2−6
「起きろ」
低く落ち着いた声に、飛び上がるように目を覚ました。
「はっ! もう食べられない!」
「……さすがに信じがたいな。昨夜あれだけのことがあったのに、食べ物の夢か」
九条さんの冷ややかな視線が突き刺さる。
おっしゃる通りだ。夢の中の私は、お腹いっぱいなのに仲居さんが次々と料理を運んでくる光景を、ありがたくも必死で受け取っていた。
「……すみません。寝ぼけました」
既に夏用のぴしっとしたスーツに着替えた九条さんが、腕時計をちらりと見やる。
「普通なら悪夢にうなされるぐらいの出来事だと思うが」
「……そうですね。でも夢はコントロールできませんので……」
洗面台に駆け込み、慌ただしく支度を始める。髪は手早く水で濡らし、顔は日焼け止めを念入りに塗るだけ。化粧はほとんどしない主義だが、今朝ばかりは鏡に映る薄いクマが気になった。
普段は八時間睡眠が当たり前の私にとって、四時間睡眠は致命的だ。頭の芯がまだもやに包まれている。
「朝食は部屋ですか?」
「一階のレストランだ。食べ終わったらすぐ出るぞ」
「わかりました。もうすぐ終わります」
窓を少し開けると、潮の香りがふわりと流れ込んできた。
夜の名残をわずかに残した空は、東の端から淡い金色に染まりつつある。
通りの向こうでは、漁港へ向かうトラックのエンジン音が低く響き、港町の朝がもう動き出しているのがわかる。
遠くから、カモメの甲高い鳴き声がいくつも重なり、風に乗って海のきらめきが窓辺まで運ばれてきた。
街路樹の葉がわずかに揺れ、アスファルトにまだ涼しさを含んだ影を落としている。
お盆の最終日。観光客らしき人々が駅へ向かう姿がぽつりぽつりと歩道を行き、夏の賑わいも少しずつ静まりはじめていた。
一階のレストランでビュッフェスタイルの朝食を取ったが、食後のコーヒーをゆっくり味わう余裕もなく、私たちは雪の花ホテルを後にした。
「まずは港に行ってみませんか?」
提案すると、九条さんは短く「いいだろう」とだけ答えた。
ホテルから徒歩で10分ほど。潮の匂いが濃くなり、視界の先に小さな漁港が見えてくる。函館中心部の観光用の港とは違い、ここは漁師町の暮らしがそのまま息づく場所だった。岸壁には大小の漁船が並び、ロープや網が乱雑に積まれている。波間で船体がきしむ音と、カモメの鳴き声が風に混じる。
作業中の男女二人――腰を曲げて網を直している年配のおじさんと、魚箱を洗っているおばさん――に声をかけた。
「すみません、私は東京から来たこういう者です」
名刺を差し出すと、おじさんが受け取りながら目を細める。
「御厨リゾート……なんか聞いたことあるなぁ」
「私、知ってるよ。日本全国にホテルがあるでしょ。確か、そこの雪の花さんもおたくのグループのホテルじゃなかったかい?」
おばさんが、手を止めずに話に入る。
「そうなんです。実は今そこに泊まってまして、周辺のことを色々と調査していて」
「ほー、調査ねぇ。で、どんな調査をしてるんだい?」
「ホテル三ノ上函館についてお聞きしたいんです」
その名を出した途端、二人の表情がわずかに硬くなる。
「ああ……あそこか」
おじさんが小さく吐き捨てるように言った。
「あそこは昔から出るって有名でさ。お客が怖がって寄りつかなくなったって話だ」
「違うよ。あれはバカ息子が潰したんだよ」
おじさんのオカルト話に、おばさんがすぐに言い返す。
「親父さんが亡くなったあと、経営なんてろくに知らないくせに出しゃばって、結局は破産さ。昔は観光客でいっぱいだったのにねぇ」
「俺は、まおちゃんの呪いで潰れたって聞いたけどな」
その名前が出た瞬間、私と九条さんは無意識に目を合わせた。
「ちょっと! 滅多なこと言うんじゃないよ!」
おばさんが、おじさんの背中を軽く叩く。
「あの子は可哀想な子なんだ。それに、あの子が亡くなる前から、もう閑古鳥が鳴いてたんだよ」
「……オーナーのお子さんが“まおちゃん”という名前だったんですか?」
「そうだよ。まだ小学校に上がったばかりだったのに……ほんとに可哀想でねぇ」
おばさんは魚箱を洗う手を止め、海の方をちらりと見た。
朝の港は相変わらず、波のきしむ音とカモメの鳴き声に満ちているのに、その視線の先だけは妙に冷えて見える。
「……あの子のことは、あんまり詳しく話せないけどね」
おばさんの声は少し低くなった。
「夏休みの終わり頃だったか……あの日もこんなふうに、港の空は晴れててね。だけど、急に海風が強くなって……」
「おい、それ以上は……」
おじさんが口を挟んだが、おばさんは視線を海から外さず、かすかに首を振った。
「誰も本当のことは知らないんだよ。ただ、あの晩、ホテルの前の道を、白いワンピース姿の小さな女の子が一人で歩いてるのを見たって話はあった」
九条さんの横顔は、わずかに陰を落としていた。
おばさんはそこで口を閉ざし、再び魚箱を洗い始める。水が木箱に当たってはじける音が、やけに大きく響いた。
おばさんの言葉の余韻を引きずりながら、私たちは港を後にした。
背中でカモメの鳴き声が遠ざかり、代わりにアスファルトの道に響く自分たちの足音がやけに大きく感じられる。
「……次はどこへ行きますか?」
私が尋ねると、九条さんはポケットの中で何かを弄びながら、短く答えた。
「旧ホテルの関係者を探す」
朝の函館はすでに夏の日差しが降り始めていたが、海風がその熱を削ぐ。通り沿いの家々からは、干された漁網や濡れた軍手がぶら下がり、潮の香りと混じって独特の匂いを放っている。
やがて、小さな商店街の入り口が見えてくる。色褪せた看板、開店準備中の八百屋、そして奥に見える古い喫茶店のドアガラスには「営業中」の札。
九条さんは、そこに目を留めた。
「まずは、あそこだ」
そう言って歩を速める背中を、私は慌てて追いかけた。