2−5
「……俺は子供が得意じゃないんだが……仕方ないか」
九条さんは小さく舌打ちをして、乱暴に頭をかきながら窓際へ歩み寄る。港からの湿った夜風が、カーテンを重く揺らした。
「お前の母親は——ここにはいない」
えっ、ちょっと!? いくら幽霊でも、そんな直球で言わなくても!
《……ママ……どこ……》
「自分の名前は言えるか」
《……まお》
「何歳だ」
《七歳……》
まおちゃんは瞬きもせず、ただ九条さんを見つめている。輪郭がかすかに揺らぐ。
「盆の時期に家に帰って……戻れずにここにたどり着いたか。あるいは、帰る前にこの場所で……」
九条さんは振り返り、低く続けた。
「……迷い込んだか、だ」
「どうするんですか? こんな所にずっとなんて可哀想です」
「そう言われてもな。俺ができるのは、強制的に“上”に送ることだけだ」
強制的、って……語感が怖い。
「まおちゃんはお母さんを探してるんです。会わせてあげられませんか?」
「簡単に言うな」
「そんなに難しいんですか?」
「生きてるのか、死んでるのかも分からん相手だ」
その現実を突きつけられ、胸が重くなる。
「この子の視え方だと……亡くなったのはそんなに昔じゃない。近くで七歳くらいの少女が亡くなった記録があれば……なんとかなるかもしれんが」
「なら、探しましょう!」
九条さんに、盛大なため息を吐かれた。
「……お前、怖くないのか」
「怖いですよ! でも、それ以上に……こんな小さな子がお母さんを探して彷徨ってる方が、ずっと嫌です!」
九条さんが、空中に向かって呟く。
「なら、こいつらは蹴散らしておこう」
「……こいつら?」
「さっきから俺達を威嚇しているやつらだ。こういうたちの悪いのが集まるから、このホテルは倒産したんだ」
九条さんが、まおちゃんの小さな手を軽く握り、静かに立ち上がる。
視線が部屋の奥、闇の向こうへと鋭く突き刺さる。
「……出てこい」
その声は低く、しかし拒絶を許さぬ圧があった。
途端に、部屋の四隅で黒い影がざわめき始める。壁の木目からにじみ出たような人影が、歪んだ顔をこちらに向けた。
「お前達の縄張りは、ここで終わりだ」
九条さんは指先をゆっくりと持ち上げ、空中に何本もの見えない線を描き出す。
指が動くたび、部屋の空気が震え、床から天井まで淡い光の鎖が伸びていく。
影はその鎖に絡め取られ、もがくように身をよじった。
「跪け」
一言。
九条さんの視線と声に縫い付けられるように、黒い影たちは一斉に膝を折る。
畏怖か、屈服か、その動きはまるで人間だった。
彼はさらに一歩踏み込み、指を弾く。
鎖が収縮し、影をまとめて一つの球状に押し固める。
部屋の温度が一瞬だけさらに下がり、吐く息が白く漂った。
「……散れ」
払うような動作とともに、球状の闇は霧のように四方へ飛び散り、光の粒となって天井の闇へ吸い込まれていく。
その瞬間、張り詰めていた空気がふっと和らぎ、窓の外から再び波音が戻ってきた。
九条さんは何事もなかったかのように、まおの方へ視線を戻す。
「これで静かになったな」
私は、目の前で繰り広げられた一部始終を思い返しながら、まるで特等席で壮大な舞台を見せられたような気分だった。
恐怖よりも、圧倒的な感動のほうが胸を満たしている。
さっきまで制御できずに震えていた手足は落ち着きを取り戻し、窓から入り込む夜風さえ心地よく感じられた。
「あの、まおちゃんは……」
「母親が見つかるまで、もう少しここに居てもらう」
「わかりました。あの……私がその子に話しかけたら、まずいですか?」
「問題ない。俺が居るから、お前に取り憑くようなこともない」
その一言に、胸の奥で固まっていた不安がほぐれていく。
私はゆっくりと少女に向き直り、膝を少し折って目線を合わせた。
「あの、私は山木胡桃と言います。まおちゃんがお母さんに会えるように、調査してきます。だから……もう少し、ここに居て下さいね」
返事はなかった。
それでも、まおちゃんの大きな瞳が一瞬だけ私を映したように見えて、胸の奥が温かくなった。
廃ホテルを出ると、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。
港の方角から、低く響く船の汽笛が夜を裂く。
遠くの防波堤に並ぶ灯りが、波間に揺れながら金色の筋を描いていた。
振り返れば、ホテルの黒いシルエットが夜空に沈み、その窓の一つだけがぼんやりと白く光っている気がした。
雪の花ホテルの部屋に戻ると、湿気で少し重くなった服を脱ぎ捨て、机にノートパソコンを置く。
照明の白い光が、さっきまでの非現実を現実に引き戻す。
過去二十年分、この函館周辺で七歳の少女が事故死、あるいは不審死した記録を洗い出していく。
手掛かりは「七歳」と「まお」という名だけ。
スクロールしても、該当するニュースは見当たらなかった。
モニターの光に照らされた画面は、ただ無言でこちらを見返してくる。
……やはり、明日は現地での聞き込みだ。
私はブラウザを閉じ、小さく息を吐いた。
(げ……もう三時半……)
九条さんの言った通り、結局、眠りについたのは明け方近くになってしまった。
もっとも、そんな夜更かしをしていたのは私だけだ。九条さんは、調べ物もそこそこに浴衣へ着替え、隣の部屋へとあっさり引き上げてしまっていた。
(一緒に調べてくれると思ったのに……白状だな)
ぴしゃりと閉じられた襖を、暗がりの中で睨む。
布団に潜り込みながら、明日のことを思う。
――まおちゃんの母親を探さなきゃ。
そう心に刻みつけるようにして、私は瞼を閉じた。