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ENDLESS DESIRE  作者: 清水進ノ介
第一章 アリスとクラリス
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第一章 アリスとクラリス 一

挿絵(By みてみん)


 ずうっと昔、双子の魔法使いがいました。双子のお兄さんの名前は、ローレンスといいます。

 ローレンスは人間が大好きでした。人々のために、魔法を使い、たくさんの人を幸せにしてきました。

 しかしある時、彼は恐ろしいことに気づいてしまいました。私たちが暮らしている、宇宙についてのことです。この宇宙はやがて崩壊し、全てが消えてしまうということです。

 ローレンスは悩みました。どうにかして、宇宙の崩壊を止めることはできないのか、自分にできることはないのか?

 そこに、魔女が現れこう言ったのです。

「新しい世界を創ってしまえばいいのさ」

 魔女は言葉を続けます。

「その世界は、あらゆる欲求を、あらゆる非常識を受け入れる」

「誰もが平等に、自分だけの欲求を、追求できる世界。そうさね……」

「【DESIREデザイア】とでも、名付けたらどうだい?」


ー 第一章 アリスとクラリス ー

「おはよう、アリス」

「おはよう、クラリス」


 二人の女が、見覚えのない路地裏で、目を覚ました。

 二人の名は、アリスとクラリス。双子の姉妹で姉がアリス。妹がクラリスだ。二人は自分の体を、服の上からぺたぺたと触りながら、周囲を見回した。


「ここどこ?怖いよ……」

「私にも分からないわ。どこなのかしら?」

「ねえアリス、覚えてるよね?」

「なにを?」

「わたしたち、その……。死んじゃったよね?」

「そうね、二人一緒に死んだはずね」

「じゃあここって、死後の世界……?」

「どこだっていいじゃないの。二人で一緒にいられるなら」

「……そっか、そうだね」

「とにかく歩いてみましょう。行くわよ」


 アリスとクラリスは、死んだはずだった。炎に包まれた屋敷の中で、抱き合いながら息絶えたのを、二人ともはっきりと覚えていた。二人は手をつなぎ、路地裏を歩き始める。その路地裏からは空が見えなかった。周りに背の高い建物が並んでいて、屋根が空を遮断していたのだ。道幅は三メートルほどで、分かれ道はなく、一直線に通路が伸びている。ぽつぽつと明かりのついた街灯が規則正しく並んでおり、二人はその光を頼りに足を進めた。しばらく歩いていると、前方から柔らかな光が差してきた。どうやら開けた空間に繋がっているようだ。

「うわあ、すごい街だよ!」

「綺麗ね……」


 路地裏を抜けた二人は、高台に出た。二人の目に飛び込んできたのは、夜の闇と夕暮れの混じりあった、朱色の空。そして高台から眼下に広がっている、地平線まで続く美しい街並みだった。街は二人のいる高台を中心に、円状に広がっていて、建物の一つ一つがおもちゃのように小さく見える。高台から町までは、二キロメートルほどの高低差があるようだ。


「観光誌で見たパリの凱旋門みたいね。この規則的に並んだ建物、街の構造なんてそっくりそのままよ」

「綺麗だねぇ。死んでよかったね」

「死んでよかったと思う日が来るなんてね。……そんなことより、お腹が減ってきたわね」

「食いしん坊は相変わらずだね。死んでもお腹は空くんだね」


 二人が夢中になり街を眺めていると、誰かが背後から「やあ」と声をかけてきた。二人が声の聞こえた方向へ目を向けると、そこには一匹の黒猫がいた。その黒猫はしっぽを左右にゆらゆらと振りながら、二人に近づいてきた。


「にゃはは、初めまして」

「黒猫?あなたがしゃべったのかしら?」

「そうだよ。しゃべる猫なんて初めて見たでしょ」

「ね、猫ちゃんがしゃべってる……」

「きみ達そっくりだねぇ。双子かい?」

「姉のアリスよ」

「妹のクラリスだよ」

「にゃはは、そっくりで全然見分けがつかないや」

「でもほら、リボンの色がちがうよ。わたしは黒のリボンをつけてるの」

「私は朱色のリボンよ」


 アリスとクラリスは後頭部に大きなリボンをつけ、ブロンドの髪をまとめ上げていた。黒猫は品定めでもするように、アリスとクラリスの姿を観察する。肌の質感から、年齢は二十台前半と分かる。身長は百六十センチほどで、標準体型。服装はリボンを除けば全く同じ格好をしていて、朱色の襟付きのシャツの中に、黒のインナーとスカートを身に着けていた。顔は目鼻立ちがハッキリとしているが、年齢の割に幼い顔つきをしている。瞳は綺麗な碧色だ。


「きみ達、なかなか見どころのある魂をしているねぇ」

「なによそれ?」

「にゃはは、ぼくなりのほめ言葉だよ」

「ねぇ、猫ちゃんには名前はないの?」

「あぁ、名乗るのを忘れてたね。ぼくはローレンス。よろしくね」

「うん、よろしくねローレンス」


 クラリスはローレンスに走り寄り、彼の背中をさらさらと撫で始めた。ローレンスは特に嫌がるそぶりを見せずに、首の後ろの辺りを撫でてと要求している。クラリスはニコニコとしてローレンスに夢中だが、アリスは無表情のまま、街並みをずっと眺めていた。


「あなた、この世界について詳しいの?」

「もちろん」

「私達、死んだはずなのよ。ここは死後の世界ってことでいいかしら?」

「そうだよ、ここは死後の世界さ」

「ちゃんと体もあるし、服も着てるのよ。本当に死んでるのよね?」

「死後の世界っていうのはね、夢の中みたいなものさ。夢の中でも体はあるし、服を着てるでしょ?大地や空だってあるし、水や食べ物だってある。みんなで同じ夢の中にいると思えばいいよ」

「ところでここって天国なの?地獄ではなさそうだけど」

「【DESIREデザイア】だよ」


 ローレンスの口から聞きなじみのない名称が出てきて、アリスは眉をしかめたが、クラリスは「へぇ~」と吞気な相槌を打った。

「この世界は、デザイアっていうんだ。死後に魂はいろんな世界に行くんだけど、ここは強い欲求を持つ魂が、たどり着く世界なんだよ」

「……ふぅん。強い欲求ですってよ、クラリス。あなたの欲求ってなにかしら」

「うーん、なんだろう。まずはアリスとずっと一緒にいたいけど」

「あとは好みの女を集めて、ハーレムでも作るとか?」

「あー……。いいね。可愛い女の子をいっぱい集めてね」

「私はお腹が空いたからなにか食べたいわ。近くに食事ができる場所はないの?」

「それならいい店を知ってるよ、ぼくについておいで」


 一行は高台から下り、街を歩き出す。アリスとクラリスは、死後の世界の街を歩くという未知の体験に、わくわくとしながら歩を進めた。この美しい街には、どんな人達が暮らしているのだろうと、二人は期待に胸を躍らせていたのだが、路上には一切人の姿がなく、人々が生活している音すら聞こえない。しんと静まり返った街の様子に、二人はだんだん不気味さを感じ始めた。道の脇には小さな花壇があり、チューリップやマリーゴールドが咲いていて、街を鮮やかに彩っているのだが、それがかえって気味の悪さを助長している。黒猫はそんな二人の様子を察して、場を和ませようと明るい口調で話し始めた。


「ちなみにアリスは大食いなのかい?デザイアに来てすぐにお腹が空くなんて、なかなかの食いしん坊だよ」

「そんなことより、レストランはまだなの?」

「まだだよ、あと十五分は歩くかな」

「そうなのね。昔リンゴをいくつ食べられるか、こっそり興味本位で試したことがあるわ。その時は十五個が限界だったわね」

「なかなかの大食いじゃないか。やるねぇ」

「そんなことより、レストランはまだ?」

「え?さっき言ったじゃないか、まだだよ」

「そうなのね。本当はもっといっぱい食べたいのよ。食べるのが大好きだから。でも胃袋の限界のせいで食べられなくなるのよ」

「そんなきみに朗報だよ。デザイアでは無限に食べ続けられるんだ」

「そんなことより、レストランは?」

「え?いや、えっと……」


 何度もレストランまでの時間を聞いてくるアリスに、ローレンスは困惑し言葉を詰まらせた。アリスはそわそわと落ち着きなくしており、体を左右に揺らしたり、きょろきょろと周囲を見回したかと思うと、突然右腕をぶんぶんと振り回す。クラリスはアリスの頭を撫でてなだめると、申し訳なさそうにローレンスに謝った。


「ごめんねローレンス、アリスは昔から食い意地が張ってて。それより無限に食べられるって本当?」

「あぁ、うん。ここは死後の世界だからね。食べたいなら無限に食べ続けられるし、何も食べなくたっていい。睡眠だってそうだよ。体力を消耗していないなら、永遠に徹夜しても問題ないし、疲れていなくたって、寝るのが好きならずっと寝ていればいいんだ」

「最高の世界じゃないのよ。レストランが待ち遠しいわ」

「にゃはは、そうだね。『はぐれもの』さえ現れなければ、最高の世界のままだったんだけどねぇ」

「はぐれもの?なによそれ、食べられるの?」


 ローレンスは朗らかな口調から一変し、神妙な声色で、はぐれものについての説明を始めた。

「一年くらい前からだよ。昨日まで穏やかだったのに、突然狂暴化して、暴力を振るう人達が現れるようになったんだ。暴力性の高い魂は、デザイアに入って来れないようになってるはずなのに。そういう人達を、はぐれものって呼んでいるんだ」

「……街がこんなに静かなのって、そのはぐれもののせいなの?」

「一ヶ月前に、はぐれものが人を襲って、大怪我を負わせた事件が起きたんだ。それ以来みんな怖がって、外に出なくなっちゃったんだよ」

「こ、こんな呑気に歩いてたら危ないよ!」

「そんなことよりお腹が減ったわ。レストランはまだなの?」


 アリスは苛立ちながら、道端に落ちていた缶を蹴った。缶はきれいな流線形の軌道で飛んでいき、十メートル先にあったゴミ箱の中に入った。ローレンスは「ナイスシュートだね」と元の朗らかな口調に戻り、はぐれものの説明を続けた。

「大丈夫、心配はないよ。はぐれものはすぐに、街の外に強制退去させることになったんだ。それに街に結界を張って、外に出されたはぐれものは、街の中に入れないようにしてあるからね」

「そんなことどうでもいいわ。私はお腹が空いてるのよ」


 アリスはさらに苛立った様子で、落ちていた石を拾い、ぶっきらぼうに投げる。石は鋭い軌道で飛んでいき、誰かの家の植木鉢を破壊した。がしゃあん、という嫌な音が辺りに鳴り響き、飾られていたチューリップは、無残にも地面に投げ出されてしまった。

「アリス、だめだよ!」

「……ちっ」


 クラリスは困惑していた。アリスは昔から食い意地が張っているが、空腹が原因で自分勝手をする人ではなかった。空腹の苛立ちに身を任せて、物を壊したり、舌打ちをするような人ではなかったはずなのだ。クラリスの怯えた様子に気付いたアリスは、はっとした表情で申し訳なさそうに言った。

「……ごめんなさい。どうしたのかしら私。こんなことするなんて……」

「突然知らない世界で目を覚ましたんだ。まだ気持ちがどこか落ち着いていないんだろうね。それとさっきの結界の話の続きだけど……」


 ローレンスが話の続きを言おうとした、その時だった。「助けてくれぇ!」と、突然誰かの悲鳴が聞こえてきた。正確な場所は分からないが、その悲鳴はそう遠くないところから聞こえてきた。アリスとクラリスは身を寄せ合い、周囲を見回して警戒した。

「あぁ、まずい。はぐれものが現れたね。新しいはぐれものか、もしくはまた結界が消えちゃったか」

「け、結界が消えることがあるの?」

「原因不明なんだけど、たまに結界が消えてしまうんだ。その隙に外に出したはぐれものが入ってくるんだよ」


 ローレンスはそう言うと、とんでもない勢いで跳ね上がり、近くにあった三階建ての家の屋根に飛び乗った。そこからきょろきょろと周囲を見渡し、悲鳴が聞こえた場所を確認している。

「二人とも、そこの空き家に隠れて、赤いドアの家だよ!ぼくが戻ってくるまで、出ちゃだめだよ!」

「どこに行くの?ローレンスも隠れないと!」

「ぼくは、はぐれものの対処をしてくるから、まっててね!」


 ローレンスは軽やかな身のこなしで、屋根から屋根へぴょんぴょんと移動し、あっという間に姿を消してしまった。二人はローレンスの言ったとおりに、空き家へ身を隠すことにした。赤いドアを開けると、ぶわっとほこりが舞い上がり、二人はおもわず口を手で覆った。

「空き家だもんね。きれいではないね……」

「ひどいほこり……。吸い込まないようにしましょ」


 二人はドアの内側からカギをかけた。部屋は十畳ほどの広さで、床一面にほこりが積もっている。家具は古びたイスが三つ。以前ここに住んでいた住人が使っていたものだろうか。そしてドアから反対側の壁に、正方形の窓が一つあるだけだった。薄暗い木造のその部屋は、歩くたびにぎしぎしと音が鳴り、いつ床が抜けてもおかしくないように思えた。二人はイスに座り、お互いの手を固く握りあって、ローレンスが戻るのを待つ。五分ほど無言の時間が続いた後、アリスは弱々しくクラリスに話しかけた。


「クラリス、私、もうだめ……。もう耐えられない……」

「だ、大丈夫だよ。ローレンスがすぐ戻ってきてくれるよ。はぐれものなんて怖くないよ」

「違う、はぐれものなんてどうでもいい……」

「え?」

「お腹が減って、もう耐えられない……」


 クラリスは呆れてしまった。この非常時に、空腹を感じる余裕があるのかと、呆れると同時に感心してしまったほどだ。そういえば、アリスはさっきからお腹が減ったと主張してくるが、自分は全く空腹を感じないなとクラリスは気づいた。ローレンスは、デザイアは強い欲求を持つ魂がたどり着く世界だ、と言っていた。自分は昔から食べることにはあまり興味がなかったから、その欲求の差によるものだろうな、とクラリスは考えていた。


「そうだね、ローレンスが戻ってきたら、すぐにレストランに行こうね」

「うん、お腹減った」

「デザイアでは好きなだけ食べられるんだって。楽しみだね」

「うん、お腹減った」

「最初に何を食べようか?アリスはローストビーフが好『食べたい』」

「え?」

「食べたい、食べたい、食べたい……」

「アリス……?」

「タベタイ、タベタイ、タベタイ、タベタイ、タベタイ、タベタイ……!」


 アリスはクラリスの手を乱暴に振りほどくと、爪を立ててガリガリと頭を搔きむしり始めた。異常だ。なにか異常なことがアリスに起きている。クラリスはアリスを止めようと彼女の腕を掴んだが、どれだけ力を込めても、彼女を制止することができない。アリスは信じられないほどの力で、クラリスをはねのけてしまった。クラリスがどうしようかと困り果てていると、ドンドンッと激しくドアが叩かれ、男の悲痛な叫び声が、外から聞こえてきた。

「助けておくれ、開けておくれ!はぐれものに襲われとるんだ!」


 瞬間、アリスの力がふっと抜け、クラリスはようやく、アリスの腕を下げることができた。ドアの外からは、男の叫ぶ声がずっと聞こえている。クラリスはドアの方に顔を向け、どうしようかと思案した。あの声の主は、本当にはぐれものに襲われている住人なのだろうか。それとも、自分達を騙して家に押し入ろうとしている、はぐれものなのではないだろうか。

「……家に入れましょう」


 そう言ったのは、アリスだった。クラリスはその言葉を聞いて安心した。アリスが冷静さを取り戻したと思ったのだ。クラリスは素早くドアまで移動すると、内側からかかっていたカギを外した。すると勢いよくドアが開き、男が部屋の中に飛び込んできた。

「あぁ、ありがとう。助かった……」


 男は作務衣を身に着けた老人だった。歳は七十代に見える。二人よりも小柄だが、上半身、特に腕の筋肉がよく発達している。見たところ、優しそうな顔をした普通の老人だ。彼は乱れた作務衣を軽く整えると、明るい口調で話し始めた。

「助かるよ、お嬢ちゃん。あぁそうだ、ちゃんと自己紹介をしないとな。わしは鍛冶屋をやっていてな。刃物ならなんでも手掛けておるが、特に日本刀を打つのが得意だ。お嬢ちゃん、日本刀を見たことはあるか?」

「日本刀?写真で見たことはあるけど、本物はないです」

「よし、それなら今から作って見せてやろう。そこのイスがよさそうだな」

「え、今から作る?」


 老人はイスを右手でつかんだ。するとイスがバキバキと音を立てて歪みはじめ、まるで雑巾をしぼるように、ギュルリとねじ曲がった。クラリスは突然の出来事に、ひっ、と小さな悲鳴を上げる。イスは一本の細長い棒へと変形していき、みるみるうちに金属の光沢を帯び、鋭さを増していく。そしてついに、日本刀へと姿を変えてしまったのだ。

「見とくれよ、美しいだろう?刀はいいよなぁ、刃物はいいよなぁ。世界中の全てが、刃物になれば最高だ!」

 老人はうっとりと日本刀を見つめ、恍惚としている。クラリスは老人から距離をとった。突然刃物を生み出した彼に、危険を感じたのだ。老人はクラリスに目を向けると、さわやかな笑顔で話し始めた。


「お嬢ちゃん、これがわしの『非常識』だよ。『触れたものを刃物に作り変える力』だ。鍛冶屋のわしにぴったりの力だろう?」

「ひ、非常識……?」

「……お嬢ちゃん達、もしかしてデザイアに来たばかりかね?非常識のことを知らないのか?」

「し、知らない、そんなのなにも……」

「そうなのかい、じゃあわしが説明してやろう。デザイアの住民は、みんな自分だけが使える、特別な魔法を持っておるんだ。その魔法を『非常識』と呼んでいるんだよ」

「なんでそんな呼び方をするの……?非常識なんて……」

「一人の魔女の言葉が元になっているらしいが、詳しいことはわしには分からんよ」


 老人は日本刀をぶんぶんと振り回しながら、上機嫌で話を続けた。

「非常識ってのは、欲求を叶えるための魔法なんだ。わしは『世界中を刃物で埋め尽くしたい』という欲求を持っておってな。それが『触れたものを刃物に作り変える』非常識となって発現したわけだ。さぁお嬢さん、初めて見た日本刀の感想はどうかね?」

「ほ、本物の日本刀なんて初めて見ました。なんだか怖いですね……」

「ちがうよお嬢さん、これはまだ本物じゃないんだ」

「え?」

「この日本刀はまだ未完成なんだ。本物の刀になっていないんだ。ぜひとも完成したこいつを見てもらいたいんだがよぉ。どうすれば完成するか分かるか?」


 クラリスは答えない。身動きせずに、黙ってじっと、老人を見つめている。

「刀はなぁ、斬るためにあるんだ。人を、斬るためにあるんだ。この刀は、まだ人間の味を知らない。だからまだ、完成していないんだ」

「……はぐれものに襲われてたんじゃないの?」

 クラリスは後ずさりしながら、震える口で老人に問いかけた。アリスはイスに座ったまま動かない。老人はにやりと顔を歪ませると、クラリスにゆっくりと近づきながら、その問いに答えた。

「ありゃあ嘘だ。悪いな。はぐれものは、わしだ」


 クラリスの首筋を、冷や汗が伝った。彼女は必死に思考を巡らせた。さっきドアを開けたのは間違いだった。ドアは老人の背後にある。ここから逃げるためには、なんとかして彼を振り切るか、窓から逃げるしかない。でも万が一、逃げられなかったら?追いつかれたら?一度死んだ後のこの世界で、もう一度死んだらどうなるの?なんとかして、わたしがアリスを守らないといけない。でも、だけど、どうやって?


「本当に助かるよ、お嬢さん!お前でこの刀を完成させるんだ!お前を斬って、こいつはようやく本物の日本刀になるんだ!」

 老人は興奮した様子で、言葉をまくし立てる。そして日本刀を構え、勢いよくクラリスに斬りかかった。クラリスが逃げる隙なんてなかった。老人は恐るべき速さでクラリスに接近し、その頭をめがけて、刀を振り下ろしたのだ。


 その時だった。

「おいしそう」

 アリスが、口を開いた。

 そう、『口を開いた』のだ。


 なにかが、裂ける音がした。あるいは、なにかが千切れる音がした。おや、おかしいな、と老人は思った。この音は刃が肉を裂く音じゃない。骨を断ち切る音でもない。じゃあこれはなんの音?答えはすぐに分かった。

 アリスが、老人の手を食べていた。老人が自分の右手首を見てみると、そこから先が無くなっていた。さっきの千切れる音は、老人の手が、食い千切られた音。アリスは一瞬の内に彼の手を噛みちぎり、切断した。そしてアリスはその手を、指を、手のひらを、そして日本刀までもを、ゴリゴリと音を立て、咀嚼していた。


「……あっ、ああああ!」

 老人は絶叫した。アリスに食われ、失われていく自分の手と刀を見つめながら、力の限り叫んだ。

「やめろぉ、なにをやっているんだ!わしは鍛冶屋だ、右手を失ったら刃物を打てなくなる!やめろ、やめろぉ!」

 老人がそう言い終える前に、アリスは彼の手を食べ終えていた。残る日本刀も、まるでスナック菓子でも食べるかのように、ざくざくと噛み砕き飲み込んでいく。ぼろぼろと刃の破片を床にこぼしながら、目を見開き、一心不乱に目の前にある「食料」に食らいつくその姿は、もはや人であることを捨てた、ケダモノだった。

「足りない……」


 日本刀を食べ終えたアリスは、這いつくばり、床に散らばった破片を食べ始めた。床に積もったほこりごと、両手で破片をすくい上げ、そのまま口の中に放り込んでいく。あらかた破片を食べ終えた後は、舌を伸ばし床を舐め始めた。ほんのひとかけらでも逃すまいと、汚れた床に舌を這わせていく。クラリスはそれを止めようとはしなかった。いや、止められなかった。変貌したアリスに、自分がなにをすればいいのか分からない。黙って見ていることしかできなくなっていたのだ。老人は膝から崩れ落ち、叫ぶことをやめた。彼もまた無言となり、完全に思考が停止してしまっていた。


「足りない……」

 アリスは顔を上げ、次の「食料」を探し始めた。彼女は虚ろな目つきで老人を見ながら、ゆっくりとした口調で催促を始めた。

「お前、まださっきの、出来るでしょ?」

「え?え?」

「日本刀、刃物。早く作って。食べるから」

 アリスにそう催促されたが、老人は動くことが出来なかった。蛇に睨まれた蛙のように、身動きせず、どうやって逃げるかを考えるだけで、必死だったのだ。


「……ちっ。もういい」

 老人は安堵を感じた。「もういい」と、アリスは口にした。諦めたか、あるいは満足したのか。どちらにせよ、命は助かったようだ。ならば、早く逃げなければ。はやく、はやく、この得体の知れない怪物から逃げなければ。

 しかし、その希望は次の瞬間に打ち砕かれた。

「じゃあもう、お前を食うから」


 薄暗い部屋の中で、アリスの碧い瞳が輝いている。その眼光は、今まさに獲物を狩ろうとする、肉食獣そのものだった。犬歯を剝き出しにし、口元に歪んだ笑みを浮かべ、一歩づつ、静かに、老人へと近づいていく。老人は逃げた。無我夢中で逃げ出した。だが、駄目だった。あと一歩でドアに手が届くというところで、床板が壊れ、右足を取られてしまったのだ。


「じゅるり、じゅるり、じゅるり、じゅるり、じゅるり」

 アリスは涎を垂らし、舌なめずりをしながら、”獲物”へ近づいていく。

「じゅるり、じゅるり、じゅるり、じゅるり」

 老人は必死に足を抜こうともがく。だが抜けない。木の板が足に食い込み、「返し」になってしまっていた。

「じゅるり、じゅるり、じゅるり」

 アリスはもう、老人の目の前にいる。

「じゅるり、じゅるり」

 アリスの腕が、老人の首を締め上げた。

「じゅるり」

 老人は最後に、かすれた声で「たすけて」と言った。


「駄目!!」

 クラリスは叫び、アリスに背後から飛びかかった。それだけは駄目だ。それだけは止めないといけない。このままアリスがおかしくなっていくのを、黙って見ているわけにはいかない。わたしが止めないといけないんだ。アリスはもがき、クラリスを投げ飛ばそうとするが、クラリスは必死にしがみついて抵抗した。

「おじいさん、早く逃げて!」

 老人は呆けて座り込んでいたが、その言葉でハッと意識を取り戻し、無理矢理に足を床板から引き抜いた。木の破片で肉がずたずたに引き裂かれ、老人の右足はもはや使い物にならなくなってしまったが、彼は必死に足をひきずりながら、どこかへと逃げ去っていった。

「アリスお願い、元に戻って!」


 クラリスは何度もアリスに懇願するが、彼女は依然暴れ続けている。クラリスの悲痛な叫びは、アリスに全く届いていない。アリスは獣のようなうめき声をあげながら、クラリスを押し倒し、馬乗りになった。そしてそのまま、クラリスの両腕を床に抑えつけ、彼女の身動きを封じてしまった。

「アリス、やめっ……」


 部屋の中に、嫌な音が響いた。ゴリッという気色の悪い音が、クラリスの内部に響いた。それは、クラリスの右顔面が、アリスに嚙み砕かれた音だった。右の目玉が床にこぼれ落ち、クラリスの口から「やめて、やめて」と小さな悲鳴が、壊れた機械のように繰り返される。頭蓋骨が砕かれ、中に詰まった脳髄をすすられる。「やめて、やめて」左の目玉をえぐり出された。「やめて、やめて」唇を噛み千切られる。「やめて、やめて」強引にあごを外され、舌を噛み千切られる。


 クラリスの言葉は、そこで途絶えた。彼女にはもう、抵抗する力は残っていない。耳を嚙み千切られた。首を嚙み千切られた。肩を、腕を、腹を。全身を、食われていく。もう、終わりだ。もう、なにも考えられない。やがてクラリスの意識は真っ暗になり、ケダモノが人を貪り食う不気味な音だけが、部屋の中に響き続けた……。


次回へ続く……

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