2−8
港の通りを抜けると、潮の香りが一層濃くなった。
波止場に並んだ古い木造の倉庫は、どれも外壁のペンキが剥げ落ち、錆びついたトタン屋根が夏の陽にきらめいている。
漁具を積んだトラックがゆっくり通り過ぎ、港町特有の、ざらりとした生活の匂いが漂っていた。
九条さんは迷うことなく歩を進め、狭い路地に入る。
足元には海水で濡れた石畳、猫が一匹、魚の骨を咥えて塀の影へ消えた。
「さっきのマスターが言っていた松島さん……」
私は隣を歩きながら声をひそめる。
「どんな人なんでしょうか」
「知るか」
九条さんはそっけなく言った。
「だが、彼女も何も話したくないというのなら、今回の調査はこれで終わりにする」
「そうですね……」
私はこくりと頷く。胸の奥に、微かな期待と同じくらいの不安が同居していた。
まおちゃんの影を追ううちに、いつの間にか心臓が早鐘を打つ。
会えば、きっと何か分かる予感がする。だが、同時に知りたくない真実が待っている気もするのだ。
やがて路地を抜けると、古びた平屋の一軒家が見えてきた。
漁網が軒先にかけられ、外壁には潮風で白く色あせた板が打ち付けられている。
庭先には干し大根がぶら下がり、生活感が漂っていた。
松島という表札を確認すると、九条さんはためらいなく玄関前に立ち、扉を軽く叩いた。
「はいはい、どなたさん?」
少ししゃがれた声に続き、中からしばらく物音がして、やがて腰の曲がった小柄なおばさんが現れた。
日焼けした肌に、手の甲は皺だらけ。それでも眼光は鋭く、若いころの勝気な性格が垣間見える。
九条さんが軽く会釈し、私に視線を送る。
ここから先は、私が口を開く番だ――。
松島さんは私たちを訝しげに眺め、玄関口で腕を組んだ。
「……あんたら、観光の人じゃないべね?」
「はい。東京から来ました。実は――」
私は名刺を差し出し、深呼吸をして言葉を整える。
「三ノ上函館ホテルについて調査をしていて……当時、従業員だった方にお話を伺いたいんです」
その名を聞いた瞬間、松島さんの瞳が細くなる。
一拍置いて、低くため息をついた。
「倒産してから、もう十年かねぇ……。今じゃ建物も荒れ放題だよ」
「今は、どなたが所有しているんですか?」
聞くと松島さんが答えるより先に、九条さんが口を開いた。
「競売にかけられて、港町不動産が買い取ったはずだ。もっとも、再利用の話は立ち消えになって、そのまま放置されているが」
「……そうそう、港町不動産だ。けどな、あの土地も建物も厄介者扱いでね。取り壊すにも莫大な金がかかるし、観光資源にするには”いわく”が多すぎる。誰も手を出さずに、十年も塩漬けさ」
「なるほど……だから今も廃墟のまま残っているんですね」
私は頷き、メモに書き留めた。
「そういうことだ。悪いことは言わないけど、あそこはやめときなさい。昔のことを知ってる地元の人間ほど、あの場所には近づかないもんさ」
「失礼ですが、働かれていたのは本当ですか?」
問を重ねると、松島さんは口をへの字に結び、しばし逡巡した。
やがて、玄関先からちらりと港を見やり、私たちを手招きする。
「立ち話もなんだから、中に入りなさい。人に聞かれたくない話もあるしね」
◆◆◆
中に入ると、潮風の香りが染みついた畳の部屋に案内された。
卓袱台の上には漁師町らしい湯呑みが二つ、すでに用意されている。まるで訪問を予期していたかのようだ。
「……私があそこにいたのは十年以上前さ。若いころから、掃除と配膳で世話になってね。社長さんも奥さんも、優しい人たちだったよ」
松島さんはぽつりぽつりと語り始める。
「ただね、親父さんが亡くなってから、跡取りの坊ちゃんが仕切るようになって……そこから歯車が狂った。経営も荒れて、お客も減って、従業員も辞めていった」
「跡取りの坊っちゃんというのは、霧島礼一さんのことですよね? どんなお人柄だったのか、聞いても?」
松島さんは湯呑みを置き、しばらく黙り込んだ。
その沈黙が重く伸び、潮風の音ばかりが耳に届く。
「……礼一坊ちゃんのやり方は、ほんとに滅茶苦茶だったんだよ」
やがて吐き出すように言葉がこぼれる。
「経営は下手だし、金の使い方も荒いし……女遊びも派手でね。奥さんが妊娠中でも、平気で愛人をホテルに泊めるような人だった。従業員に強く意見する人は片っ端から辞めさせちまって、まるで王様気取りだったよ」
だから潰れたんだと、松島さんは語尾を強めた。
「母親のことだって、最後は奥さんの雪乃さんが世話をして看取ったんだよ。奥様は嫁さんに、不出来な息子のことを詫びながら亡くなったって話だ」
私はペンを止め、息をのんだ。
「そんな噂があったんですか……」
「それに……礼一坊ちゃんは、親にも雪乃さんにも手を上げていた、そんな話も聞いたよ。直接見たわけじゃないけどね」
九条さんが静かに眉をひそめる。
「よく離婚しなかったものだな」
「子供がいたからねぇ。頑張りたかったんだろうよ。でも過労で倒れて、そのまま入院。あんなに働き者だった人がねぇ……」
松島さんは苦い顔をし、卓袱台の縁を撫でた。
「そのうち心の病を患ってしまって……とうとう礼一さんと離婚することになった。気丈な人だったのに、立ち直れなかったんだ」
私は胸の奥が締め付けられるような思いで、次の言葉を待った。
「追い打ちをかけたのが……まおちゃんのことさ」
松島さんの声が、いっそう低くなる。
「まおちゃんは、雪乃さんと残った従業員たちの唯一の癒やしの存在だったんだよ。太陽のように明るくて、妖精のように可愛かった。それなのにーーある夜、海で溺れて亡くなってしまった。事故なのか、それとも……真相は私も知らない。ただ、あれが決定的だった。残った従業員たちも次々と辞め、お客も寄りつかなくなって……ホテルは暗い噂ばかりが広がって、ついに潰れてしまったんだ」
部屋に重苦しい沈黙が流れる。
潮の匂いが、やけに強く鼻を刺した。
「不躾ですが……、その、雪乃さんの所在をご存知ですか?」
松島さんは、首を横に振る。
「さあ……。今頃、どこでどうしているのやら」
◆◆◆
松島さんに別れを告げたあと、私たちは再び港へ出た。
潮の匂いとカモメの鳴き声が、妙に冷たく響く。
ホテルが倒産した経緯は聞き出せたものの、肝心の雪乃さんの所在ははっきりとしないままだった。
九条さんが腕時計で時間を確認しながら呟いく。
「状況は見えてきた。ついでに、まおの死因もわかるかもしれない」
「まおちゃんの死因って……、海で溺れたと……」
「色々と話しを聞いて、おかしいと思わなかったのか?」
私は手帳を開き、メモを確認する。
港のおばあさんの話によると、白いワンピース姿の少女が目撃されたのは夜。
松島さんも、夜の海で溺れたと言っていた。
「夜の海で溺れるって……、海岸で足を滑らせたということでしょうか?」
「ではなぜ、海岸に行ったんだ?」
「それは……」
「当時は、ホテルも営業していて今ほど暗くはなかっただろうが、日が落ちてから七歳の子供がふらふらと海に行く理由は?」
「……わかりません」
「8月の終わりなら、花火や祭りもない。観光客だって、宿に戻っている時間帯だろう」
港のおばさんも、松島さんも言っていた。
”真相は知らない”って……。
「誰も、事故だと断定した言い方をしない。明らかに状況がおかしいからだ」
「まさか……」
私は最悪な想像をして、顔を青ざめる。
「……だが、殺されたわけでもなさそうなんだ」
「そうなんですか?」
「誤って海に転落をしたのは事実なのだろう」
九条さんは目を伏せて静かに言った。
「次の手がかりは……礼一さんの関係者、あるいは雪乃さんの親族でしょうか」
「それと、倒産時の記録だな。十年前の新聞記事や裁判記録を当たれば、断片的でも事実が拾えるはずだ」
冷たい風が吹き抜け、潮のしぶきが頬にかかった。
私たちは顔を見合わせ、黙って歩き出す。
まるで海の底から、まだ語られぬ真実が手招きしているようだった。