2−2
8月16日。羽田から飛行機で約三時間半。
――人生初の北の大地、しかもお盆最終日の函館に、私はついに降り立った。
「さすが北海道! 空気から違いますね!」
吸い込んだ瞬間、真夏なのにひんやりとした空気が肺を満たす。
お盆帰省から戻る地元の人や観光客で、空港はごった返している。浴衣姿の親子連れ、カメラを首から下げた旅行者、手に花束を持った人……。
外からは、遠くの港で上がる花火の音がかすかに響いてきた。
(一度は来てみたかったんだよな〜。函館山の夜景とか、朝市の海鮮丼とか……)
「憧れの海鮮天国だぁ〜」
想像しただけで口の中が寿司モードに切り替わる。
「遊びじゃないんだ。はしゃぐな」
後ろから降ってきた九条さんの冷たい声で、私の夢は即座に粉砕された。
「……はいはい」
ガラガラとトランクを押しながら、タクシー乗り場に向かう九条さんの背中を追う。
その黒いジャケット姿は、函館の涼しい空気よりも冷たそうに見える。
「ここから車で十分だ」
それだけ言ってタクシーに乗り込む九条さん。
私は車窓に張り付き、右も左も見逃すまいと景色を凝視する。
道路沿いには、送り火の準備をしている人や、提灯を片付ける人の姿。湯の川温泉街では、浴衣姿の観光客が温泉から上がったばかりらしく、火照った顔で笑っている。
そして到着したのは――少し年代を感じさせるが、大きくてやたら格式高そうなホテルだった。
(ロビー広っ! 床ピカピカ! 真ん中に大きな百合の花瓶! しかもチェックインカウンターの後ろ、金屏風だ!)
九条さんがフロントで何やらやり取りをして、私たちは中居さんに案内される。
廊下はほんのり冷房が効いていて、畳の香りが心地いい。窓の外には日本庭園が広がり、小さな池で錦鯉がゆったりと泳いでいる。
(うわっ……! なにこの部屋、めちゃくちゃいい! 窓から函館の夜景がちらっと見えるし、遠くに港の灯りまで!)
十畳以上ある広い和室。真ん中には立派な襖があり、閉めれば部屋を分けられそうだ。
――とはいえ、だ。
(ま、待って……まさか……いや、そんな……)
「雪の花ホテルにようこそお越しくださいました。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
中居さんが、お茶とお菓子を木目の大きな机に並べ、にこやかに一礼して退室していく。
「あ、あの……」
「なんだ」
「まさかとは思いますが……」
九条さんが、無表情のままこちらを見ている。目が真剣なのが逆に怖い。
「私たち、同室なんですか?!」
「ああ。だが、問題はない」
(ちょ、ちょっと待って……!)
頭の中がぐるぐる回る。これってセクハラ? いや、パワハラ?
男性社員同士ならまだしも、上司と部下が同室って……普通じゃなくない!?
いや、落ち着け私。ここで大声出したら、それはそれで余計面倒なことになる……!
「俺はこっちで寝るから、お前は机をどかして寝ろ」
……はい出ました、恒例の説明不足モード。
こういった場合、せめて女性は奥の部屋で寝かすよね。 そういう配慮は?
そもそも今回の出張だって、何をするのか、どこに泊まるのか、しつこく聞いても「行けばわかる」の一点張りだったじゃないですか。
面倒くさがりにも程がある。
「これは仕事だ」って言ったのは九条さんのほうなのに!
私が唖然としている間に、九条さんはさっさと押し入れから布団を出し、畳の上にドサッと広げた。
窓の外からは、港のほうで上がっている花火の音がかすかに響いてくる。お盆の送り火が終わったあとの、少し寂しいけど華やかな夜。
「え、今?!」
「今だ。夕飯まで仮眠しておけ。もしかしたら朝まで寝れないかもしれないからな」
……いや、どんな調査をするつもりなんだろう、この人。
夜通し歩き回る? 港で張り込み? それともお盆最終日の怪談的な何か?(いや、ないない……多分)
着替えるのかと思いきや、九条さんはスーツのジャケットだけ脱ぎ、ネクタイはゆるめずそのまま、ワイシャツ姿でゴロン。
次の瞬間には、もう目を閉じて静かな呼吸。
寝つきスキル、Sランク。
私も押し入れから布団を出しつつ、ちらっと横目で寝顔を観察してしまう。
(しかし……男のくせにまつ毛長いし、肌は綺麗だし。アラサーとは思えないな)
眠れる貴公子。童話だったら、お姫様がキスするまで目を覚まさないやつだ。
……ただしこの場合、そのお姫様は私じゃなくて、きっと美人秘書とかだろうけど。
私は音を立てないように襖をそっと閉め、スーツのまま寝るわけにもいかないので部屋着に着替える。
(一応、Tシャツと短パン持ってきて良かった……)
時計を見ると午後三時半。まだお日様は高く、庭の池に反射してキラキラしている。
それでも布団に横になり、目を閉じると……案外すんなり眠れた。
なにせ私も、基本どこでも寝られるスキル持ちなのだ。
◆◆◆
「おい、起きろ。そろそろ夕飯の時間だ」
「ふわっ!」
頭の真上から降ってきた九条さんの声に、私は飛び起きた。
……何このデジャヴ感。夢の中でもこの声聞いてた気がする。
「え……嘘。もうこんな時間……」
時計はすでに午後七時過ぎ。ホテルの夕食にしては、ちょっと遅めの時間だ。
外からは、港のほうで最後の花火が上がったらしい音が遠くに響く。
「爆睡する女を初めて見たぞ」
「はっ! 九条さん、まさか私の寝顔を撮影とかしてないでしょうね?」
「……するかアホ」
「え? ヤダ! 今、間があった! ちょっと間が!」
私がバタバタ言っていると、障子がスッと開き、中居さんが食事を運び入れてきた。
「あ! もう来ちゃった!」
慌てて布団を引きずり、九条さんが寝ていた場所に押し込む。
さらに隣の部屋へダッシュして着替えに入った。
さすがにTシャツ短パンのまま、上司と夕食とかありえない。
ワンピースに着替えて襖を開けると、目の前に――。
毛ガニ、ウニ、ホタテ、刺身の舟盛り、さらには松前漬けまで。まさに海鮮の夢フルコース!
窓の外には、湯の川温泉街の明かりがポツポツと見え、浴衣姿の観光客が夜風にあたりながら歩いているのがちらっと見えた。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
中居さんがニコニコと笑顔で一礼し、退室していく。
「あの、会社の出張なのに、こんな贅沢許されるんですか?」
「かまわない。このホテルは御厨グループの宿だしな」
……知らなかった。
てっきり経費で大赤字案件かと思ったのに、自社のホテルだったとは。
(じゃあ……毛ガニ全部食べても大丈夫ってこと!? いや、さすがに社会人としてそれは……いや、でも……)
「どうした? 遠慮せずに食え」
「それでは……いただきます!」
箸を手に取り、まずはカニ。殻を割った瞬間、ふわっと漂う香りに思わず目が細くなる。
身をほぐして口に入れた瞬間、甘みがじゅわっと広がって――やばい、もう泣ける。
続けてウニを一口。とろける舌触りと濃厚な磯の香りに、涙腺が完全決壊。
「泣きながら食うな」
「だってぇ……こんな美味しい海鮮料理、食べたことなかったんです! 私、地元が群馬なので、海も海鮮も憧れの対象で……」
頭の中では、回転寿司で食べたスカスカのウニ軍艦と、今口に入っているぎっしりウニの比較映像が流れている。
「動けなくなるほど食って、寝るなよ」
「寝ませんよ。仕事はします! やらせていただきます! こんな美味しいものが食べられるのなら、何度でも出張します!」
「調子良いやつめ」
……それにしても、九条さんの食べ方って妙に上品だ。箸の運び方も姿勢も、無駄がなくてきれい。
まるで高級料亭で育ったお坊ちゃんみたい。
「なんだ?」
「いや、九条さんの食べ方、すごく綺麗だなって」
「お前は、すごく美味そうに食うんだな」
「だって、本当に美味しいので」
「萩の月も同じくらい大口で美味そうに食ってたぞ」
(見てたんかい!! しかもそこ覚えてるのか!!)
ビールが飲めなかったのはちょっと残念だけど、さすがにそこまでの贅沢は望まない。
熱いお茶をすすりながらふと窓の外に目をやると、温泉街の向こうで送り火の炎が小さく揺れているのが見えた。
時折、港のほうから聞こえてくる太鼓の音と波の音が、函館のお盆の夜を演出している。
そんな情緒を感じていたら、九条さんが腕時計をちらりと見た。
「九時になったら、部屋を出る。それまでに準備をしろ」
「準備とは?」
「……お前は特になかったな」
「……はぁ」
(準備ナシって……逆に怖いんですけど!?)