第一章 愛の証明 ⑤
「……凌空先輩、今、なんて……?」
己の不甲斐なさを嘆く隙を与えないくらい、威力のある言葉。いつもだったら「帰る」なのに「帰るぞ」だなんて。
それは、つまり――。
「嫌なのか?」
一緒に帰ることを、正式に許可されたのだ。
「いいえ! 喜んで家までお送りします!」
「バカ。俺が送るんだよ」
駅に向かって歩き出した凌空の後を、慌てて追いかける。その凛とした後ろ姿を見ながら、改めて思った。
晴陽は、凌空のことを運命の相手だと信じて疑っていない。
初めて会った瞬間から目を奪われ、体が好意を伝えようと藻掻き、細胞のすべてが彼を求めている様子を感じ取ったからだ。
ただ、もし直感等を抜きにして、言葉にして凌空の好きなところを挙げてみてと言われたら「こういうところ」だと答えようと思う。
――まあ、同時にこっぴどく振られてしまったわけだけど。
「これっぽっちも女として見ていない」と真正面から告げられた晴陽は、少しでも早く凌空の恋愛対象になれるよう日々の努力を胸に誓った。
「それにしても、凌空先輩と一緒に歩く道はいつもよりも煌びやかに見えますね!」
「大袈裟だな。それより晴陽、体は痛くないのか?」
「凌空先輩を見ていたら、痛みなんて吹き飛んでしまいましたよ!」
凍てつくような視線を感じる。本気で心配しているのにふざけるとは何事だ、とお怒りのようだ。
「痛みはあんまりないんですけど……私、実は体があんまり強くなくて。さっきの衝撃がどこかに影響していると怖いので、一応病院には行くつもりです」
「そうだったのか……」
「あ、凌空先輩は気にしないでくださいね? むしろ鍛えなきゃいけないなって実感したので、これからは筋トレに励むつもりです!」
力こぶを作るポーズをしてみたが、元々ないものは作れやしない。貧相な二の腕を凌空は無言で見つめていた。
「……体が弱いなんて知らなかった。本当に、ごめん」
「凌空先輩が謝る必要はないんですって! もうこの話は終わりです! もっと楽しい話をしましょうよ! あ、私の一発芸でも見ますか? 草を食むラクダの顔!」
もそもそと口を動かしてラクダを模する晴陽を華麗にスルーした凌空は、晴陽が持っていたキャンバスバッグを指差した。
「晴陽って美術部なんだろ?」
「はい! 知っててくれたんですか? 光栄です!」
「俺がどれだけ付きまとわれていると思ってる? 興味なんてなくても、君が勝手に喋るから覚えたんだよ。そのバックの中に入っている絵は無事か?」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」
キャンバスバッグの中身を取り出して、状態を確認した。
「えーっと……はい、大丈夫みたいです。まあまだデッサンの段階なので、破けていても問題ないですよ」
「……もしかしたら晴陽って結構、上手い方か?」
まだ背景しか描き込んでいないこの写実絵画に、晴陽の自惚れでなければ凌空は見入っているように思われた。
「えへへ、そう思ってもらえるなら嬉しいですね。……私には、いつか凌空先輩を描くって夢があるので」
凌空に褒められたことで浮かれてしまったのか、つい零していた。
「……モデルとかはやりたくないけど、描くだけなら別に……好きに描けばいいだろ」
「それじゃダメなんです。私を特別に想ってくれている先輩とふたりきりの空間で、私だけに向けられた顔や吐息や衣擦れの音をキャンバスに載せたいんですよ。その絵を描き上げられなければ、死んでも死にきれないとすら思っているんです」
人生で必ず成し遂げたい悲願。それを真正面から聞かされた凌空の大きな瞳が、キャンバスから晴陽に移動した。
何を考えているのかわからない澄んだ眼差しに、少しだけ怯む。思わず熱弁してしまったけれど、気持ち悪いと思われただろうか。
どれだけ振られても何度でも立ち上がる精神を持ち合わせている晴陽だが、この夢だけは、全力で拒否されたら膝から崩れ落ちるくらいのダメージを食らう自信がある。
凌空の唇が動く気配を見せたので、晴陽は身構えた。
「……わかった、いいよ。行こうか、デート」
あまりにも予想していなかった言葉に、目を瞬かせた。
「……い、今なんて?」
「何度も言わせるな。嫌ならやめるけど」
大きすぎる幸福に晴陽の体がついていかない。空も飛べるくらいに嬉しいのに、動揺して心臓が早鐘を打ち、変な汗まで掻いてきた。
「い、嫌なわけがないじゃないですか! で、でも……どうしてその気になってくれたんですか?」
「別に晴陽に心が動いたからじゃないし、今日のお礼がしたいわけでもない。ただ……昔、君と同じことを言った奴がいて……ちょっと、そいつとの間にしこりが残ったままだったから」
女性不信の理由を尋ねた際にも感じた焦りが、再び胸に宿る。
あのときは母親が原因だと言われ、凌空の元カノや好きだった人ではなかったことに安堵していた。
だけど、今の話はどう考えたって母親のことを指してはいない。晴陽と同じように、凌空に恋い焦がれた人間の発言が、彼の心に痕を残しているということだ。
それがどうしようもなく羨ましくて、嫉妬してしまう。
「だから俺の都合で、晴陽を振り回すことになる。幻滅したか?」
そう言って晴陽を見つめる凌空はやっぱり、とても綺麗で。
嫉妬に駆られている暇なんてないと思った晴陽はかぶりを振って、白い歯を見せた。
「いいえ。私は自分の気持ちに正直なあなたのことが、好きですから」
どんな理由であれ、凌空とデートができるのだ。晴陽にとっては僥倖でしかないはずだ。
気合いを入れてデートプランを練りに練って、凌空を振り向かせることだけに心血を注いだ方が絶対に建設的だ。
「せっかくチャンスをもらったんです! 絶対に凌空先輩を楽しませてみせますからね! 乞うご期待です!」
「そうか。じゃあ……期待しておくよ」
晴陽は凌空が好きだ。離れてなんかやらない。
執着とも呼べるほどの愛の出処もエネルギーも、この先どう証明していくのか。
現時点では、晴陽自身もわかっていない。