2−11
翌朝――。
カーテンを開けると、重たい雲が一面を覆っていた。
灰色の空は低く垂れこめ、函館の街を押しつぶすように広がっている。海から吹き上げる風は湿気を帯びて、生ぬるい空気が頬にまとわりついた。
「……雨、降りそうですね」
私はぼそりと呟いた。
「降るかどうかは運次第だな」
九条さんは、窓の外を一瞥しただけで淡々と答える。まるで天候すら彼にとっては些末なことのように思えた。
朝食を済ませ、私たちはホテルを出る。
街路樹の葉がざわめき、アスファルトの上に湿った影を落としていた。通りを行く人々は、折りたたみ傘を手にしたり、空を気にして足早に歩いている。
曇天の下では、すべてが沈んだ色合いに見えた。
私の胸もまた、同じように重苦しい。
――今日、ついに雪乃さんと対面する。
そう思うだけで、胃の奥がじりじりと焼けるようだった。
「顔がこわばってるぞ」
横を歩く九条さんが、ふっと言った。
「……緊張してますから」
やがて私たちは、函館医科歯科大学病院へと向かうタクシーに乗り込む。
フロントガラス越しに見える空は、なおも低く、重たく、そして今にも泣き出しそうに揺れていた。
◆◆◆
函館医科歯科大学病院のロビーは、白を基調とした冷たい光に包まれていた。
無機質な蛍光灯の明かりと消毒液の匂いが、どこか人を拒むように漂っている。
私と九条さんはエレベーターで精神科病棟のフロアへ上がった。
ナースステーション前には、若い看護師が座っている。書類を整理しながら、ちらとこちらを見上げた。
「ご用件は?」
「入院している霧島雪乃さんに会いたい」
九条さんは、ためらいもなく口にした。
私は慌ててフォローする。
「あ、あの霧島さんというのはご結婚されていた時の苗字でして、今は旧姓に戻られていると思うのですが……」
「面会はご家族か、特別に許可された方のみとなっております」
看護師は、慣れた口調でやんわりと制止する。
だが、九条さんは落ち着いた様子で、懐から一枚の名刺を差し出した。
「私は、かつてホテル三ノ上函館に勤めていた者だ。彼女の元部下にあたる」
看護師は一瞬、怪訝そうな表情を浮かべた。だが名刺を受け取り、視線を走らせると、そのまま奥の責任者らしき人物に目配せをした。
小声でやり取りが交わされる。
数分後、戻ってきた看護師が告げた。
「……特別に、10分だけなら構いません。ただし病室内で刺激するような言動は控えてください」
「承知した」
九条さんは軽く頷く。
私は思わず、ごくりと喉を鳴らした。
――いよいよ、雪乃さんと対面する。
その事実が、重苦しい曇天のように心にのしかかっていた。
病室の扉が静かに開いた。
カーテン越しに薄い光が差し込み、室内は曇天の灰色をそのまま映したように沈んでいる。
ベッドに腰かけた女性が、窓の外をぼんやりと見つめていた。
長い髪は乱れ、肩に無造作に落ちている。痩せた横顔には生気の薄い影が落ち、まるで世界と切り離されてしまったかのようだった。
看護師が小声で言った。
「……会話は、できないと思いますよ」
私は胸が詰まり、九条さんの横顔を見た。だが、彼は微動だにせず静かに女性を見つめている。
「瀬中さん。お客様ですよ」
看護師が声をかける。
しばらく沈黙が続いた後、ようやく女性がゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳は焦点が定まらず、誰を見ているのか分からない。けれど確かに、私たちの存在を感じ取った気配があった。
「では、10分後にお迎えにあがります」
看護師は短く言い残し、扉を閉めて病室を後にした。
残されたのは、私と九条さん、そしてベッドの上の瀬中雪乃。
沈黙が、灰色の天井から垂れ下がるように重たく覆いかぶさった。
扉が閉じられ、病室に静寂が戻った。
機械の小さな電子音と、外の曇天を映す窓の白い光だけが、この空間を満たしている。
九条さんはベッドに近づき、雪乃の正面に腰を下ろした。
彼女は再び窓の外へ視線を戻していたが、九条さんは気にする様子もなく、低い声で語りかける。
「瀬中雪乃――いや、雪乃さんと呼んだ方がいいか。十年前のことは……もう語り尽くされただろう」
反応はない。ただ、細い肩がわずかに上下する。
「だが、あなたが消えてから、残された者はずっと立ち止まっていた。リホも、あの町も、そして……娘も」
雪乃のまぶたが、かすかに震えた。
「俺は、過去を抉り出しに来たわけじゃない。あなたに、まだ届く言葉があるかどうか……それを確かめに来た」
九条さんの声は淡々としている。それでも、静かな響きが病室の空気を揺らし、壁に吸い込まれていく。
「……雪乃。まおは、まだ、ここにいる」
九条さんの声が、灰色の天井に反響するように低く響いた。
その言葉に、雪乃の瞳がふいに揺れ、窓から九条さんへと――ゆっくりと視線を向ける。
唇が、わずかに震える。
声にならない音が漏れ、やがて掠れきった細い言葉へと形を結んだ。
「……まお……?」
かろうじて耳に届く、その一言。
まるで十年という時間の底から、ようやく浮かび上がってきた記憶のかけらのようだった。
九条さんは表情を変えず、静かにうなずく。
「そうだ。お前を、まだ探している」
雪乃の胸元が小さく上下し、乾いた息が震えを帯びて漏れる。
その目は、初めて人の気配を映し――長い冬の中で閉ざされていた心に、かすかなひびが入ったようだった。