第一章 愛の証明 ⑦
イルカショーを見るために、開始時間の十五分前に会場に入った。
晴陽としてはレインコートを買って最前列で凌空と一緒に水を被るのもいいなと思っていたけれど、凌空に完全に拒否されたので後ろの方で見ることになった。
「凌空先輩はこのあと予定あるんですか?」
「別にない。今日は晴陽と別れたら家に帰ってゆっくりするって決めてる」
今日という貴重な休日の一日を、晴陽だけのために空けてくれたという事実が嬉しい。
「まだ始まるまで時間あるよな? トイレ行ってくる」
「ひとりで行けますか? 一緒に行きますか?」
「……セクハラって男女平等の言葉だって、知ってるか?」
席を立った凌空を手を振って見送り、早く帰って来ないかなあと思いながらイルカショーへの期待に胸を膨らませていると、晴陽の隣――もっと具体的にいえば、凌空が座っていた場所に知らない男の人が座った。
「あ、すみません。今席を外しているだけで、ここは連れが座っていて」
自分の口から発せられた「連れ」という単語に舞い上がりそうになる気持ちを抑えつつ、男の人を見た。
ふわふわの茶色い髪をした可愛らしい顔立ちのその人は、風貌的におそらく大学生だろう。知り合いではなさそうだ。
だが男は晴陽を見て大ファンのアイドルにでも遭遇したかのように、興奮気味に瞳を輝かせながら満面の笑みで抱きついてきた。
「晴陽ちゃん! 会いたかったよ!」
「え? えええええ⁉」
頭が真っ白になるとは、こんな状態を指すのだろうと思った。もし晴陽が漫画の主人公ならば狼狽え方にも面白味があるのだろうが、実際に平凡な自分の身に起こるとひたすらに動揺して言葉も出てこないことを知る。
「近くで見ると本当に可愛い顔をしてるんだね! 子犬みたいに黒目が大きいし、目鼻立ちのバランスもいい! あ、癖毛も可愛いー! わしゃわしゃってしてもいい?」
「ひっ、ひひひ、人違いじゃないですか⁉」
「オレのこともう忘れちゃったの? ひどいなあー」
怖い。おかしいよこの人。本気で心当たりがなくて青ざめながら、光の速さで男を突き飛ばした。
「ごめんなさい! 私、本当にあなたのこと知りませんから! 人違いだと思います!」
「ええー? 人違いなんかしてないよ? 瀧岡高校一年、逢坂晴陽ちゃんでしょ?」
「そいつは私のドッペルゲンガーか何かです! 今ここにいる私とは、全くもって無関係ですから!」
なぜ晴陽の個人情報を知っているのか。なぜいちいち語尾にハートマークがついているように聞こえるのか。
気になる要素は多々あれど、混乱する頭で行きついた答えは、彼の前から一刻も早く離脱することだった。
立ち上がって逃げようとした晴陽だったが、「待ってよー」と甘い声で手を握られて更なるパニックを起こした。
もはやここまでくると恐怖の種類が変わってきた。凌空に見られてしまったらどうしようという不安の方が強くなってきたのだ。
誤解で済むはずもない。愛を証明するとか言って執拗に好意を伝えておきながら他の男とこんなに親し気に触れ合っていては、凌空の女性不信に磨きがかかってしまう。
今はこの状況を見られないようにすることが最優先だ。早く、この場を――。
「晴陽、なにしてんの?」
なんて、考えているうちに愛しい人の声が聞こえて心臓が破裂しかけた。
晴陽の手を握る見知らぬ男の存在に、凌空は何を感じたのだろう。いつも以上に冷ややかというか、軽蔑を含有した視線を向けられている気がした。
「ち、違うんですよ。えっと、この男の人とは初対面なんですけど、なんかいきなり手を握られたっていうか……」
何を話しても言い訳に聞こえてしまうので泣きたくなる。晴陽の説明が下手なのか、男の雰囲気に「そう」思わせる説得力があるのか、端から凌空が晴陽を疑ってかかっているからか。答えはきっと、全部なのだろう。
蒼白する晴陽とは対照的に、男は凌空に笑顔を向けていた。
「君、都築凌空くんだよね? オレ、二階堂蓮。二階堂菫の兄貴なんだけど、妹のこと覚えてる? 中等部の頃の同級生で、一年生のときに告白して玉砕したらしいんだけど……しばらく会ってないだろうし、やっぱり忘れちゃったかな?」
「……え⁉ 同志⁉」
反応したのは凌空ではなく晴陽だ。たとえ相手が翁だろうが幼女だろうが、凌空に好意を向ける人類は晴陽にとって同志であり、ライバルである。どんな情報でも過剰反応してしまうのは当然だった。
「……覚えていますよ。わざわざ俺に話しかけてくるってことは、恨んでいるんですか?」
不審感を隠さない中にも何かに怯えたような表情で、凌空は蓮の反応を観察していた。
怖いもの知らずというか、自分の領域を侵す人間には誰が相手でも躊躇なく攻撃する凌空にしては、一歩引いた対応をしていると感じた。
凌空とは正反対の人懐こい笑顔をする蓮は、胸の前で手をブンブンと横に振った。
「恨むわけないじゃん! 菫からはよく君の話を聞かされていたからさ、ずっと会ってみたかったんだよね。菫のことは、女と付き合う気はないって言って振ったんでしょ? 晴陽ちゃんとお付き合いしているってことは、女嫌いは克服したの?」
よく喋るうえに、さっきから凌空の地雷を踏み抜きそうな話ばかりするのでハラハラしてきた。現に今、凌空の眉間には皺が寄っている。
「晴陽とは付き合ってないですし、今でも女は苦手です。だから俺には、二階堂さんみたいに女の手を平気で握れる神経はわかりません」
「え、そうなの? じゃあ、もしかして男の方が好きな人?」
「知りません。男も女も好きになったことがないので」
わざとかと疑いたくなるほど蓮は凌空をイラつかせている。先程までは蓮の様子を窺っていた凌空はもう、彼を明確に不快な対象と認識したのか睨みつけていた。
機嫌を損ねた凌空が「帰る」と言い出す前に、フォローに入らなければ。
「私が凌空先輩とお付き合いしたい一心で、猛アピールしている真っ最中なんですよ! というわけで、すみませんね二階堂さん! 貴重なデートの時間なのでふたりにさせてもらえませんか? ほら、そろそろイルカさんたちも出てきますし!」
自分は凌空に一途なのだとアピールしつつ、凌空から蓮を遠ざけるいい作戦だと思った。だが蓮はこの場から去ろうとする動きを見せるどころか、申し訳なさそうな表情すら見せることはなかった。
「でも、嬉しいな。凌空くんって人の顔と名前を覚えるのがすごく苦手だって聞いていたから、覚えていてくれたよって菫に教えておかないとね」
晴陽を無視して、蓮は凌空に嬉しそうに話しかけていた。
「教えるって……いえ、なんでもありません。確かに俺は、人の顔や名前を覚えられませんが……誰とでも友達になれる菫みたいな人、嫌でも印象に残ります」
「菫はよく『何か一つでも共通のものを好きになれれば仲良くなれる』って言ってたよ。だから友達が多いんだと思うな。でもね、たくさんの男の子と仲がよくても、菫が好きだったのは君だけなんだよ」
楽しそうな蓮と怖い顔の凌空を見ながら、晴陽は焦燥感に駆られていた。
珍しく凌空が人のことを、それも彼に好意を寄せている女の子のことを覚えている。余裕のない晴陽は、こんな些細なことですら嫉妬してしまう。
先人が成し得なかった「都築凌空への恋心の成就」という未踏の地を踏めるのか、屍の山の上に重なるだけなのか。
嫉妬こそすれど、自分が不安よりもやる気が上回るポジティブ人間で良かったと思った。
「……俺、そろそろ帰るわ」
「え⁉ 先輩、もう帰っちゃうんですか⁉ イ、イルカショーは見なくていいんですか⁉」
「もう十分付き合っただろ。これから予定あるし」
「そんなあー……この後は予定ないって、さっき言ってたじゃないですかあ……」
「急に予定が入った。じゃあな。付いてくんなよ」
「凌空先輩!」
「……愛の証明が結局できなかった晴陽に、俺を引き止める資格はないと思うんだけど」
それを言われてしまっては引かざるを得なくなる。一切の言い訳を封じられた晴陽は、凌空の背中を見送りながらガックリと肩を落とした。
「振られちゃったねえ。よしよし、お兄さんが慰めてあげよう」
蓮に優しく肩を叩かれたが、慰められるはずもない。楽しい一日になるはずだったのに、どうしてこうなったのだろう。
「……申し訳ないですけど、恨みますよ。二階堂さんが変な真似をしなければ、凌空先輩は帰らなかったと思いますし」
「オレがいなければデートは成功していたって言いたいのかな? あはは、それは思い上がりじゃない?」
ニコニコしながらなかなか辛辣な人だ。綺麗な花には棘がある、という諺は見るからに棘だらけの凌空にはしっくりこないが、蓮には似つかわしい。
「それより晴陽ちゃん。オレのことは蓮って呼んで? その方が仲良しな感じがするし」
「……仲良し云々は置いておくとして。その要望は私も凌空先輩に伝えたことがあるので、断りにくいですね」
「そうなんだ? オレたち、似た者同士かもね!」
「蓮さん、どうしてあなたは私の名前や高校を知っているんですか? 失礼なことを聞きますけど、私とあなたは初対面ですよね?」
見た目や柔らかい口調やふんわりとした雰囲気に誤魔化されそうになるけれど、全く知らない人間に自分のことを一方的に知られているというのは、気分のいいものではない。
蓮は口元の笑みを崩さないまま、晴陽の目を覗き込んだ。
「君はオレの、生き別れの妹なんだよね」
「いや、全然面白くないです」
「んー、伝わらないかあー……じゃあ、この胸に聞いてみて?」
そう言って晴陽の胸を指差した。晴陽の秘密を知っていそうな口ぶりに、思わず目を見開いてしまう。
「……蓮さんって一体、なんなんですか?」
だが、明らかに怪しい人だというのに、自分が警戒心を抱かないのが不思議だった。
初対面だというのに、こうして隣にいるのが自然すぎて今まで感じたことのない感覚を体験している気がする。
二階堂蓮。この人は一体、私のことをどこまで知っているのだろう?
『さあ! イルカのお友達がやって来たよぉー! 会場の皆ー! 拍手で出迎えてねー!』
マイクを通した溌剌とした声にハッとした。イルカショーの開演時間が来たようだ。
大きな拍手と歓声と共に華麗なジャンプで登場したイルカたちに魅せられると同時に、ショーが始まったのに話をしていてはイルカにも他の観客にも失礼だと思い、一旦口を閉じた。
ぶら下がっているボールにジャンプしてタッチするイルカに、蓮は感心したように拍手を送った。
「イルカって可愛いし頭もいいし、凄いよねえ」
「本当ですよね。しかも、人の心が読めるって話も聞いたことがありますよ」
「お醤油持ってくれば良かったー」
「食べる気ですか⁉」
「あはは、冗談だよ、冗談」
蓮の雰囲気のせいなのか、冗談には聞こえない妙な説得力があった。
「……蓮さんって、変な人ってよく言われません?」
「ぜーんぜん? オレは物心ついてからずーっとモテてきたし、菫も可愛くて明るい子だから人気があるんだよ。昔から兄妹揃って初恋製造機って呼ばれてたって、鼻高々に母さんが言ってたもん」
つまり、菫は強力なライバルだということか。再び晴陽は焦燥感に駆られた。
「その……話から察するに、菫さんは高等部には進学しなかったみたいですけど、まだ凌空先輩のことが好きなんですかね? 最近、アピールみたいなことしてます?」
「あはは、心配? 菫は今でも凌空くんのことが好きだと思うけど、うーん……どうだろうねえー」
凌空に恋い焦がれる者が多いという事実を改めて突き付けられた。数多のライバルの中から選んでもらわなければならないというのに、今日の失態は痛すぎる。
凌空の誤解をどう解けばいいのだろう。せっかくのデートがこんな形で終わってしまったことに項垂れた。今日は人生最高の日になるはずだったのにと、落胆の溜息が零れる。
「溜息を吐くと、幸せが逃げちゃうよ? 大丈夫大丈夫、またこれから頑張って行こう!」
「……蓮さんって、私と菫さんのどっちの味方なんですか?」
「そんなの決まってる! オレはいつだって菫の味方!」
「じゃあ敵ってことじゃないですか! しまった! スパイと話しすぎた!」
「スパイじゃないよー。あ、連絡先交換しようよ。後で必要になると思うし、ね?」
頑なに拒否する晴陽に蓮は唇を尖らせながら、自分のIDをメモ用紙に書いて晴陽の鞄に突っ込んで帰っていった。今日という一日が怒涛の展開すぎて、晴陽は何がなんやらわからなくなってしまった。
頭を抱えて俯く晴陽とは対照的に、三匹のイルカは見事なジャンプで会場を湧かせていた。