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水底の記憶

作者: へり

 

 雨が降っていた。


 地面に叩きつけられた雨粒がぱちぱちと音を立てて弾ける。


 道路脇の川は濁った水が勢いよく流れており、普段とは異なる様相を呈していた。


 私のすぐ隣にはレインコートを着て傘を差した女の子がいて、一緒に帰り道を歩いている。


 時折その子が何かを言って、私はそれに微笑みながら言葉を返した。


 とある雨の日の放課後、大切な友達との記憶だ。







 気が付くとどこかの町の通りに立っていた。空は夕暮れに染まっており、あと半刻もしない内に日が沈んでしまいそうだ。どこか遠くの方から蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 ふと自分の格好を見れば、着替えた覚えもないのに深い紺色の浴衣を羽織っていた。


「あれ、こんなもの私持ってたかな…。というかここ、どこ?」


 寝起きのように頭が回らない。そうしてぼんやりと辺りを眺めてみれば、眼前の大通りでは人々が屋台の準備をしていた。提灯なども飾られているということは夏祭りでもあるのだろうか。そこまで考えてから、私はその景色に強い既視感を覚えた。


「ここ、水神町だ…」


 水神町。都心から離れた県にある田舎町であり、私の地元でもある。県外の学校へ進学するに伴って一人暮らしを始めたために今は住んでいないが、逆に言えばそれまではずっとこの町で生活していた。とはいえ、帰省のために年に一度くらいは今でも訪れているのでそう久しい訳でもない。

 そのはずなのだが、どうにもこの光景には懐かしさを感じる。何年も地元の夏祭りに参加していなかったからだろうかとも考えたが、それだけでは説明しきれない奇妙な感覚があった。その正体を探ろうと頭を捻っていると、近くの建物に目が留まる。


「え、あそこの駄菓子屋って確かなくなったはずじゃ…?」


 大きく駄菓子屋と書かれた看板が木造の建物に掲げられている。小学生くらいの頃は良く通っていたが、店主のお婆ちゃんが足を悪くしたことをきっかけとして、五年ほど前に閉店していたはずだ。しかし店舗は扉が開いており、室内には商品も陳列されている。どう見ても閉店しているようには思えない。知らぬ間に誰かが後を継いで営業を再開させたのだろうか。

 私はふらふらと吸い寄せられるようにしてその店へと近づいた。すると、店の奥から人が歩いてくる。


「おや、悠ちゃん。どうしたんだい、もうすぐお祭りが始まるよ」


 見間違えるはずはない、背中を丸めたその人物は駄菓子屋を経営していたお婆ちゃんだ。それは私の名前を呼んだことからも明白だった。しかし不思議なことにお婆ちゃんは何事も無いように自分の足で歩いている。近くに杖も見当たらない。まるで私が小さかった頃のように。


「お婆ちゃん、足は平気なの?悪くしたって聞いてたけど…」


「うん?何のことだい」


 お婆ちゃんは不思議そうに首をかしげてから、そうだ、と言って商品棚をがさごそといじり始める。本当に心当たりが無さそうだ。一瞬私の記憶違いだったのだろうかと思ったが、良く見れば他にも違和感がある。それは外見が不自然に若いことだ。勿論年配ではあるのだが、記憶にあるあの頃でもそれなりに高齢であったはずだ。最近は顔を合わせる機会がなかったが、こんなにも昔の見た目のままというのはあり得るのだろうか。


「そんなことよりほら、これをあげるよ」


 考え込む私に対して、お婆ちゃんは個包装された飴玉をひとつ差し出した。


「お祭りだからね、特別だよ」


「そんな、悪いですよ…」


 私はそう断ろうとするも、お婆ちゃんはいいからとほほ笑んで飴玉を握らせてくる。しかしいくら飴玉一つといえど、商品をただでもらうのは何となく気が引けた。そんな気持ちが伝わったのだろうか、お婆ちゃんは付け加えるように言う。


「遠慮しないの、まだ子供なんだから」


「…え」


 優しい笑みを浮かべたお婆ちゃんを思わず呆けた顔で見つめ返してしまった。私はもう成人していてとっくに子供と呼ばれるような年齢ではない。お婆ちゃんから見れば私もまだ子供だという意味だろうか。いや、今の言い方は明らかに小さな子供へと向けるものだったように感じた。思いがけない言葉に私は何も反応することができない。そんな私に考える暇を与えないかのように、後ろから声がかけられた。


「悠ちゃん」


 懐かしい。声を聴いた瞬間にそう思って振り返った。後ろに立っていたのは、花柄の可愛らしい浴衣を着た小学生くらいの女の子だった。しかし誰なのかは分からない。その子は戦隊ヒーローものの赤いお面を被っていて顔が見えなかった。声だけでは思い出せないが、絶対に私は知っているはずだ。確かに聞き覚えがある。必死に思い出そうとしていると、女の子が近づいてこちらを見上げてきた。お面の奥から覗く目と私の目が合う。


「どうしたの?お祭りいこーよ」


 言うが早いか、彼女は私の手を取って店の外へと引っ張った。







 荒れた川に向かって女の子の体が倒れ込んでいく。


 足を滑らせたのだろう。想定外のことにその子の両目はまん丸に見開かれ、咄嗟に伸ばした手がこちらへ向けられた。


 反射的に自分もその子へ手を伸ばす。


 それほど離れて歩いていたわけではない。すぐに届く距離だ。


 そうして一瞬の後、指先がかすかに触れ合った。







 駄菓子屋の外へ出ると、空はすっかり暗くなっていた。店内にいた時間はほんのわずかだったはずだ。夏にもかかわらず、短い時間でこれほどすぐに日が落ちてしまうものだろうか。さらに通りに沿って並ぶ出店もすっかり営業準備が整っており、大勢の客が通りを埋めていた。そこかしこに配置された提灯の明かりは辺り一帯をうすぼんやりと照らし、その光景が私をどうしようもなく懐かしい気持ちにさせる。小さな時は毎年この祭りに友達と訪れていた。


「よーし、まずどこから行く?」


 声を弾ませながら振り返った彼女がようやく手を離してくれた。表情は見えないが、笑顔を浮かべていることは想像に難くない。だが残念ながら私は純粋に祭りを楽しむ気にはなれかった。先ほどから不可解なことが起こり続けている。地元を離れて生活する私がなぜ水神町にいるのか。なぜ駄菓子屋のお婆ちゃんは昔と同じ姿をしているのか。そして、突然現れたこの女の子は誰なのか。様々な疑問が頭の中で渦巻いて思考がまとまらない。


「…どうしたの?おなかでも痛い?」


「あ、いや…」


 私の顔を覗き込む彼女に歯切れの悪い返答をする。このままではとても他のことに身が入りそうもない。もうこの子に直接誰なのか聞いてしまおうかとも思ったが、彼女は私のことを知っている様子だ。私の方は覚えていないと知れば悲しんでしまうだろうか。

 とはいえこのまま隠し続けるのも難しい。私は心の中で謝りながら、意を決して正直に質問することにした。


「その、すごく言いづらいんだけど」


「私が誰か分からないんでしょ」


 思わず息を飲んだ。見抜かれたということもあるが、この子の雰囲気が突然変わったからだ。子供特有の無邪気さが鳴りを潜め、視線が僅かに鋭さを帯びた気がした。


「ふふ、まあその内思いだすよ」


 私へ向けていた視線を前方へ戻すと同時に張り詰めた空気を霧散させるが、私の心中は穏やかではない。今の雰囲気は明らかに子供が出せるものではなかった。改めて考えてみても、私の知り合いにこんな子は居なかったはずだ。私は一体何を忘れているのだろう。


「ほら、そんなに難しい顔してないでさ、お祭り楽しもうよ。せっかくなんだから」


「…あ、うん、そうだね」


「そうだ、私のこと思い出せないなら名前も分からないよね。とりあえずお面ちゃんとでも呼んで」


「…本当の名前は教えてくれない?」


「それは自分で思い出してほしいもん」


 どこか楽しそうな様子で人差し指を口元にあててお面ちゃんが言った。


「あ、私あれやりたい!」


 言いながら指さした先へ視線を向けると、それは千本つりの屋台だった。そういえば地元かどうかに関わらずお祭り自体が久しぶりだ。こんな状況ではあるが、ほんの少しわくわくしてきてしまう。この子のことは思い出せないし依然として状況は解決していないが、今はお祭りを楽しんでしまってもいいかもしれない。お面ちゃんと話す内に不思議とそんな風に楽観的な考えが浮かんできた。


「いいよ、じゃあやりに行こうか」


 そう言って二人で屋台へ向かうと、無数の糸とその先に括り付けられた景品が目に入る。お菓子や子供用の玩具など多様なものが用意されているようだ。一回いくらだろうと値段の表記を見てから、ふと思い至る。私は今財布を持っているのだろうか。

 まずい。いいよと気軽に言った手前、お金を払えないなんてことになれば非常に恥ずかしい。それに加えて。


「…!」


 すぐ隣ではお面ちゃんがきらきらとした目で景品を眺めている。今更できないなんて言えない。ぱたぱたと袖を振ってみたり懐を探ってみると、帯の辺りに膨らみがあった。手を入れてみれば前板のポケットに財布が入っている。ちょっと出かける時なんかに使用している薄くて小型のものだ。探していたことがばれないように何食わぬ顔で手に取り、中の小銭を確認する。良かった、これだけあれば祭りを楽しむには十分だろう。内心ほっとしていると、あ、と何かを思いついたようにお面ちゃんが声を上げた。


「ふたりで同時に引こ!おっきいやつ取れた方が勝ちね!」


「分かった、勝負だね」


 微笑みながら財布から二人分のお金を取り出して店主へと差し出した。


「すみません、これで二人分を__」


「だめだよ、私ちゃんとお小遣い持ってきたもん!」


「あ、そうなの?」


 本人がそう言っている以上、私が勝手にお金を出してあげるのも良くないか。どうするんだ、という視線を向ける店主に対して私は一人分の代金を手渡した。続くようにお面ちゃんも、お願いします、と元気よく言いながらお金を支払う。


「えーと、どれにしようかなあ…」


 むぅ、と唸りながら眉をひそめて紐をにらんでいるお面ちゃんを横目に、近くにあった紐を手に取る。私の場合こういうのは割と適当に選んでしまいがちだ。


「…よし、これに決めた!」


 少ししてからそう言ってお面ちゃんも紐を握る。結局端の方にあったものを選んだようだ。ちらと私の方を見て、紐をつかんでいることを確認する。


「じゃあせーので引くよ、せーのっ!」







 私は昔から引っ込み思案な子供だった。朧気な記憶だが幼稚園でもみんなが外で遊んでいるのを眺めていた、そんな覚えがある。


 いつものようにそうしていると、ある日私に女の子が声をかけてきた。いつも他の子たちの中心にいる明るい子だった。


「ねえ、あそばないの?」


「…ぇ、と」


 咄嗟のことにかすれた声しか出なかった。不思議そうに首を傾げたあの子は、それでも私が何か言おうとしていることが分かったのか何も言わずに待ってくれていた。少し呼吸をして言いたいことをまとめてから口を開いた。


「わたし、あんまりはなすのとくいじゃないから…」


「ひとりがすきなの?」


「え、それは…」


 少し考えてゆるゆると首を振る。別に人と関わるのが嫌いなわけではない。ただ少し輪に混ざる勇気が無かっただけで。するとその子は嬉しそうに顔をほころばせて言った。


「そっか、じゃあいっしょにあそぼ!」


 何しよっか、なんて言いながら強引に私の手を取り室内に向かう。


「みんなとそとであそばないの?」


「きょうはなかでしずかにあそんでなさいっておかあさんが。きのうころんですりむいちゃったから!」


 えへへ、と恥ずかしそうに笑いながら言う彼女の膝を見れば、少し血の滲んだ絆創膏が貼られている。本人はあまり気にしてないようだが少し痛々しい。

 再び歩き始めた彼女の横顔を見つめる。いつも明るくて笑顔で、友達の多い子。それでいて私にも声をかけてくれるようなとても優しい子。そんなこの子に対して私はこの時、自分もこんな風になれたらと憧れを抱いた。けれども、それと同時に。


 自然とそんな風に振る舞えるこの子が、どうしようもなく羨ましいと思ったんだ。







 私が選んだ糸の先には袋のスナック菓子が付いていた。ざっと他の景品を眺めた限りでは中くらいの大きさだろうか。お面ちゃんはどうだったろうと隣を見れば円柱状に丸められた布製品を持っていた。ぱっと見では私の景品の方が大きそうに見える。


「ふふふ、私の勝ちだね」


 しかし、勝ち誇ったような声で言いながらお面ちゃんがそれを広げた。どうやらキャラクターのプリントがされたトートバッグだったらしい。バッグとしては少し小さめだが、私が持っているお菓子の袋よりは大きい。確かに私の負けのようだ。


「じゃあ、後でなんか食べ物買ってもらおっと」


「え、さっきは自分で払うって…。いや、まあそれくらい良いんだけどね…」


「それはそれ!勝負の結果はまた別だもんねー」


 まあ負けた方がどうするかは決めていなかったか。そもそも負けたら何かしなければならないというのも聞いていなかったが、これくらいのお願いならかわいいものだろう。


「よーしそれじゃあ次はー、あれ!」


 指した先にあるのは射的の屋台。千本釣りも良いが、やはり射的の方がお祭りらしいと感じる。近くまで行って眺めるとこちらも様々な景品が並べられていた。小さいものは駄菓子から大きなものはゲーム機、よく分からない怪獣のフィギュアやロボットなんかもある。


「じゃあまた勝負ね、たくさん獲れた方の勝ち!あ、今度は負けても何も無いから安心してね!」


 射的はまあまあ得意だ。上手いと言えるほどではないが、昔友達と一緒にやった時にはいつも私の方が多く景品を獲っていた。そう、昔あの子と来た時もこんな風に。

 そこまで考えて、あれ、と思う。よく一緒に遊んでいたあの子とはどんな人物だっただろうか。いや、そもそも。


「撃てるのは五発かあ、一発で一つずつ落とせると良いんだけど」


「…え、あ、うん、そうだね」


 声をかけられて、はっとした。少しぼうっとしていたようだ。何か考えていたような気がするが既に忘れてしまっている。まあ忘れるということはさして重要ではなかったのだろう。それよりも今は射的だ、無意識に支払いは済ませたようだった。

 景品は階段状の棚に並べられている。一番手前の段には小さい景品が並んでいるため狙いやすいのはそこだろうか。いや、よく考えればそこまで本気で勝ちにいく必要も無いか。手を抜くつもりはないが、それはそれとしてこれは遊びだ。大きな景品を狙ってみるのもいいだろう。


「お面ちゃんはどれを狙ってるの?」


「んー?私はねえ、あそこの合体ロボット」


 お面ちゃんは射的用の銃を構えて、銃口を最上段へ向けていた。日曜日の朝にやっている番組に出てくるような玩具の箱がある。大きさもあり、弾を当ててもそう簡単に倒れないということは想像に難くない。


「私あーいうの好きなんだあ、ロボットかっこいいでしょ?」


 楽し気なその声からは好きという純粋な気持ちが伝わってくる。私の中にある冷静な部分があんなもの狙っても落とせないと考える。だが、今やっているのはお祭りの遊びだ。多少の挑戦があった方が面白いだろう。それにこの子とはまだ短い付き合いだが、きっとあのロボットを落とせなかったとしても落ちなかったね、なんて笑って言いそうだ。わざわざ私が、落とすのは難しいと思うなんて言うのは無粋極まりない。


「そっか、じゃあ私も狙ってみようかな」


「えっ、ずるい、私が先に落とすもん!」


 そう息巻くこの子はきっと、自分で言った多く落とした方が勝ちなどというルールは忘れている。けれども結局の所楽しければそれで良いのだ。さて、あれを落とすにはどこを狙うのが良いか。そんなことを考えながら狙いをつけて引き金を引く。パン、と乾いた音が二つ重なって響いた。







 小学校二年生になって少し経った。私は彼女の影響で外で一緒に遊ぶように、なんてことはなく相変わらず休み時間は教室で本を読んでいるような学校生活を送っていた。あの子は前よりももっと活発になって、最近は男子に混ざってよくサッカーをしている。


「悠ちゃん、きのうのあの番組見た?」


「あ、――ちゃん、あれ面白かったよね」


 それでも私と彼女の関係は続いており、今では友人と呼べるほどになった。授業の間の小休憩では特にこうして話すことが多い。以前と違って今のクラスメイトの子たちとは全く話せないわけではない。だが、やはり私は根本的に会話が得意ではないのだろう。――ちゃんと同等に仲が良いと言える人間はいなかった。ただ、正直な所それはあまり気にしていない。


「それでねー、おにごっこしてるときに二組の佐藤くんがころびそうになっちゃってさあ」


 この子と何てことない話をしている時間が楽しいと感じる。他の子達は数人で集まってわいわいと話しているが、きっと私にとっての会話はこの程度で十分なのだろう。そう思った。ただ。


「――ちゃーん、ちょっといーい?」


「ん、なあにー?…ごめん、ちょっと行ってくるね」


 ――ちゃんはみんなの人気者だから、こうして呼ばれることが多々ある。そうすると自然、会話は終わってしまうからそれが少し寂しい。


「ううん、気にしないで」


 私は笑ってそう言う。これは仕方のないことだ。幼稚園の頃から多かった――ちゃんの友人は小学生になって更に増えた。私にとっては唯一と言える友人だが、――ちゃんにとってはそうではないだろう。そんな中でも彼女が私と話している間は、なんとなく他の子と遊んでいる時とは雰囲気が違う気がする。だからほんの僅かでも彼女の中で私の存在が特別であるんじゃないか、そんな風に思うことがある。けれども、これはきっと私の願望に過ぎないのだ。


「えー?あはは」


 教室の隅に目を向ければ、――ちゃんと彼女を呼んだ女の子が笑いながら話している。その光景を見て、みんなに求められるこんなにすごい子と私は仲良しなんだ、という自信にも似た感情が湧くのと同時。


 私は絶対にああはなれないだろう、と彼女に対する劣等感がじわりと心を蝕んだ。







「うーん、そろそろお腹すいて来ちゃったなあ…」


「いい匂いするもんね」


 周囲には焼きそばや唐揚げなどの屋台もあり、香ばしい良い匂いが漂っている。そういえば私もここへ来てから何も口にしていなかった。そうと気づけば、途端に体が空腹を訴え始めたように感じる。


「お面ちゃんは何か食べたいものある?」


「え、買ってくれるの!?」


「さっきの勝負で約束してたからね」


「あー、そういえばそうだったね」


 えへへ、と頬をかきながらお面ちゃんが言う。やはりロボットを狙うことに熱中して勝負のことなどすっかり忘れていたらしい。結局私達はロボットを落とすことができなかったが、お面ちゃんはちゃんと楽しめたようで少し安心した。


「んー、とね…。あ、たこ焼きが食べたいかも!」


「分かった、たこ焼きだね」


 どこにあるだろうと辺りを見渡せば、先の方にたこ焼きの屋台があるのが見えた。近づくにつれて、次第に鉄板の熱気とソースの強い香りが私達を包み込んでいく。


「えーと、何個入りがあるんだろ…」


 屋台に貼られた料金表を見ると六個入りと八個入りが売っている。個数が少ないようにも思えるが、隣のお客さんが手に持つパックを見ると普通のお店で売っているものよりも一つ一つが大きいように見える。


「お面ちゃん、いくつぐらい食べられそう?」


「ふっふっふ、私は今お腹が空いてるからね…。4つは食べられるよ!」


「っふ…。そ、そっか…」


 そんな風に自慢げに言うものだから、思わず笑ってしまいそうになって口から息が漏れる。私の様子には気づかずに、ふふーん、と胸を張っている姿はとてもかわいらしい。落ち着くために少し呼吸を整えてからお面ちゃんに向き直った。


「じゃ、じゃあ8個入りを買って分けようか」


「うん!」


 お金を取り出して八個入りひとつ下さいと伝えると、屋台のおじさんは威勢のいい返事を返してくれた。







 最近、――ちゃんと話す機会が減った。原因は――ちゃんが忙しくなったから。彼女は今、小学校の児童会長に立候補して選挙活動をしている。いや、正確には立候補させられた、と言った方が近いか。誰かにやれと強制されたわけでは無いが、クラスメイトや同学年の子達は――ちゃんが立候補すると決まっているかのように話していた。普段彼女はやりたくないことがあればはっきりと意見するのだが、今回は特に何も言わなかったらしい。周囲の期待が大きすぎて言えなかったのだろうか。

 そんなこんなで二人で話したり、一緒に帰ることもここ数週間はできていなかった。しかし今日は違う。珍しくやることが無いようで、久々に一緒に帰り道を歩いている。


「うあー…」


「――ちゃん、大丈夫?」


「んー、うん、大丈夫だよぉ。ちょっと疲れただけー…」


 そう言った彼女は見たことが無いくらい疲れた顔をしていた。先ほどまで学校にいたときはそんな様子を見せず元気に振る舞っていたのだが。やはり無理をしているのではないか。

 彼女の言葉を聞いてなおも心配するような顔をする私を見て、――ちゃんは少し困ったようにはにかむ。


「心配してくれてありがとう。でもほんとに大丈夫、疲れてはいるけどね」


「でも――ちゃん、他の子達から無理やり…」


「まあ確かに最初からやりたかった訳じゃないよ。だけどほんとに嫌なら立候補してなかったと思う」


 それから、何かを考えるような素振りを見せた。かと思えば納得したような表情を浮かべ、足元の石を軽く蹴り転がして続ける。


「成り行きだけど、割りと楽しいと思ってる。うん、少なくとも嫌じゃない気持ちだよ」


「…そっか」


 正直なことを言えばかなり本気で心配していた。彼女が本当に嫌な思いをしているのなら、先生に相談しようと思っていたくらいだ。でも、そうじゃないのであれば。これは私が口を出す問題ではなかったのだろう。

 だけど同時に、なんだか――ちゃんが私から少しずつ遠い存在になっているような気がしていた。この時の私には、離れないでいて欲しい、ずっと仲良くしていたいという思いが確かにあったはずなのに。


 ああ、もう彼女と自分を比べずに済むんだ、という冷たい感情がどこかで生まれたのも事実だったのだ。







「ん、お面ちゃんどうしたの?」


 たこ焼きを買った後どこかで座って食べようということになり、私達は場所を探して歩いていた。のだが、お面ちゃんがとある屋台の前で急に立ち止まった。


「…」


 甘い匂いの漂うそこはわたあめの屋台で、様々なキャラクターが描かれた袋が陳列されている。お面ちゃんは、日曜日の朝放送されている番組に登場するヒーローのイラストをじっと見つめていた。


「そういうのが好きなの?」


「うん」


 お面ちゃんはイラストから視線を外さずに答える。そういえば、彼女の付けているお面もイラストと同じヒーローのものだ。気になった私は続けて質問を投げかけた。


「じゃあ、やっぱりそのお面も?」


「ん?んー、それもある、かな」


 少し悩んでから、お面ちゃんはそんなあいまい返事を絞り出すようにして言った。それも、ということはそれだけではないということだろうか。


「一番の理由は悠ちゃんだよ」


「私?」


「そう。悠ちゃんが私のことをそう思ってるから」


 彼女はお面に手を添えながら私を見る。私がそう思っている。一体どういう意味なのだろう。彼女の正体と何か関係があるのだろうか。考えてはみたがやはり堂々巡りだ。お面ちゃんのことを私が思い出さなければ疑問は解決しそうにない。


「それってどういう…」


「それはまだ内緒だよー」


 駄目元で聞いてみるも、そう言って躱されてしまった。それからお面ちゃんはお金を取り出して屋台のおじさんに差し出す。あのヒーローのやつが欲しい、なんて話している。

 結局今のはどういう意味だったんだろう。何だか頭がぼうっとしてきた。


「おーい、悠ちゃん」


 声を掛けられて我に返った。はっとして頭を左右に振る。お面ちゃんは会計を済ませたようで、手にはあの赤いヒーローが描かれた袋を持っていた。


「あそこにベンチがあるよ、座ってたこ焼き食べよ」


「…あ、うん」







「はい、これお箸ね」


 もらった割り箸をお面ちゃんに渡してからたこ焼きの入ったパックを開けると、マヨネーズとソースの香りがふわっと広がった。たっぷりかかった鰹節がゆらゆらと踊っているのもまた食欲をそそる。


「うわぁ~、おいしそう…」


「ほんとだね」


 その時、ぐう、と私のお腹から音が鳴る。あんまり良い匂いだったから私の胃も刺激されてしまったようだ。


「…悠ちゃんもお腹空いてたんだね?」


 お面ちゃんが嬉しそうに言った。顔は見えないが間違いなくにやにやしている。恥ずかしくなった私は思わず顔を反らした。だけど私の赤くなった顔は隠せなかったようだ。背中にお面ちゃんからの生暖かい視線を感じる。


「ほらー、あったかい内に食べよう?いただきまーす」


 お面ちゃんが口元だけお面をずらして、たこ焼きをほおばろうとする。一つ丸ごと口に入れようとする彼女を見て、顔の赤みなど忘れて声をかける。


「あ、待って、一口で食べちゃったら…」


「…!?あふっ、あふいっ…!」


「ああ、間に合わなかった…。お水買ってくるからちょっと待ってて!」


 私の声に反応する余裕は無いようで、お面ちゃんは必死ではふはふと口の中を冷まそうとしている。確かさっき自販機があったはずだ。急いで水を買ってお面ちゃんのもとへと走る。ペットボトルのキャップを開けてから彼女へと手渡せば、ごくごくと勢いよく水を飲み始めた。それから少しすればようやく落ち着いたようで彼女は大きく息を吐いて言った。


「ふうっ、美味しかったけどちょっと火傷しちゃった…」


「ごめんね、私の注意が間に合えば…」


「い、いや、私が急いで食べたのが原因だから。悠ちゃんのせいじゃないよ」


「…!」


 悠ちゃんのせいじゃないよ。その言葉を聞いた瞬間、不思議と胸がざわついた。不快感とは少し違う。ただ、胸の内側をざらざらとしたもので撫でられたような、とにかく落ち着かない感じだ。


「悠ちゃん、どうかした?」


「…ううん、大丈夫、なんでもないよ」


 とはいえそれは一瞬のことで既にその感覚は消えてしまったのだが、なんとなくそれが喉元に残っているような気がしてならない。その嫌な余韻のようなものをどうにかしたくて、押し込むようにしてたこ焼きを口に放り込んだ。


 数秒後その行動を後悔したことなど言うまでも無い。







「ね、悠ちゃん」


 たこ焼きを食べ終わって一息ついた頃、お面ちゃんが私の顔を見上げて言った。


「なあに?」


「この先に神社があるの。そこでお話しようよ」


 神社と聞いて、そういえばこの辺りに神社があったなと思い出す。小さい頃元旦の初詣で訪れたことがある。他にも友人と一緒に境内で追いかけっこなんかをして遊んだこともあったか。今思えば神様の前で走り回るのはちょっと罰当たりだったかもしれないとも思うが、あそこは人があまり訪れず喧噪が苦手な私には居心地が良かったのだ。


「聞きたいこととか色々、あるでしょ?」


「…うん、そうだね」


 続くお面ちゃんの言葉に頷く。聞きたいことなんて沢山あるに決まっている。中でも一番気になるのはお面ちゃんの正体だ。彼女が一体何者なのか、この不思議なお祭りを巡る中で絶えず頭の隅にあった疑問。

 いや、本当は目をそらしていただけなのかもしれない。正直に言えば私はもう彼女の正体に見当がついている。だがそれはあり得ないのだ、どうしたって辻褄が合わない。だってあの子は。

 とてとてと歩き出したお面ちゃんの後に続く。もし本当に彼女の正体が私の想像通りだったとして、どんな言葉をかければ良いのだろう。そんな風に悩んでいるうちに神社へ到着した。劣化して少し色の落ちた鳥居をくぐり境内に入ったところで彼女は立ち止った。そしてこちらへ振り返ると楽し気に話し始める。


「いろんな屋台をまわったけど、どれも楽しかったね!」


「…うん、そうだね。久しぶりに童心に戻って楽しんだ気がする」


「そっか、それは良かった!悠ちゃんが楽しくなかったらどうしようかと思ってたんだぁ」


「大丈夫だよ、ほんとに楽しかったんだ。とっても、懐かしかった…」


 顔は見えないけれど、私の言葉を聞いてお面ちゃんの表情がほころんだ気がする。だがそれも一瞬のことで、すぐにお面の奥の目が細まった。そして私の隣を歩き抜けながら続ける。


「…じゃあ、そろそろ本題に入ろっか。私のこと、思い出せた?」


 言いたくない、率直にそう思った。言えば決定的に何かが変わる予感がした。けれども、これはきっと私にとって必要なことなのだ。私は意を決して口を開いた。


「うん、思い出したよ」


 そうして、言う。彼女の名前を。


「ひよりちゃん、なんだね?」


 しばし静寂が場を満たした後、彼女がその顔を覆うお面に手をかけてゆっくりと外す。そうして露わになったその顔は、私の大切な友達だったひよりちゃんの小学生時代と寸分違わなかった。


「正解!」


 あの頃と同じ、見ているこちらが元気をもらえるような笑顔を浮かべて彼女はそう言った。


「…小学校卒業以来だから久しぶり、でいいのかな?」


 本当に久しぶり過ぎて言葉が上手く出てこなかった。それに加えて別れがあんな形となってしまったのだ、気まずいなどというものではない。今更どの面を下げて彼女と会話しているんだ、と思わず心の中で自身を糾弾する。震える声でどうにか絞り出した言葉に対してひよりちゃんは首を横に振った。


「残念だけど、私は本物のひよりちゃんじゃない」


「え?それはどういう…」


「悠ちゃんだって分かってるでしょう?私が本物だったとしたら、こんなに幼い姿をしているはずが無いって」


 それは確かにそうだ。ひよりちゃんと私は同級生で同じクラスだった。ならば彼女だってもうそろそろ成人を迎えている。あまり身長が伸びなかったのだとしても、ここまで昔と同じ姿であるはずは無い。


「一旦状況を整理しよっか。悠ちゃんは今自分に起きている現象を理解できている?」


「…いや、正直に言うと何も」


 お面ちゃんの正体がひよりちゃんだったことは分かったが、逆に言えばそれ以外の疑問は何も解決していない。いや、彼女は先ほど自身を本物のひよりちゃんでは無いと言った。ならば結局のところ私は現状を何も理解できていないも同然だ。


「ここはね、悠ちゃんの心の中だよ。あの頃が再現された夢っていう表現が分かりやすいかな?」


「夢…」


「現実の悠ちゃんはね、眠っているの」


 呟くようにして復唱する。確かにここが夢の中だとすれば色々なことに説明がつく。そも、夢なのだから整合性などあるはずもないのだ。駄菓子屋のお婆ちゃんもひよりちゃんの姿も、現実がどうであろうと関係ない。

 私がそのことを理解するまで待ってくれていたのだろう。少ししてからひよりちゃんが再び口を開いた。


「起きたら思い出すだろうけど、あの時の記憶を刺激する出来事があったんだ」


「あの時?」


「私、ひよりちゃんと悠ちゃんが疎遠になってしまった切っ掛け」


「…」


 彼女の言う通り、私とひよりちゃんはある時期を境に関わらなくなってしまった。その後関係が元に戻ることはなく、そのまま卒業を迎えてそれ以来顔を合わせていない。だから私は彼女に大きな負い目を感じている。だがそもそもそうなってしまった原因は何だっただろうか。そこまで考えると、頭に一瞬痛みが走った。


「思い出せないでしょう?悠ちゃんが記憶に蓋をしてしまっているから」


「記憶に…蓋を…?」


 私は、その時の出来事を忘れてしまいたいと願っていたのだろうか。よく考えればただ単に関わらなくなっただけならば私がこれほどの負い目を感じる必要はないはずだ。ならば、そう思うに値する何かがあった。その嫌な何かを忘れてしまいたくて記憶の奥底へと沈めたのだ。ひよりちゃんとの思い出と共に。


「でもね、今の悠ちゃんはあの時のことを思い出しかけている。だから私がこうして夢に現れたの」


「貴女は、私が何を忘れたのか知っているの?」


「私は悠ちゃんの記憶そのもの、それがひよりちゃんの形をとっているだけだから。言ったでしょう?私は本物じゃないって」


 私が忘れたいと願ったもの。友人の記憶まで一緒に押し込めたのだ、きっと相応に辛い出来事のはず。けれども、今の私は忘れたままにしておきたくないと感じている。

 そうだ。あの日、ひとりぼっちだった私の手を取ってくれた憧れであり大切な人。そんな人物を今の今まで忘れていた私にはきっともう彼女を友人と呼ぶ資格は無いのだろう。それでも、だからといって目を反らし続けて良いわけがない。私は、私の記憶と向き合うべきなのだ。


「私、その時のことを思い出したい。貴女が私の記憶そのものなら、何か方法を知らないかな」


「…そうだね、確かに私はどうすれば悠ちゃんがそれを思い出せるか知ってる。…でも本当にいいの?」


 ひよりちゃんがまっすぐに私の目を見つめる。その眼差しの真剣さに思わず尻込みしそうになるが、もう私は覚悟を決めたのだ。


「…うん、それがどんなに辛いことでも無かったことにはしたくない」


「…そっか、じゃあ、はい」


 彼女が片手を私に差し出して言う。


「私の手を握って」


 握り返そうと伸ばした手は僅かに震えていた。緊張によるものであろうそれを、深呼吸をしてどうにか抑え込む。震えが止まったことを確認してから、私は改めてひよりちゃんの小さな手をしっかりと握った。







 川へ背面から倒れこんでいくひよりちゃんの手と伸ばした私の手が微かに触れた瞬間、脳裏にあることが過る。それは、私がひよりちゃんに対して向けている感情についてだ。

 幼稚園でひとりぼっちだった私の手を取ってくれたあの日から、彼女は私にとって替えの利かない大切な存在となった。きっとこういう相手を親友と呼ぶのだろう。いつだって明るくて周りを元気にさせるひよりちゃんはまるでお日様のようだ。そんなあたたかな彼女のことが私は大好きなのだ。これは紛れもない事実である。

 けれども、太陽の光を直視し続ければ見る者の目は灼かれてしまう。人気者で、誰にでも優しく、私にできないことを平然とこなす彼女の姿は、私にとって強すぎる光だった。憧憬や友情を抱くのと同時、私の中にはいつだって嫉妬や劣等感のような仄暗い感情が蠢いていた。

 様々な感情が渦巻いているからこそ、私は私の本心が分からない。もしかすると、自分は本当は彼女のことを嫌っているのではないか。ならば、こんな自分に彼女と共に過ごし隣で笑う資格はあるのだろうか。

 結局私はこの問いの答えを出すことができなかった。ただひとつだけ確実なのは、私がこんな下らない思考をしたせいで事態は悪い方へ転がったということだ。


 届いたはずの指先は、私の手をすり抜けていった。


「…あ」


 どちらのものか分からない小さな声は、いやに鮮明に私の耳に届いた。


 その後何があったのかはあまり覚えていない。ただ、結論から言えばひよりちゃんは無事だった。どこかに掴まれたために流されなかったか、それとも運よく水面までは落ちずに済んだのか。私はひどく錯乱していたらしくそのあたりはあいまいだ。

 そんな中でも、私がひよりちゃんの手を掴み損ねたあの瞬間の表情が。恐怖や絶望がないまぜになったようなあの顔だけは私の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 それから、私達が会話をすることは無くなった。結果だけを見ればひよりちゃんは軽い擦り傷を負う程度で済んだが、私にとってはそうではない。彼女が生きていたのは運が良かったからだ。もしかしなくても、命を落とす事態になっていた可能性の方が高いだろう。私の気の迷いが彼女の未来を奪いかけた。

 私は今ひよりちゃんにどう思われているのだろう。そう考える度に怖くなり、中々話しかける勇気が出なかった。けれども、そんなことが数日続けば私の内に元の関係へ戻りたいという欲求が湧いてきた。あんなことをしておいて、と自分に嫌気が差すが、それ以上に直接謝罪しなければと思ったのだ。謝って仲直りをして、それで全部元通りになればと。後になってみればなんとも甘い考えだ。

 兎も角、私はひよりちゃんと話せるタイミングを見計らって声をかけようとした。しかし、いざ声をかけようとする度にひよりちゃんはその場を去ったり、別の友達と会話を始めたりと話しかけることすらできなかった。

 最初は偶然だと思い次こそはと意気込んでいたが、そんなことが何度も続けば嫌でも理解できる。彼女にとって私はもう声も聴きたくないような存在になってしまった。関係の修復などとっくに不可能だったのだと、私はこの時ようやく気付いた。


 それから状況は変わることなく小学校の卒業を迎え、それと同時にひよりちゃんは他県へ引っ越していった。後から聞いた話ではお父さんの仕事の都合だったらしい。

 結局あの事件以降ただの一度も彼女と言葉を交わせなかった私は、ただ消えることの無い後悔と罪悪感を抱え続け、やがてその事実から逃げるように当時の出来事を記憶の底へと押し込んだのだ。







「…」


「…やっぱり、思い出さない方が良かったんじゃない?」


 覚悟を決めたとは言え、今思い出したことを即座に受け入れることはできなかった。無理に押さえつけて忘れていることをやめたせいか先ほどまでより随分頭が冴えているように感じる。しかしそれと同時に、胸の内で自身への激しい嫌悪感がのたうち回っていた。それでも。


「ううん、そんなことないよ」


 そうはっきりと言い切れる。未だ当時の事に整理を付けることはできず、辛く苦しいという感情が絶えず間欠泉のように吹きあがってくる。だが、本当に辛かったのはどちらだろう。友人だと思っていた相手に裏切られ、命を失う恐怖を味わったひよりちゃんは私などよりよほど苦しい思いをしたのではないだろうか。相手が自分を嫌っていたから、避けられていたから。そんなことは謝意を伝えない理由にはならない。ただの自己満足だとしても、それは当時の私が彼女のためにできる唯一のことだったはずだ。


「私、ひよりちゃんに謝りたいと思う」


「…あの時は、できなかったのに?」


「当時は避けられていて話もできなかった。…いや、これは言い訳だね。単に私に勇気が無かっただけだ、本当に話そうと思えば相手が自分を避けていたって関係無いのに。多分私はひよりちゃんにすごく嫌われてる。けど、だからって謝らなく良い訳じゃない。いや、嫌われてしまったのなら余計に謝るべきだったんだ。だから、こんなに時間が経ってしまったけど思い出せて良かったと思う」


「…そっか。悠ちゃんがそう思ったならそうなんだろうね」


 そう言って柔らかく微笑んだその顔は記憶の中のひよりちゃんそのままで、心の中で余計に後悔が膨らんでいくのを感じた。


「さて、そろそろ起きる時間みたいだね」


「え?」


 彼女の言葉と同時に私の体がうっすらと光り始める。いや、光っているだけではない、全身が透け始めていた。呆然と手のひらを顔の前まで持ち上げれば、その向こう側にいるひよりちゃんと目が合った。


「現実の体が起きようとしているんだ。夢であるこの場所はもうすぐ消えてしまう」


「…ひよりちゃん、ありがとう」


 彼女は一瞬きょとんとした表情を見せ、それからおかしそうにくすくすと笑った。


「何それ、私はあなたの記憶だよ?」


「あはは、そうなんだけどね…。何となく言いたくなって」


 彼女は私の記憶から再現された存在であり本物ではない。そんなことは分かっているが、どう見てもひよりちゃんそのものであるその姿はとても偽物とは思えなかった。なんとも都合の良い考えだとは思うが、まるでひよりちゃんが私のことを助けてくれているように感じてしまう。


「…まあ、ちゃんと本物と話せるといいね」


「うん、とは言ってもひよりちゃんが今どこにいるのかも分からないんだけどね…」


 小学校を卒業した後、彼女がどこへ引っ越したのかを私は知らない。仮に知っていたとしても、ひよりちゃんが今もそこに住んでいる保証はない。それだけの月日が経ってしまった。現実世界へ戻ったらまずは両親に話を聞いてみよう。もしかすると親同士のつながりで何か知っているかもしれない。それがだめなら当時のクラスメイトを当たってみるか。私自身と仲の良かった人物はいないため連絡を取ることは出来ないが、探せばまだ地元に残っている者はいるはずだ。そう簡単にはいかないだろうが、できる限りの努力はしようと再度決意する。


「きっとどうにかなるよ」


「…そうだね」


 ひよりちゃんが穏やかな声で言う。その声を聞くだけで、本当にどうにかなるような気がしてくる。私が不安を抱えている時、彼女がいつもこうやって安心させてくれていたことを思い出した。


 気付けば私の体はほとんど消えかけている。もう目が覚める寸前なのだろう。


「…じゃあね、悠ちゃん!」


 花が咲くような笑みを浮かべながら、彼女は別れの言葉を口にする。きっとそんな彼女を前にしていたから、私も同じように笑顔で返せたのだろう。


「…うん、じゃあね」


 直後、世界が白で埋め尽くされる。



「____」


 彼女が最後に溢した呟きは、ざああ、という風の音にさらわれて消えていった。







「…あれ、ここ」


 窓から差し込む光の眩さにゆっくり目を開けると白い天井が目に入った。頭だけを軽く動かして辺りの様子を窺えば、自分が清潔なベッドに横たわっていると分かった。脇にはテレビも置かれていて、室内は全体的に白を基調とした内装をしている。おそらくは病室だろうか。だが、なぜ私は病院にいるのか。記憶には無いがなんらかの事故に遭ったか。いや、それにしては体に痛みや違和感は無い。では一体なぜ。

 寝起きで頭もぼうっとしていて、これ以上考えても何も分かりそうも無い。とりあえず人を呼ぼう。そう思った私はまずナースコールのボタンを探すことにした。







 私が意識を取り戻してから数日が経過した。外傷は無いのだが経過観察が必要だとかですぐに退院とはいかないらしい。

 それはさておき、肝心の私の身に何が起きたのかという部分だが、お医者さんなどに話を聞いて大体把握できたので整理していこう。

 病院に運ばれた日、私は水神町へ帰省していた。あの時は丁度することも無く、暇を持て余していた私は散歩でもしようと外へ出た。そして近所の川を通りがかった時、そこで足を攣って溺れている男の子を発見したのだ。川はさほど深いわけでは無いが、子供の足がつかない程度の水深はある。放っておけば最悪の事態になることは想像に難くなかった。

 その光景を見たとき、私の体は助けなければという思考に支配され無意識に走り出していた。勿論子供の命を守らなければという思いもあったのだろうが、根本にあったのはもっと違うものだ。善意というよりは、一種の強迫観念に近かった。そして無我夢中で子供を岸まで引っ張り上げた私は、直後に気を失ったらしい。偶然にもその時近くに人が居たようで、その誰かが救急車を呼んでくれたと聞いている。それと私が意識を失っていた原因だが、脳や体には異常が無いため精神的なものの可能性があると言われた。そういった意味でも数日は様子を見た方が良いとのことだ。

 私が目を覚ました初日は両親が来てくれた。心配をかけすぎて母を泣かせてしまった点は反省すべきだが、私が予想外に元気であると分かると即座にお説教モードに切り替わってしまった。もっと自分の体を大事にしろと懇々と詰められる私を見て父はおろおろとしていたが、意見自体は母と同じようで止めに入ってくれることは無かった。ただ、最後には人を助けたことをうんと褒めてくれた。

 その翌日には私が助けた男の子の両親がお見舞いにきてくれた。二人とも私にひどく感謝しているようで何度もありがとうと言われたのだが、当時の私の心情を考えると何となく素直に受け取りにくく、居たたまれない時間を過ごした。

 さて、入院するに至った経緯と目が覚めてからの出来事はこんなところか。私もあの子も無事だったので安心だ。それは良いのだが私は今とにかく暇で困っている。なにせ予定に無い入院だ、荷物も何も持ってきていない。両親に何か持ってきてもらうよう頼んでおくべきだったな、と一人後悔する。次に両親が来れるのはいつだろうかと天井を見上げて考えていると、看護師さんが部屋に入ってきた。


「雨宮さん、面会に女性の方がいらしているそうなのですが…」


「面会、ですか?」


「ええ、なんでも気を失った雨宮さんを発見して救急車を呼んでくれた方だとか」


 告げられた内容に私は驚いた。もし会えたらお礼を言いたいとは思っていたのだが、顔も分からないしこちらから連絡を取る方法も無いだろうと考えていたのだ。というか女性だったのか。


「雨宮さんとは面識が無いそうなので会いたくないのであれば断っても構わないそうなのですが…どうされますか?」


 僅かに逡巡する。恩人と言っていい人物とこれから顔を合わせるとなると、これまでに経験のない不思議な緊張感が湧いてくる。しかし、結局顔を合わせてお礼を言いたいという気持ちがそれを上回った。


「大丈夫です、お願いします」


「分かりました。お連れするので少し待ちくださいね」







 暫くして病室に一人の女性が入ってきた。綺麗な桜色の髪をした人だ。挨拶をしようとその人の顔を見た瞬間、時が止まったような衝撃を受けた。

 私は彼女のことを知っている。そう自覚した瞬間、鈍い痛みを伴って思い出が洪水のようにあふれ出した。


「…ひより、ちゃん」


 知らず、私は震える声でそう呟いていた。


「…っ」


 名前を呼んだ瞬間、女性は大きく目を見開いた。まるでそれが予想外の事だったように。


「…覚えて、たんだね」


「…ごめん、思い出したのはたった今だよ」


「仕方無いよ、最後に話したのはもうずいぶん昔のことだしね。…ひさしぶりだね、悠ちゃん」


 ひよりちゃんはそう言って薄く笑顔を浮かべた。だけど付き合いの深かった私には分かる。その表情は彼女が困った時によくしていたうわべだけの笑顔だ。ついぞ、あの頃の私には向けられることの無かったものだ。そんな顔を今の私は彼女にさせてしまっている。その理由なんて考えるまでも無い。

 伝えなければならない。あの時の後悔を、謝罪の心を。そう思うものの中々決心がつかず、私の口は強張り言葉を紡いでくれない。どうして、このままではまた同じことを繰り返してしまう。焦りが思考を満たしていき、余計に行動に移せなくなる。そんな悪循環が始まりそうになったその時。


 __…頑張ってね。


 何かが私の背中を押してくれた気がした。気づけば思考はクリアになって、視界まで広がったように感じる。今なら言える。そう思った私は固く両手を握りしめ、口を開いた。


「ひよりちゃん、ごめんなさい!」


「え?」


「あの時、川へ落ちていくひよりちゃんに手が届かなかったのは私が余計なことを考えたせい。あのまま手を伸ばしていればあんな目に合わなかったはずなのに。結果的には大きな怪我も無く助かった。けど私は貴女を見捨てたも同然だし、きっと裏切られたように感じてたと思う。だからずっと、謝りたかった。」


「…」


 突然頭を下げ謝罪をする私にひよりちゃんは目を丸くしているが、決心が揺らぐ前に一息で全てを伝えてしまいたかった。一度呼吸を挟んで私は更に続ける。


「当時すぐに謝ることができなかったのは、私のことを嫌いになったひよりちゃんを見たくなかったから。誠意をもって謝らなくちゃいけなかったのに、貴女と向き合うことから保身のために逃げてしまった。どう考えても今更すぎるだろうけど__」


「もういいよ」


「…え」


 言い切る前にひよりちゃんに遮られる。その言葉で背筋が冷たくなった。それはつまり、謝るには遅すぎるという意味だろうか。いや、そう思うのも当然だと思いながらおそるおそる顔を上げて彼女の表情を見る。

 だが、彼女は予想に反して笑顔を浮かべていた。先ほどまでの貼り付けたようなものではない、どこかすっきりとしたようにも見える自然な笑みだ。どうして、と呆然とする私に向けて彼女は口を開く。


「悠ちゃん。私は貴女を嫌いになったことなんてないよ。私を見捨てたも同然だって言ったけどそんなこともない。少なくとも私はそう思わない。だってあの時私に向けて手を伸ばした悠ちゃんはそれまで見たことないくらいとっても必死な顔をしてた。それで見捨てられたなんて思う訳ないよ」


「でも…」


「それに向き合うことから逃げたのは私も同じだよ。悠ちゃんの心を勝手に決め付けて、それを直視しないようにしてた。私の方から避けていたんだし、悪いというならむしろ私の方だね」


「ひよりちゃん…」


「悠ちゃん。貴女は私に嫌われたと決めつけて足を踏み出せなくなっていたんだね。…私もね、同じように決めつけていたの。悠ちゃんにとっての私は邪魔な存在だったんじゃないかって、そう思って__」


「そんなことない!」


 先ほどとは反対に今度は私が彼女の言葉を遮る。なんでそんな風に考えたのか、とか疑問はあるけれどこれだけはすぐに言わなければならないと思った。ひよりちゃんの存在を邪魔だと思うなんてそんなこと。

 そこまで考えて思考が止まる。当時の私が彼女に抱いていた感情、それは純粋な友情だけでは無くて。さっと顔から血の気が引いた。知らず愕然とした表情で彼女を見るが、返ってきたのは私を安心させるような微笑みだった。


「きっとね、私達の間にあったのは物語みたいな綺麗な感情だけじゃなかったと思うの。でも逆に、友達という関係だって紛れもない本物だと感じていた。だから私は悠ちゃんと沢山話がしたい。あの時私達がお互いに何を思っていたのか、一つ一つ分かり合っていきたい。こんなに時間が空いてしまったけどまだ間に合うと思うの、だからね」


 そこで彼女は一度言葉を切った。いつの間にか視界が滲んでいる。私は何も言わずにその続きを待った。


「もう一度、私と友達になってくれないかな?」


 そう言って私に手を差し出すひよりちゃんの頬を静かに雫がつたう。その姿が幼稚園で私に声をかけてくれたあの日と重なって見えて。答えを返そうとするも口が震えて上手く喋ることが出来ない。もう前が見えないくらいに溢れる涙を拭いながら、私は何度も何度も頷いて彼女の手を取った。


 今日の天気は快晴で、太陽を覆い隠すものは何も無い。窓から差し込む光は、なんだかいつもより暖かいように思えた。




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