時間帯ですが、ほとんどの人が帰り支度をしていました」
菅野さんは言葉を切り、しばらく黙った。
「その次の巡回のときも、資料室の明かりは点いていました。……二十三時を過ぎていました」
「そんな時間まで、営業部が若い女性を残業させてたんですか?」
思わず口を挟んでしまい、(あ、私もそうだった)とすぐに思い出したが、とりあえず今は棚に上げておくことにした。
「……男の方はいませんでした。でも、女性が一人で、ずっと作業をしていました」
「それが、辻山ひよりさんだったんですね」
菅野さんは、弱々しく頷いた。
「ほかにも、別日に巡回していた同僚が彼女を見ています。男に怒鳴られながら、書類を抱えていた、と」
「……それ、パワハラじゃないですか? 九条さん、問題じゃないんですか!?」
私は思わず声を上げていた。
隣で淡々と話を聞いていた九条さんの無表情が、なんだか腹立たしかった。
「その件については、彼女が自発的に残業していたという報告が上がっている。上司は、何度も帰るよう促していたと」
「違う!」
バンッ!
突然、菅野さんが机を叩いた。
私と九条さんが一瞬驚いて身を引く。
「嘘だ! あいつが……あいつらが、彼女に仕事を押しつけていたんだ!」
その目には、確かな怒りと、悔しさが滲んでいた。
「……あいつら?」
私はペンを止め、片眉を上げた。