1−1 社内怪異、人事部調査課が処理します。
夜の資料室は、いつも冷たい。
蛍光灯の明かりが棚の金属に反射して、ぼんやりと白く光っている。
時計を見れば、もう23時を回っていた。
今日だけじゃない。
今月に入ってから、家に帰れたのは日付が変わる頃ばかり。
「辻山さん、これもお願いしていい? 急ぎじゃないけど」
その“急ぎじゃない”の仕事が、なぜかいつも山積みで、気づけば誰よりも遅くまで残っていた。
お願いしてくるのは、決まって”彼女”だった。
同じ部署の、誰とでも仲が良くて、愛想のいい、同期。
断れなかった。
私よりも仕事が早くて、人当たりもよくて。
「私のほうが処理早いから、辻山さんには無理かもね」って笑って言われたこともある。
その言葉のどこに悪意があったのか、私は、よくわからなかった。
でも、たぶん、あったんだと思う。
そう思わないと、やってられなかった。
今日も、また上司に叱られた。
「何度同じミスを繰り返すんだ」
「人の倍、時間かけてそれか?」
「こんな簡単なこともできないのか」
真っ直ぐに見下ろされながら言われる言葉は、皮膚じゃなくて、心の奥を削ってくる。
口では謝れたけれど、心ではもう謝ることさえ拒否していた。
私は、頑張ってるのに。
誰も私の頑張りを知らない。
いや、知ろうとしてくれない。
上司の言葉も、同僚の笑顔も、全部が遠くて冷たい。
あの人たちの輪の中に、私は一度も入れなかった。
息をするのも面倒で、背中が重くて、
このまま床に吸い込まれたら楽になれるのに、って思った。
寒い。
資料室って、こんなに冷たかったっけ。
でも、今日は少しだけ、ここにいるのが楽だった。
人と話さなくていいし、笑わなくていい。
ここにいれば、何も言われない。何も期待されない。
机に腕を乗せて、目を閉じる。
静かだった。まるで、この部屋ごと、世界から切り離されたみたいだった。
(いっそ、このまま……)
鼓動がうるさい。
生きてる音が、苦しい。
私はまだここにいる。
でも、もう、ここにはいない。
この資料室で、私は何度も自分をなくして、
今夜、やっと、私の居場所を見つけたのかもしれない。
誰か、見つけてくれるかな。
私がここにいたことを。
◆◆◆
私、神様の存在は信じないけど、鬼はいると思った――。
『おい、中の様子はどうだ?』
淡々として抑揚のない口調。
電話越しに聞こえてくる声は、低く冷たい。
季節は梅雨。まだ明けておらず、半袖のブラウス一枚では少し肌寒い時期だというのに、私の背中は滝のような汗でびっしょりだ。
「く、暗くて、よ、よく見えなくて……」
『目ぇ、瞑ってるんじゃないだろうな』
「み、見てますよ。一生懸命、目、ひ、開いて……ま、す。でも、でもっ、本当に真っ暗なんです。静かで薄気味悪いし……」
自慢じゃないが、私は子供の頃からお化け屋敷はもちろん、B級ホラー映画すらまともに見られないほどの極度の怖がりだ。
そんな私が、定時をとっくに過ぎたオフィスのフロアで、トイレに一人で籠もっている。その理由は――
『ちゃんと様子見てろよ。それと、ガチガチうるさい』
この冷血非情なパワハラ上司のせいである。
「怖くて勝手に歯がガチガチ鳴るんです……」
こいつのせいで私は今、気を失いそうだ。
『そんなにでかい音鳴らしてたら、隠れてるのバレるだろうが』
「そ、そ、そんなこと言われても……」
『とにかく、誰か来ても、犯人だって確定するまでは物音を立てるなよ』
「で、で、できるだけ頑張ります……」
彼の名前は九条静。
“静”なんて可愛らしい名前をしているが、顔も性格も、まったく可愛くはない。今年三十路になる男性だ。
そして私は、山木胡桃。二十四歳。
去年、新卒で総合リゾート運営会社『御厨リゾート』に就職し、総務部総務課を経て、今は人事部調査課に配属されている。
その調査課の人間である私が、なぜ今、心霊スポットに来たユーチューバーのような真似をさせられているのかというと——
六階の女子トイレで、落書き事件が起こったからだ。
落書き事件――つまり、誰かが女子トイレに不気味な言葉を残していくというものだ。
どれだけ気味が悪いかというと、「この会社、呪われてるらしいよ」なんて噂が社内に広まるほどである。
最初の落書きが見つかったのは、二月の初旬。
まだコタツなしでは生きられないくらい寒い時期だった。
その朝、広報課の女性が会議に向かう前にトイレを使おうとして、正面の壁に書かれた黒い文字を見つけたらしい。
墨のようなもので殴り書きされたそれは、確かに縦書きで「さむい」と読めたという。
――というか、「らしい」「という」みたいな曖昧な話になってしまっているのは、彼女がすぐに清掃員を呼んで、その場で落書きを消してしまったからだ。
記録も画像も残っていない。
けれど、それから約一ヶ月後、また同じトイレの個室で二度目の落書きが発見される。
今度は営業部の女性が、会議室に向かう途中で個室に入って見つけたそうだ。
書かれていたのは「さみしい」という文字。前回と同じく縦書きで、やはり黒い墨のようなもので書かれていた。
そのときはさすがに気味が悪かったのか、女性はスマホで文字を撮影していて、私たち調査課の手元にも画像として残されることになった。
さらにその約一ヶ月後。
三度目の落書きが見つかった。
発見したのは、また別の営業部の女性。
彼女も同じように画像を撮影していた。
ぼんやりとした筆跡で書かれていたのは、「うらむ」という文字。
白い壁に滲むように浮かび上がったその言葉は、もはやホラー映画の小道具のようだった。
「さむい」「さみしい」「うらむ」――
ここまで並ぶと、さすがにただのイタズラでは済まされなくなってくる。
社内には「何かがいる」とか「6階のトイレはヤバい」みたいな噂が飛び交い、妙な空気が漂いはじめた。
そこで、我々調査課に白羽の矢が立ったというわけだ。
落書きの犯人を突き止めろ、というお達しである。
そして今、私は上司の命令で、問題の女子トイレの個室に身を潜めている。
隣の個室で張り込むという、なんとも地味でストレスフルな作戦だ。
……我ながら情けない。
『おい』
突然、スマホのスピーカーから九条さんの声が響いた。
「はひ……」
『そろそろ時間だ』
時計を見る。時刻は、深夜0時35分。
丑三つ時まではまだあるけど、か弱い乙女がこんな時間にトイレでうろうろするものじゃない。
……いや、別にうろうろしてるわけじゃないんだけど。
『打ち合わせ通りにやるんだぞ。失敗は許されないからな』
「頑張ります……」
そんなに心配なら、自分でやればいいのに。
でもまあ、女子トイレに男が潜むのはさすがにまずいらしく、九条さんは隣の男子トイレから通話で指示を出している。
カメラや盗聴器を仕掛けるのも、あとで問題になると困るから、という理由もあるらしい。
……それにしても、こんなんで本当に、落書きの犯人を捕まえられるのかな。
そんな疑念を抱いた、そのときだった。
ギィ……。
小さく、ドアが開く音がした。
誰かが、トイレに入ってきた。
反射的に息を止める。心臓がドクン、とひときわ強く跳ねた。
(来た……?)
カツ、カツ……。
乾いた足音。革靴だろうか。硬い音が、タイル張りの床に響く。
そのまま個室の扉がゆっくりと開いて、隣に誰かが入った。
私はスマホを手に取り、画面を伏せたままライトの漏れを確認し、そっと録画を開始する。
カメラを壁の下隙間に差し出し、慎重に、相手に気づかれない角度で固定する。
画面は見ない。見る余裕なんてない。
音も、手の震えも、息の詰まりも、全部が邪魔をしてくる。
九条さんとの通話はまだ繋がったままだ。
でも、こちらから話さない限り、彼は絶対に声を出さない。
それが逆に、今は心強かった。
……静かだ。
でも、いる。確実に、隣に“誰か”がいる。
気配が、壁越しにじわじわと伝わってくる。呼吸すらも聞こえてきそうなほど近い。
そして——
ガリッ。
何かが、壁を擦る音。
筆か、墨か……湿ったものが、ザラついた表面を滑るような、鈍く、粘るような音だった。
私は思わず、口元を押さえた。
(書いてる……)
録画しているカメラの向こうでは、今まさに「それ」が行われている。
私の目には見えない。
けれど、音だけで十分わかる。誰かが、壁に、何かを“残している”。
やがて、筆のような音がぴたりと止まった。
次の瞬間、ごそっという物音。
誰かが、膝を折るようにして座り込んだ気配がする。
それから、しばらくの沈黙。
私はスマホを握りしめたまま、固まっていた。
何か、言葉を残すでもなく、物音一つ立てず、ただ重たい空気が個室の中に満ちていた。
(……終わった?)
そんなふうに思いかけたとき——
ギィ……。
個室のドアが、ゆっくりと開いた音。
その人物は、また何も言わずに歩き出す。
カツ、カツ、と床に響く足音が、遠ざかっていく。
私は息を潜めたまま、耳を澄ませた。
水も流さず、洗面所にも立ち寄らず、ただまっすぐに、出ていった。
……やがて、足音は完全に消えた。
私はようやく録画を停止し、スマホを握り直す。
(書いてた……よね?)
壁の向こうに視線を向けるけれど、個室の中までは覗けない。
何が書かれたかは、見えない。確認もできない。
だけど、あの筆の音、あの動き、そして気配。
あれは確かに——“誰かの言葉”だった。
そっとドアを開け、隣の個室を覗き込む。
白い壁に浮かび上がる、墨のような滲んだ文字——
「らくになりたい」
私はそれを見て、ぞくりとした。
冷えた空気が、じわりと頬を撫でた。