第三章 夢と人形 五
ー 夢と人形 五 ー
男は体を起こすと、ミューズにワインを一本とグラスを持って来てくれと頼み、彼女は寝室にある棚から、言われた通りの品を男の元へと運んだ。ミューズがグラスにワインを注ごうとすると、男は「自分でやるから座っていなさい」と言って、彼女を自分の隣に座らせた。
「わざわざグラスを使うなんて、珍しいですね」
「今は一気に飲み干す気分じゃない。……さて、どこから話すか」
「さっきの言葉は真実なのですね」
「あぁ、そうだ。ドロシーはオレが殺した」
「なぜ?」
「……オレは、本当に弱い人間だよ」
男はワインをグラスに注いだが、それを飲まずにグラスを両手で握りしめた。その手は小刻みに震えていた。
「末期のガンというのは、多大な苦痛を伴うらしいな」
「……」
「オレはガンになったことはないが、ドロシーは本当に辛そうだった」
「……」
「日毎にやつれていく娘に、オレはなにもしてやれなかった。ドロシーを救ってやれなかったんだ」
「……」
「ついに意識を失い目覚めなくなったドロシーの手を、オレは毎日握った。この手を離せば、娘がどこかに消えてしまいそうに感じた。娘の手は、あまりにも心細い手だったよ」
「……」
ミューズは無言で男の話を聞き続けた。男の声は常に震えていたが、それでも彼はしっかりとした口調で話し続けた。
「なんの力も感じられない、枯れ木のような手だった。ドロシーが生まれた日、あいつはオレの指を握ってきた。赤ん坊の手ってのは、信じられないくらいに力強いもんだった。あんなに小さいのに、命の力が指先に流れ込んでくるようだった。それなのに、病気一つであんなにも弱々しくなってしまうものなんだな……」
「……」
「……オレは耐えられなかったんだ。苦しみ続けるドロシーを見ていることに、耐えることが出来なくなった。娘の苦しむ姿を、もう見ていたくない。だから、オレは……」
男はほんの少しだけ言葉を詰まらせた後に、意を決して言った。
「ドロシーの首を絞め、殺した」
「……ですが、それは……」
「……なんだ?」
「それは、あなたの……。優しさでしょう?」
「そう、思うか?」
「これ以上、ドロシー様を苦しませないために、そのために……」
「ちがう、ちがうんだ……!」
男は頭を抱えて、今にも泣きだしそうになりながら、話を続けた。
「ドロシーの首を絞めつけた時、あの子は目を覚ました。そしてあの子は『殺さないで』と言ったんだ……!」
「……」
「はっきり聞こえた。『殺さないで』とドロシーは言った。それなのにオレは、娘を殺したんだ……!」
「……それは……」
「オレの弱さだ!最後の瞬間まで、病に命を奪われる瞬間まで、生かしてやるべきだったんだ……!ドロシーは生きることを望んだのに、オレは……!」
男の目から、涙は流れなかった。涙を流すことに疲れ果てたのか、それすら出来ぬほどに弱り切っているのか。それがかえって、男の姿を痛々しく見せていた。
「何度も自分に言い聞かせた……。ドロシーだって本当は、楽になることを望んでいたはずだと……。早く殺してくれと、オレに望んでいたはずだと……」
「……」
「なぜドロシーが夢の中に現れなくなったか、本当は分かっていた。怖かったんだ。自分を殺したオレを、あの子は憎んでいるはずだ。いざ具現化されたドロシーに会おうとしても、オレの心がそれを怖がっていたんだ……」
「だから……」
「心のずっと奥に、光の届かない真っ暗闇の中に、この記憶を封じ込めてしまいたかった。全て、オレの弱さの結果なんだ……」
男はふらふらと立ち上がると、ワインの入ったグラスには一切口をつけずに、テーブルに置いた。ミューズは彼に歩み寄ると、その背をさすりながら「ドロシー様の気持ちを考えてください」と言った。
「ドロシー様が本当に、あなたを憎んでいると思っているのですか?」
「当たり前だ、あいつは……」
「殺さないでと言ったのは、あなたのためではないのですか?」
「……なに?」
ミューズにはそう思えた。ドロシーは男が愛情を尽くして育てた娘だ。彼女が最期に望んだことは、父親の幸せだったはずだ。
「あなたが後悔し苦しまないように、あなたのための言葉だったのではないでしょうか」
「……」
「自分の命がすぐに尽きることを、ドロシー様は理解し受け入れていたはずです。殺さないでと言ったのは、自分が生きたいからではなく、あなたがこれから生きていくために。自分がその重荷にならないために。そのための言葉だったのではないですか?」
「……そうだったとしても、オレはもう、オレを許せない」
「大丈夫です、わたくしがあなたの願いを叶えます」
ミューズはそう言うと、懐から一本のナイフを取り出し、それを男の首に突き付けた。ミューズは男の話を聞き、絶対に彼をドロシーの元へ連れて行ってはいけないと思った。手術台に寝かされ、苦しむ娘の姿なんて見せれば、彼の心は壊れてしまう。ミューズがぐっとナイフに力を込めると、男は冷静に「今はまだ早い」と言った。
「オレが死ぬのは、お前を生かす方法を見つけてからだ」
「大丈夫です。もう見つけました」
「なんだと?」
「わたくしは最初から、あなたの夢の産物ではなかったのです」
「……どういうことだ?」
まだ全ての記憶が戻ったわけではなかった。だがミューズは思い出していたのだ。彼女はただの人形ではなく、その中には魂がある。男の非常識によって、作り出されたものではなかったのだ。
「わずかにですが、思い出したのです。わたくしはデザイアの住人です。地球からデザイアへ来ました。そしてデザイアで人形の体を手に入れ、湖で眠りについていた」
「……」
「湖の中で城が具現化した時、そこにわたくしがいた。だから城の中に、わたくしはいた。それだけだったのです」
「……ありえん。なぜ、湖の中にお前はいたのだ?」
「魂を人形に馴染ませるため、静かに眠りについていたのです」
「……はっ、ははは」
男は疑惑と喜びの二つが混ざり合った、途切れ途切れの笑い声を発した。そしてその場に膝をつくと、ミューズの手を握りしめた。
「そんなことが、本当にあるのか?お前、オレの為に嘘をついているだけじゃないのか?」
「嘘などついていません。わたくしも、あなたと同じです」
「同じ?」
「これ以上、あなたが苦しむのを見たくありません」
「……いい、やめろ。自分の始末は自分でつける」
「わたくしがあなたを殺します。あなたがドロシー様を殺したように」
ミューズは再びナイフを男の首へ当てようとしたが、彼はそれを素早く止め、ナイフを奪い取った。
「それをすれば、お前は苦しむことになる。オレが一番よく分かってる」
「ですが……」
「それに、この城には客人が来ているだろう」
「あ……」
「突然城が消えたら驚かせてしまうだろう。わざわざここまで来てくれた人達だ。説明もなしに、オレが死ぬのは無礼だろう」
「……」
「教えてくれ。なぜお前は、オレがドロシーを殺したと感づいた?」
「……」
「見つけたのだろう、ドロシーを。どこにいたんだ?」
ミューズは顔を伏せ横に振った。男はミューズの肩に手を置き、優しい笑みを浮かべる。そして彼女の目を見ながらもう一度「教えてくれ」と言った。
「オレはドロシーに謝りたかったんだ。それを叶えさせてくれ。オレの欲求は、娘に謝り、そして許されることだった」
「……駄目です」
「ドロシーがどういう状態にあるのかは、察しがついている。オレが声をかけたところで、娘は目覚めないだろうし、許してもくれないだろう。でもいいんだ。さっきも言ったが、オレがオレを許せないだけだからな。だからこの悪夢は終わらない。オレの欲求は満たされない。オレは決して、自分を許すことができないからな」
「……」
「それでもせめて、ドロシーに謝らせてくれ。オレの最後の願いだ」
「……分かりました。ご案内します」
ミューズは男をドロシーの元へ連れていくため、寝室を出て物置部屋へと向かった。物置部屋へと行くためには、大広間を経由して、その先にある階段を上がっていかなくてはならない。二人が大広間へ入ると、そこには何故か、マリーが立っていた。マリーは髪の毛を伸ばし、それをぐるぐると裸体に巻き付け、服の代わりにするという、おかしな恰好をしていた。どうしてそんな恰好をしているのかは分からないが、ミューズはおそらく自分を呼びにくる途中だったのだろうと考え、マリーに「主人と共に行くところです」と言った。マリーはその言葉を聞いて、怪訝な表情を浮かべた後、ミューズと男を交互に見て、彼の手に握られているナイフを見つけた。
「なんで刃物なんて持ってるの?危ないじゃん!」
「この女は誰だ?客人か?」
「客人、といいますか、説明が難しいのですが、今は執政官様のお連れの方です」
「そのナイフ渡して!早く!」
「……本当に、ノーフェイス殿の連れなのか?」
「それは確かなはずですが……」
「……まあいい。ナイフは渡しておこう」
男はナイフをマリーに渡した。するとマリーは、にやりとした笑みを浮かべ、突然男の腹へと蹴りを入れた。男は苦しそうな声を出してうずくまる。ミューズが呆気に取られていると、マリーはナイフをミューズの頬へと押し当てた。
「キミって人形?なんでもいいけど、美人過ぎて気に入らない!」
「マリー様、おやめください!」
「は?なんであたしの名前知ってるの?」
「え?」
「まぁなんでもいいや!あたしより顔のいい女は許さない!ずたずたにしてやるもんね!」
マリーがナイフを振りかぶってミューズを切りつけようとした時、彼女の背後から男が飛び掛かった。二人は取っ組み合いを始め、男はミューズに応援を呼ぶようにと頼んだ。
「ノーフェイス殿を呼ぶんだ!早く!」
「はい!」
「なんだよもう!邪魔しないで!」
ミューズは必死に走り、アリス達の元へと着いたのだが、不思議なことにそこにはマリーがいた。アリス達と一緒にいるマリーは、黒いワンピースを着て、朱色のチョーカーを巻いている、見知った姿をしていた。ミューズは混乱しながらも、今起きたことをアリス達に説明すると、誰よりも先にマリーが走り出した。アリスとクラリスはその後を追い、ノーフェイスは瞬間移動で大広間へ向かった。
「まずいって!それあたしの分身だよ!」
「マリーそんなこと出来たの!?」
「体を作り変えるって言ったじゃん!分裂して増えることもできるの!」
「なんでそんなことしたのよ!」
「保険だよ!執政官に見つかっても、分身は街にいられるでしょ!」
「早く分身を止めてください!主人が危険です!」
「遠隔で操作なんてできないって!独立して動いてんの!」
アリス達が大広間へ飛び込むと、そこにはノーフェイスに組み伏せられ、拘束されたマリーの分身がいた。そのすぐ横には仰向けになった男がいて、彼はゼェゼェと苦しそうに息をしている。
「あたしの分身!なにやってんの!?」
「ど、どうしよう……。あたし刺しちゃった……」
「君達全員、落ち着くんだ。大事にはなっていない」
「ご主人様!大丈、夫……」
「大丈夫だ……。気にするな……」
男の腹には、ナイフが突き立てられていた。彼はナイフを乱暴に引き抜くと、ミューズに目配せして彼女を呼んだ。しかしミューズは男の呼びかけに応えなかった。彼女は怒りに支配された表情で、マリーの分身をにらみつけていたのだ。
「あなたが、やったのですね……?」
「ご、ごめんなさい……。自分を、自分の感情を抑えられなくなって……」
「あなたがやったのでしょう?」
「ちがうの!本当はこんなことしたくなかったの!」
「黙りなさい」
「ひぃっ……」
周囲の空気が震え始めた。そしてミューズを中心に、不可視のエネルギーが渦を巻く。その力の矛先は、マリーの分身だった。
「ここから……」
「ミューズ、落ち着け!ナイフで一突きされた程度じゃ、デザイアでは死なん!」
「ここから消えなさい!!」
瞬間、衝撃波がマリーの分身を襲った。ノーフェイスはとっさの判断で、瞬間移動でそれを回避できたが、分身はその力を全身に浴び、四肢はバラバラに千切れ、胴体は内臓をばらまきながら、十メートルほど吹き飛ばされた。
「全員彼女から離れるんだ!」
「ミューズ、止めろ!落ち着いてくれ!」
男はミューズに駆け寄ろうとしたが、ノーフェイスがそれを制止し、彼を抱きかかえてステージ上の、どん帳の中へと逃げた。アリスも同様に退避し、どん帳の中からミューズの様子を伺った。ミューズはまだ生きているマリーの分身へとどめを刺そうと、すでに原型をとどめていない彼女の胴体へ、呪詛の言葉を吐き続けていた。
「潰れろ!潰れろ!潰れろ!」
「や、め、で……っ」
「ツブレロツブレロツブレロ……!!」
「たズ、け、デ……」
分身の体は、見るも無残な姿となり、もはや人間ところか、生物の形ですらなくなっていた。控えめな表現で表すなら、プレス機で押しつぶされたスイカ、といったところだろうか。そしてミューズの暴走は分身をすりつぶしても止まらない。その力はさらに激しさを増し、大広間は月面のクレーターのように陥没し、城全体が崩壊を始めていた。
「ノーフェイス殿、これはなんだ?あの子になにが起きた?」
「この力は彼女の非常識か?だが魂の無い者に、非常識は発現しないはずだが……」
「あの子はオレの夢の産物じゃない、デザイアの住人の一人だ!」
「どういうことだい?聞いていた話と違うが」
「オレもさっき知ったんだ。あの子がそう言った。わずかだが記憶を思い出したと。あの子には魂があるんだ」
「今まで彼女がこういった力を発揮したことは?」
「一度もない、これが初めてだ」
「厄介なことになったね……。彼女はとてつもない勢いで欲求のエネルギーを放出している。自分の体さえ吹き飛ばすほどにね……」
ミューズの力は、全てを無差別に破壊していた。彼女自身でさえ、その力の影響を受けていたのだ。すでに彼女の右腕は吹き飛び、左腕も肘から先がなくなっている。このままでは、彼女の体はマリーの分身と同じように、全てがすりつぶされてしまうだろう。
「どうするのよ、暴走を止める方法はないの?」
「暴走状態に入った者への対処法は、放置か誘導だ。欲求が満たされるまで放置するか、非常識を多用させることで、気を失うのを待つしかない」
「ど、どうしようクラリス。あたしの分身のせいで大変なことになっちゃったよ……」
「もったいないなぁ……」
「もったいない?なにがよ?」
「マリーの分身、つぶれちゃった。あれもわたしのものにしたかったなぁ……」
クラリスの発言でしんと場の空気が静まり返った後、ノーフェイスは冷淡な口調で、彼女に苦言を呈した。
「……クラリス。そんな呑気な事を言っている場合じゃないんだ。僕が囮になり……」
「あ、まってノーフェイス。マリー、分身ってまだ出せるの?」
「あたしの魂を分割していくから、分身するほど頭が悪くなっちゃうけど。最高で二百体くらい」
「あのつぶれた分身って、もう死んじゃったのかな?」
「生きてるはずだよ。あたしって不死身みたいなもんだし。でも死んでないだけで、意識はないと思う。後であたしが回収しないと、ずっとあのミンチのまま」
ノーフェイスはクラリスの意図を図りかねていた。すぐにでもミューズの暴走への対処をしたいところだが、クラリスが勝手に行動を起こし始めたら、彼女を危険に晒す可能性がある。ミューズを止める前に、クラリスが妙な考えを起こさないよう、先に彼女を止めるつもりだった。
「つまり一人でも無事なら、人間の形に戻れるんだね」
「うん、そのはず」
「マリー、限界まで分身してから、一人ずつ人形さんに突撃」
「はい」
「……!駄目だクラリス、やめるんだ!」
ノーフェイスがクラリスの意図に気付き彼女を止めたが、手遅れだった。クラリスに命令され、マリーは次々と分裂を始め、ミューズへと突撃していく。クラリスの狙いは、ミューズに力の矛先を与えること。マリーの分身だけを攻撃させ、ミューズ自身が破壊されることを防ごうと考えたのだ。分身を一気に向かわせてしまうと、一撃で全員がつぶれてしまう。クラリスは分身を一人ずつ順番に向かわせ、ミューズが何度も力を使うように仕向けた。ミューズは分身が視界に入ると、力の向かう先を一点に集中し、分身を地面に押し付け、すりつぶす。クラリスの考えた通り、ミューズの力は全て分身へと向けられ、ミューズ自身や城を破壊することはなくなった。
「このまま欲求のエネルギーが底をついてくれれば、暴走は止まるかな」
「クラリス、早く命令を取り消すんだ」
「うん?」
「マリーがどれだけ苦しむと思っているんだ。僕が囮になって同じことをすればよかったものを……」
「でも万が一、瞬間移動で避けきれなかったら大変だよ」
「……僕の身を案じてこうしたのかい」
「マリーならあとで元に戻れるみたいだから、こっちの方が安全だよ。命令を取り消すつもりはないからね」
ミューズの発する力は、徐々に弱まり出していた。だがマリーの分身も残りわずか、その数は二十体。分身達がミューズへ突撃していくのを、アリスはじっと見つめていた。アリスは見えないはずの”それ”を見ようとしている。ミューズから発生する、不可視の力を。そして分身達はその後も突撃を続け、ついに最後の一人となった。しかしミューズの暴走はまだ収まらない。行き場を失った力は、さきほどより勢いが弱くなったとはいえ、再び無差別に、全てを破壊し始めていた。
「このマリーで最後だね。マリー、突撃中止」
「あい」
「『あい』だって。可愛いね」
「あうー」
「分身するほど知能が下がるとは言ってたけれど。赤ん坊みたいになってるわね」
「くあいすー。あーうー」
「……君達、戯れている場合じゃない。人形の暴走はまだ止まっていない」
「大丈夫よ、私が止めるから。もう”見えた”もの」
どん帳の外へ出ようとしたアリスを、ノーフェイスは腕を掴んで止めた。これ以上勝手な行動を許すわけにはいかない。なにか考えがあってのことだろうが、それを聞く前にアリスを行かせるわけにはいかなかった。
「信じなさいよ。私達だって執政官になったんだし。あなたの力に頼り切るわけにもいかないわ」
「いや、ここで危険を犯す必要はない。経験を積みたいとしても、ここで一か八かの賭けに出る必要はないだろう」
「賭けじゃないわ。言ったでしょう。”見えた”って」
「なにをだい?」
「マリー、ノーフェイスに突撃」
「あい」
マリーはノーフェイスへ飛びついたが、彼は当然それを回避した。しかしアリスがどん帳の外へ飛び出すには、その一瞬の隙で十分だった。ノーフェイスはすぐにアリスとクラリスを追おうとしたが、足を止めて、あえてそのまま二人を見守ることにした。その理由は、彼が本気を出したなら、一瞬でミューズの意識を奪うことが出来たからだ。ミューズの欲求のエネルギーが底をつくまで、力を使わせ続けることが最適解だが、強制的に気絶させることでも、一旦彼女を止めることは出来る。アリスとクラリスに危険が迫ったと判断したなら、そのときは自分が手助けすればいい。今回はこのまま二人の初仕事を、ぎりぎりまで見守ってみようと判断したのだ。
アリスとクラリスは、悠々とミューズへ向かって歩いていく。ミューズはアリスとクラリスに気付くと、力の向かう先を二人に定めた。
「出ていけ……!ここから……!」
「やってみなさいよ」
「ここから……」
「来るよ、アリス」
「大丈夫、任せて」
「 」
「問題なしね。いけるわ」
「 」
「ほら、どうしたの?もっと力を使いなさいよ」
「 」
「 」
「 」
「 」
「 」
「もう終わり?最後の一滴まで振り絞りなさい」
ノーフェイスはどん帳の中から、その異様な光景を見守っていた。大広間に響くのは、アリスがミューズへと向かっていく、ザッザッという足音だけ。それだけだった。そう、それだけ。それ以外の全ての音が、聞こえなくなった。ミューズは大きく口を開け、必死に何かを叫んでいる。だが何を叫んでいるのかは分からない。分かるはずがない。誰にも聞こえないのだから。
「 」
「 」
「 」
「そろそろ限界みたいね」
「 」
「 」
「 」
「美味しかったわよ、また食べさせてちょうだいね」
「 」
「 」
「」
「あなたの”声”」
次回へ続く……