2−4
動画サイトで見るような落書きやイタズラの痕跡はない。
ここは、誰もいないまま時が止まった——いや、静かに息を引き取った廃墟のようだった。
足が震える。私は何度でも言うが、極度の怖がりだ。ホラー映画は観ないし、お化け屋敷にも入ったことがない。正直、仕事でなければ絶対に来ない。
九条さんが、ためらいなく暗い廊下へ踏み出す。着いていくのは怖い。だが、置いていかれるほうがもっと怖い。
「絶対に、置いていかないで下さいね」
念を押し、背中から離れないように追う。
懐中電灯の光が壁をなぞるたび、薄いピンク色の壁紙がめくれ上がり、茶色いシミが浮かび上がる。
カーペットは色あせ、ところどころ沈み込み、「ぎゅっ……」と湿った音を立てた。
(最悪だ……)
一時間前までは、ちょっとした旅気分だったのに。こんなことならホイホイ着いて来るんじゃなかった。
北海道出張が決まったとき、九条さんは『俺たちの仕事がどんなものか教えてやる』と言っていた。
——これが、仕事? 肝試しじゃなくて?
調査課って、何を調べる部署なんだ?
考えが巡るうちに、九条さんは無言で階段を上り、五階の突き当たりで止まった。
金色のプレートがかかった扉——「スイートルーム」。だが、ドアノブは白く曇った埃に覆われている。
「ここか」
鍵束から一本を選び、ガチャリと差し込む。
ゆっくりとドアが開き、懐中電灯の光が室内を切り取った。
広い。だが空気が重い。
ベッドはシーツが剥がされ、マットレスがむき出し。半分外れたカーテンの隙間から、港の黒い水面が覗く。
壁際のドレッサーは厚い埃に覆われ、鏡には白布が掛けられている。
「……九条さん、これ、雰囲気的に“出る”やつじゃないですか?」
声が掠れる。背中を冷たい汗が流れる。
「お前には”声”が聞こえないか?」
真剣な眼差し。冗談じゃない。
「……声って、誰のですか?」唇が震える。
「このホテルが倒産した理由、まだ言ってなかったな」
「経営不振……ですよね?」
「その経営不振の原因だ」
言葉が喉で止まる。聞きたくない。だが九条さんは続ける。
「理由は、このスイートルームにある」
声……なんて、やっぱり聞こえない。
(脅かすために言ってるだけ……?)
そう思いかけたが、九条さんはそんな冗談を言う人じゃない。
その横顔は、夜の闇に沈んでもなお真剣だった。
「九条さんには、誰かの声が聞こえるんですか?」
返事はすぐに返ってこなかった。
港から吹き込む潮風が、湿った冷気を部屋に運び、カーテンがひとりでに揺れる。
遠くでフェリーの汽笛が、重く低く響いた。
「ずっと……聞こえている。送り火を焚いても戻れなかった者たちが、ここに集まってくる」
背筋が一気に冷え、足元の感覚が遠のく。
「ど、どういう……ことですか……」
声が震え、自分でも情けなくなる。
「このホテルは駄目だ。買い取るべきじゃない」
私には波の音しか聞こえない。けれど、その声には、理由を説明しきれない重みがあった。
「土地が悪いと言えば、わかるか?」
首をぶんぶん横に振る。
「いくら祓ってもきりがない土地というものがある」
「……祓うって……お祓いのことですか?」
「そうだ」
喉が渇く。呼吸が浅くなる。
「じゃあ……ここには幽霊が……」
九条さんは少しだけ視線を上げ、短く答えた。
「大勢いる。お前の声がよく聞こえないほどにな」
心臓が一瞬、跳ねた。幽霊なんて信じないはずなのに、足元が揺れるような感覚に襲われる。
「も、もしかして、九条さんは……幽霊が視える人で、お祓いもできる人なんですか?」
「そうだ」
「それが……仕事?」
「御厨リゾートは土地の購入、ホテルの買収、新規開拓、全ての事業で、まず俺達が調査する」
乾いた唇を噛み、必死に笑おうとしたが、喉の奥が引きつって声にならなかった。
「そんな……だったら、私みたいな幽霊を信じてない人は調査課向いてないですよね?」
「信じてない割には、死にそうな顔をしているが」
「これは、ただひらすら怖いだけです! 私、こういうの苦手なんで!」
「そうだな。信じていなければ、俺達の仕事は理解できない。……今のお前には、俺が頭のおかしい奴に見えるだろう」
「そこまでは言いませんが……」
正直、霊媒師や霊能力者なんて全部インチキだと思ってきたし、怪談も作り話か気のせいだと思っている。
だけど、こんな大人の男に真正面から言われると、頭ごなしに否定するのも気が引けてくる。
部屋の奥、影になった角でカタンと何かが落ちたような音が響いた。
「ひっ!」
喉が詰まったような声が漏れ、思わず飛び上がる。
「……これはただの風だ」
「そ、そ、そうなんだ……怖すぎる……」
「こんな所まで無理やり連れてきて、悪かったな」
意外な謝罪に、返す言葉を探す。九条さんは絶対に謝らないタイプだと思っていたのに……。
「ええっと……、正直いきなり信じろと言われても無理なんですが……それが調査課の仕事だと言われると、その……」
御厨リゾートは世界にも進出している有名企業だ。その会社が真面目にやっているなら……。
ドン! と、天井から大きな音が響いた。反射的に見上げる。
「か……風、強いですね。ははっ……」
「いや、これは……」
九条さんが、懐中電灯の光を天井から壁へと滑らせる。その視線は真剣で、私の足は竦み、もう立っているだけで精一杯だった。
ドン……ドドン……ダン!
最初は遠くで鳴っていたはずの音が、次第に部屋の四方から響き出す。壁も天井も、見えない何かに叩かれている。
「ひぃぃぃぃぃ!」
私は耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。これは絶対、風じゃない。
「大丈夫だ。落ち着け。俺がいる」
九条さんが、私の頭に軽く手を置く。その仕草だけが異様に現実的で、逆に心が揺れる。
「ラップ音だな。威嚇しているだけだ。力は強くない」
その低い声は、不思議と波立った呼吸を整えてくれる。
「い、威嚇って……怒ってるってことですよね?」
「そうだ。俺達は侵入者だ」
「早く出ましょうよ!」
涙で視界がにじむ中、九条さんはわずかに首を横に振った。
「お前がいるからそうしたいが……」
その言葉が途切れた瞬間、背筋に氷のような悪寒が走る。
音が、消えた。
風も、波も。代わりに——
《……ママ……どこ……》
掠れた幼い声が、真横から耳に入り込んでくる。
汗が頬を伝うのも構わず、私は振り向けなかった。
「母親とはぐれたらしい」
あまりに落ち着いた九条さんの声が、逆にこの状況を非現実にしていく。
私は幽霊なんて信じない。いたら悲しすぎるから。
けれども——
窓際に、月明かりよりも淡い輪郭が浮かんでいた。
肩までの髪が水に濡れたように艶を失い、白いワンピースが風もないのに揺れている。足は……床に届いていなかった。
「……みえます……私にも……」